ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・14

駒澤に雀たちが集まり出した頃の事。彼らはプレーに試行錯誤し、用語なども判らないのと同様に、ルールの方も解らない状況が暫くあった様だ。
何しろコースに芝張りをしてそれほど経ってない時に、兎角ノータッチにせねば成らない。と張り合わせの隙間に挟まったボールをせっかく植えた芝ごと打ち飛ばしていた様な話が残っているのだから。

ルールが充分解っていないという事は、内輪でのプレー―ならば御目溢しが在ろうが、他の倶楽部に出かけて競技に出たり、対抗戦で戦うとなると当然厄介な状況を巻き起こす。

 横浜根岸で行われた1916年の日本Amで初めて日本人が参加した。プレーヤーの名は一色虎児。
商社マンとしてアメリカ滞在中にゴルフを覚え、前年帰国した際に駒澤雀の一員と成った人物で、この挑戦では川崎肇や高木喜寛などが応援に会場へ同行している。
 結果は98・102の200で優勝した上海のバレット大尉に43打差のビリから2番目というモノであった。この理由として、試合が台風直撃下に予選が行われた1931年大会まで最悪のコンディションと云われる土砂降りの中で行われていた為と見るべきであろうが、それだけでなく他の外国人プレーヤー達から『球が動いた』とか『スコアが違う』等、嫌がらせ的クレームを度々受けた為実力を発揮できなかった。という話も伝わっている。

アメリカ仕込みで、俱楽部の主要選手で在った彼がそういう目に遭ったというのならば、他のプレーヤーではどんな事になったか。駒澤雀側のルール認識の甘さと外国人プレーヤー(特に横浜の面々)らの差別心が混じった侮りが化学反応を起こしトラブルも度々起きたらしい。
この日本Amの後、会場であった横浜根岸のNRCGAでキャプテンカップが行われた際の事、掛け持ち会員であった駒澤雀の高木喜寛はハンディ15ながら調子が良くトントン拍子で決勝まで進み、縁深いG.G・ブレディと当たった。
丁度これを報じていた『The Bunker』は準決勝の結果を記した所で廃刊してしまい、勝負の内容は判らなくなってしまったが、決勝の日に行われた東京GCの在英大使歓迎イベントの記事の中で優勝した高木がそのまま駒澤に駆けつけている事が『Japan Times』の記事に掲載され、それが『The Bunker』最終号である1916年11月号に転載されている。

試合について高木が1930年2月にパイオニア座談会(この部分は『Golf Dom』1931年1月号掲載)、1931年に雑誌『Golf(目黒書店)』(同年11月号掲載)で語った所によると
試合中ラフから打った際に『ボールが動いてたよ』とクレームがあり、ペナルティを取られてそのホールを落としてしまう。それでも好調をキープし遂に優勝するのだが、最終ホールでのパットが決まった際、クラブハウスに居た輩がそれを見るやグリーンの方へやって来て『お前はパットする時にボールを動かしただろ、アゲインストルールだ!』と難癖を付けてきた。
“そんな事してないのにコイツは何を言ってるのだ”とアタマに来た高木は『動くワケ有るか‼』と抗議の声を上げた。
幸いそれでその場は収まり、自身の優勝も変わらねども、彼にとってこの日は勝利を喜ぶと同時に、ゴルフ規則の面倒さと喧しさを実感する一日と成ったのである。

この話は『Golf(目黒書店)』の編集記者でJGA事務局長を務めた史家の小笠原勇八によって後年『週刊パーゴルフ』における長期連載『真相日本のゴルフ史』第三話(1979年11月13日号)で、これは1916年の東横対抗戦に於ける出来事で、外国人ゴルファーの横暴に日本人ゴルファーが耐え忍び、こういった所からJGA創立へと繋がって行った。と書き、JGAや東京GCの年史などに引用されてきたが、当の高木本人は
『然しインポータントの競技で日本人が勝つたのは此時が始めてゞ西洋人も機嫌が悪いので祿々グッド バイもする事も出来ず歸つた事がある。(笑聲)』(原文ママ
とパイオニア座談会で語っている事から、小笠原が云う様な『屈辱に憤慨する』というよりも『厄介だったが懐かしき思い出』といった感じだ。

とはいえこのようなトラブルが続くのは今後の為に成らない。当然ルール研究が始まり、特に熱心に行っていたのは大谷光明で、鍋島直泰(日本Am3勝)によると『よくイギリスのゴルフ雑誌などを読んで勉強されていた。まるで仏学者が、仏典の解釈するのに似たひたむきなところがあり『それは何条の何項だ』と即座に答えが返ってきたものです』とのことで、
大谷本人もR&Aに数えきれないほど質問状を送ったことを述べており、松本虎吉の国内最初のルールブックの翻訳校正の協力に始まり、大競技における競技委員としてルール解説や、日本のルール研究の大著『ゴルフ規則と判例』刊行、JGAの公式ルールブック制定委員の一人として日本人ゴルファーが判り易い表現をどうするか議論と練り上げを行うなど『ルールの神様』として、亡くなる直前まで日本ゴルフ界に欠かすべからざる存在として頼られていた。

そんな彼が第一線の競技者からルール研究者へと移行していた頃に『Golf(目黒書店)』の取材で『僕はルールの無知なるが故に競技に破れるといふ事は嫌だから随分勉強もし、又非常に興味を持ってゐる(1933年3月号)』と語っている所から、やはり当時の駒澤で色々あったのは間違いなさそうだ。

 

 

 

主な参考資料
・ゴルフ80年ただ一筋(第二版) 安田幸吉  ヤスダゴルフ 1991
・わが旅路のファウェイ安田幸吉ゴルフ回想記 井上勝純  廣済堂出版1991
・人間グリーンⅣ 小坂旦子・三好徳行   光風社書店 1978
・『東京ゴルフ倶楽部(会報)』2014年冬季号-100周年特集号
・『INAKA第五巻』11章『 Golf In Japan』 収録North-China-Daily News P.N Hindie
『Rokkosan A Thing of Beauty and a Joy for Ever』 1916
・『INAKA第十巻』掲載『Golf of Yedo』 1919
・『東京』1917年5月号 法学士くれがし『ゴルフ物語』
・『野球界』1919年12月号 鈴木寅之介 『ゴルフ遊戯に就いて』
・『婦人公論』1929年8月1日号 『東西婦人ゴルファ』より室町英二『東京の名流婦人とゴルフ』
・『東京朝日新聞』1922年12月20日朝刊五面
・『東京日日新聞』1928年5月29日
・『Golf Dom』1923年6~8月号『So This is Golf!(1)~(2)』
・『Golf Dom』1923年9月号、『東京より』
・『Golf Dom』1923年10月号『19Th HOLE.』
・『Golf Dom』1924年1月号『駒澤通信』内『キャデ井ーの競技』
・『Golf Dom』1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
・『Golf Dom』1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
・『Golf Dom』1943年10月号犬丸徹三『駒澤回顧』
・『Golf(目黒書店)』1931年11月号高木喜寛『ゴルフ発祥の時代』
・『Golf(目黒書店)』1933年2月号大谷光明『ゴルフ思出の記(二) 六甲から駒澤へ』
・『Golf(目黒書店)』1933年3月号大谷光明『ゴルフ思出の記(三) 駒澤をひらいた頃』
・『近代ゴルフ全集1』収録、田中善三郎『ゴルフむかし話』 中央公論社 1959
・『Golf(報知新聞)』1954年4月号 『ゴルフ鼎談』
・『ゴルフマガジン』1969年1月号 人物めぐり歩き 「中村(兼)ゴルフ商会」社長中村兼吉 元プロゴルファーがつくるクラブの味
・『週刊パーゴルフ』1979年11月13日号 小笠原勇八『真相日本のゴルフ史3』
・『夕刊フジ』 人間グリーン257 鍋島直泰12『古く懐かしきキャデー』
・『夕刊フジ』 人間グリーン263 鍋島直泰18『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(上)』
・『夕刊フジ』 人間グリーン264 鍋島直泰19『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(下)』
・『夕刊フジ』 人間グリーン271 鍋島直泰26『忘れえぬ人・大谷光明さん(上)』
以上資料はJGAミュージアム及び同本部資料室、国立国会図書館昭和館で閲覧他、筆者蔵書より
・『Omaha daily bee』 1920 年8月22 日『Sports and Auto』より『Nicoll to Japan』
・『New York tribune』 1921年 3月27日Ray McCarthy 『Tow Japanese Brothers Loom As Golf Stars Princeton Pair Regarded as Coming Championship on From in Florida Tourney』
以上資料はアメリカ議会図書館HP、Chronicling America Historic American News Papersより閲覧

・『Referee』1923年11月14日『GOLFING IN JAPAN David Hood Instructor to the Prince Regent』
以上資料はオーストラリア国立図書館HP、TROVEで閲覧


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)