ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

松村信吾の発掘ノート

掘っくり返し屋のノート『デヴィッド・フードの補足』・2

『2:ニュージーランドゴルフの始まりとデイヴィー伯父さん』 ニュージーランドのゴルフは1860年代末期には始動をしており、1871年に南島のオタゴで創立したダニーデンGC(オタゴGCの前身)と1873年にクライストチャーチのハグリーパークで創立したクライス…

掘っくり返し屋のノート『デヴィッド・フードの補足』・1

『1:調べた事と意外な事実』2014年以降筆者が消息を追っている戦前来日プロの一人David Hood(以下デヴィッド・フードと表記)についてこの数年で判明したことを記させて頂く 彼の事を調べていくにつれて以前の書き物で述べたように、彼はJGA百周年記念なり…

掘っくり返し屋のノート㉛『105年の霧の中から』・2

六甲山上にある神戸GCと横浜の根岸競馬場トラック内盆地にあるNRCGAではコースが何から何まで違うので、選手権や対抗戦の際はローカルナレッジが顕著になるのだが、掛け持ち会員が一定数いた為かあまり差が出ることが少なく、この年の様な展開は中々無かった…

掘っくり返し屋のノート㉛『105年の霧の中から』・1

日本のゴルフ競技史において、メジャー選手権でありながら空白となっている物がある。それは1917年9月23日に神戸GCで行われた日本アマチュア選手権の記録だ。JGA70年史の競技記録を見ると優勝者のG.A・ローパーの名とスコア74・73=147以外は不明になってお…

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・18

駒澤に集まるキャディ達は当初会員達の階層(日本の政財界の主要人物ばかりだ!)から行儀見習いとして来ていたが、ゴルファーに一番近い存在である彼等も駒澤雀達が愉しんでいるのを見て、ゴルフに興味を持ち、他のコースの同胞達同様ゴルフ遊びを開発しだ…

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・17

1922年4月19日に駒澤で行われた摂政宮(以下昭和天皇)と英皇太子プリンス・オブ・ウェールズ(エドワード八世、以下英皇太子)との親善マッチは国内ゴルフ史に於いて一大トピックであった。というのも、イベントから国内でゴルフというスポーツの存在が広く…

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・16

駒澤でゴルフクラブが造られ出したのは1920年。この年の初夏から夏にかけてSt.アンドリュース出身のトム・ニコルが当時米領のフィリピンからやって来て、同地に短期所属した際の事だ。※アメリカの新聞にはニコルはコース設計(軽井沢GCの事だろう)でも呼ば…

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・15

唄の題材にもなった大正12年9月1日の関東大震災は京浜を中心に甚大な被害をもたらし駒澤も被害からは逃れられなかった。当時職業ゴルファーとなっていた安田幸吉によると、午前中は雨が降っていて、クラブの手入れをしながら“お客も来ないから午後にプレーを…

掘っくり返し屋のノート㉚『補記・幻の国産ボール第一号』

2020年9月にアップした『幻の国産ボール第一号』について新事実が判明したのでそれを記してみたい前回の時は1929年に運動用具店でマグレガーの東洋総代理店であったイシイカジマヤの社長石井純一とゴム会社に勤め関東大震災前に国産ゴルフボールを造ろうとし…

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・14

駒澤に雀たちが集まり出した頃の事。彼らはプレーに試行錯誤し、用語なども判らないのと同様に、ルールの方も解らない状況が暫くあった様だ。何しろコースに芝張りをしてそれほど経ってない時に、兎角ノータッチにせねば成らない。と張り合わせの隙間に挟ま…

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・13

東京GCは女性ゴルファーのプレーも早かった。先輩倶楽部で、外国人が主体であった神戸GCや根岸のNRCGAは女性のゴルフを早くから行っていたし、後者は『NRCGAの』と云うべきだろうが、女子ゴルフ協会を造っていた位である。 外国人女性達もゴルフを行いリベラ…

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・12

駒澤雀達のプレーの手助けをしていたキャディであるが、地元駒澤の少年らが務めており、『お小遣い稼ぎ』というよりもプレーヤー達の階級から、行儀見習いとしてコースにやってきていた。小学生のころから父に連れられて出入りをしていた鍋島直泰(日本Am三…

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・11

大正期の駒澤では、風雨降雪などでプレーが出来ない日でもクラブハウスに駒澤雀達が大勢集まっている事がよくあった。これは雀の一人1921年度日本Am勝者の田中善三郎曰く、『誰それのクラブが自分には使いやすそうだ』というチェックに来ていたそうで、全員…

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・10

駒澤のコースは開場当初クラブハウスが無かったが、直後にクラブハウスとして大正博覧会の際に建てられた迎賓館を調度品込みで建設費の15分の1程という格安で払い下げてもらい(今の価値では1800万~2400万円位か、しかし分解と運搬・組み立てて3倍以上の値…

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・9

駒澤が開いてから数年間、会員たちを教える明確な専門職が居なかった。コースが在り、ゴルファーが居てもコーチがいないというのは中々困ったものである。(開場の頃、苦闘時代の福井覚治がゴルファーの多い東京GCへの単身赴任を考えていた。と夫人が彼の七…

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・8

初期の駒澤に集まった面々は海外でゴルフを習った者を除くと皆独学でゴルフを覚えている。何せ開場式の時(川崎肇曰く当日は雨であったので1・2・9番のプレーであったという)に、9番ホールで森本某という会員のマッシーショットがキチンと宙を飛んでいるの…

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・7

相馬の様にコースの傍に別宅を構える人がいるだけでなく、暇があれば(一日おきにでも)コースに詰めかける人たちというのも相当数いたが、さらに上を行く皆勤賞の者達がいた。 我孫子GC創立者の加藤良がそれに当たり、他にも徳川慶喜の七男で軽井沢GC創立に…

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・6

2で書いた相馬孟胤は1920年代に入ってからの駒澤における熱心者であった。 もともと彼は1922年に宮内庁職員として、勤務地である新宿御苑内の皇族及び宮内省関係者用コースで来日プロのダヴィッド・フードからゴルフを覚えた人物で、翌年朝香宮御用掛として…

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・5

駒澤が開かれる前の話、横浜正金頭取の井上準之助を中心にニューヨーク界隈でゴルフを経験した現地邦人社交クラブ『日本倶楽部』会員や、東京ローンテニス俱楽部会員、そして彼らが在籍していた社交クラブ『東京倶楽部』会員らによって、日本人がゴルフを愉…

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・4

初期の駒澤のバンカーというものは、今の物とそう変わらない物が設置されていたのだが、この他に何というべきか、現在筆者たちがコースで見ている物とは形を異にした物が存在した。しかし当時としては珍しいものでもなかった。それは、本来の意味で使われるB…

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・3

初期の駒澤のコースのヤーデージは、9ホールに成った頃で2000~2300yd、1916年時で300yd越えのホールが3つ、中間の距離(210~250yd位か)のホールが3つ、マッシーショットのホールが3つ(今のパー3)、(『The Bunker』1月号より)。1918年秋で361・135・553・…

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・2

開場当初は芝がなく土壌も芳しくなかったコースも年を追うごとに改善していき、1918年に日本アマチュアを開催した頃には東アジアでもトップレベルのターフとグリーンを持ったパークランドコースとして知られるようになった。ここに至るまでは会員やグリーン…

春はまだ遠いけど

まだ、しっかり冬眠中。凍ったフェアウェイでゴルフをやるなんて、今の俺にはあり得ない。 テレビ中継で海外のゴルフを見ても、「あれは全く他人事で、自分のゴルフには全く全然関係ない」って気持ちしか無くて。 加えて、そろそろ花粉が飛び出しそうだし、…

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・1

日本で最初の日本人による日本人のためのゴルフ倶楽部であった東京GC。最初にコースがあった駒澤には熱心者たちが集まり、あれやこれやの珍談奇談が残されているので幾つか紹介してみよう※この話は当時の記録や回想等から構成されているが、会話等は記録に載…

掘っくり返し屋と胡桃の木『ヒッコリーゴルフのイベントについて』

筆者がヒッコリーゴルファーである事は、大叩き氏の文からお気付きの方が居られる事だろう。2009年頃から本格的にやっているので今のヒッコリーゴルフ界の流れの中では古株になり、大きなイベントにも皆勤賞ではないが、2014年から大半のモノに出場している…

掘っくり返し屋のノート㉗『戦前国内で発行されたゴルフ雑誌』

先に西村コレクションについての書き物で戦前の国内資料が沢山あった事に筆者がショックを受けたことに触れたが、戦前国内でどの様なゴルフ雑誌が出ていたかを紹介と共にちょっと記してみたい。 ・『The Bunker』 根岸の日本レースクラブGA会員チャールズ・…

掘っくり返し屋の憤懣『死蔵の西村コレクション』

―始めに―この度の題材は筆者の憤懣事となるため、読者の方々がご不快に思われてしまうやも知れない事を前もってお詫びいたします。 日本のゴルファーの方々で西村コレクション。と云って『あれだね』とご存じなら歴史やゴルフ蔵書にお詳しい方々であろう。こ…

掘っくり返し屋のノート㉗『新説第一回日本オープン』

第一回日本OPは、赤星六郎という日本のゴルフ全般の発展に大いに貢献した伝説的名手が、当時競技ゴルフに参加し始めたプロを歯牙にもかけず二位に十打差をつける圧倒的なプレーで、同大会唯一のアマチュア勝者としてゴルフ史に記録されており。大会を主催し…

掘っくり返し屋の思案 『縦の糸横の糸 正しい歴史とは』

正しい歴史。というと世間では大日本帝国時代の海外統治や日中~太平洋戦争における加害認識問題という、史学にイデオロギーが絡んだ事柄が結び付きやすいが、ここで書くのは大日本帝国時代ではあるが国内のゴルフ史に関する問題である。 以前赤星四郎のアメ…

掘っくり返し屋のノート㉖ 『戦前の来訪外国人プロゴルファー芳名帳』 その3

デイヴ・ブラック(1883~1974)1923年前後に思案トルーン出身の兄弟プロの一人で、バンクーバーのショーネッシー・ハイツGCで働いていた。彼の兄弟もアメリカ西海岸で働いており。ジーン・サラゼンと1922年の全米OPで優勝争いをしたジョン・ブラックは彼の兄…