ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・13

東京GCは女性ゴルファーのプレーも早かった。先輩倶楽部で、外国人が主体であった神戸GCや根岸のNRCGAは女性のゴルフを早くから行っていたし、後者は『NRCGAの』と云うべきだろうが、女子ゴルフ協会を造っていた位である。

外国人女性達もゴルフを行いリベラルな地域とみられていた関西は、日本人女性のゴルフとなると何故か排他的で、名ピアニストとなった小倉末子が1907年に女性プレーヤーの先鞭をつけた後は1918年の住友孝子が二人目とされており、続く名手西村マサが始める時には(夫が“神戸の名物男”と言われる奇才であったことも関係して)街中の噂に成ったり、一緒にプレーしてもらう際に男性ゴルファー達から反感が在ったりと、色々大変であった話を語り残している。
一方東京GCは会員たちにニューヨークの日本人会でゴルフを覚えた者が多いためか、関西よりも理解が早かったようだ。

駒澤雀となった女性の一番最初が西園寺八郎夫人の西園寺新(新子)、次いで赤星鉄馬夫人の赤星文子だったそうで(1930年のパイオニア座談会で川崎肇談)、1919年に『野球界』12月号のゴルフ紹介記事でも両人が紹介されている。
彼女らの夫は創立メンバーなので関西の住友孝子よりも早くに行っていた可能性が高い。
そしてこの二人に続いた白石多士良夫人の白石嵯峨子、古沢仗作夫人、門野九重郎夫人の門野理代子らが関東女子ゴルフのパイオニアであろう。

この初期の女性ゴルファー達についてニューヨーク在住の邦人ゴルファーの間で次のような話が伝わっていた、『東京GCに来る女性たちは着物袴に襷掛けでゴルフをしているらしいよ』と。
大河ドラマ『いだてん』でご覧になった読者諸兄もおられるだろうが、大正初頭~半ばの当時は、女学生などが着物に袴ブーツ姿でテニス等の“運動”をしていた時代であるから取り立てておかしくはない。
 ただ、1922年暮れにアメリカから帰国の途に就いていた、後に西村マサと共に日本の女子ゴルフ界の双璧として活躍する三井栄子(さきこ、岸和田藩主の家の出で、三井物産役員三井弁蔵夫人)は客船上でその話を聞いて『日本のゴルフは変わっているな』と思う事に成った。

三井はアメリカ滞在中テニスを行っていたが、友人から『いつまでも出来るわけでないから』ゴルフを勧められこの年に開始。初めて廻った際にハーフ60を出しプロから才能があると褒められ、帰国までの間熱心にプレーをしていた。
そんなことも有り、三井夫妻は帰国後直ぐ東京GCに入会をしたが、いざコースに出てみると集まっている女性ゴルファー達の姿は着物ではなくアメリカのゴルフ場同様洋装であった為『あら?』と気抜けがした。

何でそんな噂が立ったのかというと、関東の邦人女性ゴルフパイオニアの西園寺新が駒澤でプレーを始めたときに袴に襷掛けでやって居たのだが、これを見た者がアメリカに行った(もしくは戻った)際に輪に輪をかけて吹聴したのが真相らしい。
が、異説として三井の娘で、戦後女子ゴルフ界で活躍した小坂旦子が母から聞いた話として倶楽部創立者である井上準之助の夫人が着物でプレーをしていたと回想している。

なお、このころの駒澤雀のご婦人連の格好というのは長袖にブラウス、冬場はカーディガンやセーター、初期のころはスカートの丈が長いが1920年代半ば~後半には膝丈のものを履き、帽子はクローシェ帽やボンネット(大黒帽)を被っている。
因みに袴ゴルフの噂を訝しんだ三井がゴルフを始める際、慣れ親しんだテニスウェアを転用したという話を、筆者は彼女から話を伺った福島靖氏(東京ゴルフ倶楽部資料室顧問)からご教示頂いたことがある。

三井が東京GCでプレーを始めた少し後に摂政宮(昭和天皇)と英皇太子(エドワード八世)の親善マッチが行われたのだが、これに触発され、加えて関東大震災後の“旧弊を廃するモダンガール”の登場という世相も合わさり会員の夫人達が『ゴルフを真剣にしようではないか』と駒澤に集まり、鮮やかな群雀となって行った。
そして女性ゴルファー達の数と技術が上ってきたことから、1926年に三井が前年結成された関西婦人ゴルフ倶楽部の主要メンバーである西村マサに対抗戦を行う事を申し込み、5月に東西婦人対抗戦が行われる事となった。
これが契機でゴルフの宮様として知られた朝香宮鳩彦王と共にゴルフを愉しまれていた朝香宮妃充子内親王が総裁となって同年9月東京婦人ゴルフ倶楽部を結成し、駒澤の婦人ゴルフ熱は上がっていく。

なお先の駒澤に集ったパイオニア五名の足跡について記すと、西園寺は風邪気味の際に無理を押してプレーをしたことが要因でスペイン風邪に罹り(息子の西園寺公一記述)1920年に34歳の若さで早逝し、赤星は夫の応援(関東大震災後に建てた邸宅の庭にグリーンとバンカーを設置してくれた)もあり、関東を代表するゴルファーとして東西対抗戦に活躍したほか、後に自分で車を運転しコースに通っていた事から駒澤村の人々に『ゴルフの奥様』として良く知られる様になっている。
白石も東西対抗戦のメンバーとして活躍しているが、門野は1920年代後半に箱根の仙石ゴルフ場の支配人的ポジションかつ国内女性初のゴルフ場キャプテンに就き、同地のゴルフ発展に大きな貢献をしている事が当時の『Golf Dom』で窺い知ることが出来、古澤は余り記録が無いが、1929年10月に仙石のリニューアルオープン時に行われた女性のみの開場競技会で朝香宮妃殿下をプレーオフで破り優勝した事でゴルフ史に名前を残している。

 

 

 

 


主な参考資料
日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂 1995(復刻第二版)
The Bunker 1915年12月号~1916年11月号
阪神ゴルフ合本(1922年4~6,9月号全四号)
・東京ゴルフ俱楽部50・75・100年史 1964,1991,2015 
・『東京ゴルフ倶楽部史料室だより№4 東京ゴルフ倶楽部朝霞コースの全て』2007
・『東京ゴルフ倶楽部(会報)』2014年冬季号-100周年特集号
・『INAKA第五巻』11章『 Golf In Japan』収録 North-China-Daily News Hindie筆
『Rokkosan A Thing of Beauty and a Joy for Ever』 1916
・『INAKA第十巻』掲載『Golf of Yedo』 1919
・『野球界』1919年12月号 鈴木寅之介 『ゴルフ遊戯に就いて』
・『婦人公論』1929年8月1日号 『東西婦人ゴルファ』より室町英二『東京の名流婦人とゴルフ』
・『東京朝日新聞』1922年12月20日朝刊五面
・『Golf Dom』1923年6~8月号『So This is Golf!(1)~(2)』
・『Golf Dom』1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
・『Golf Dom』1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
・『Golf Dom』1934年10月号 C記者『森村市左衛門氏にゴルフを訊く』
・『Golf Dom』1935年3月号『ゴルフ漫談 田中善三郎氏との一問一答』
・『Golf Dom』1937年8月号及び9月号『ゴルフ規則を訊く』
・『Golf(目黒書店)』1931年11月号高木喜寛『ゴルフ発祥の時代』
・『Golf(目黒書店)』1932年2月号及び3月号『ゴルフ座談会』
・『Golf(目黒書店)』1933年2月号大谷光明『ゴルフ思出の記(二) 六甲から駒澤へ』
・『Golf(目黒書店)』1933年3月号大谷光明『ゴルフ思出の記(三) 駒澤をひらいた頃』
・『近代ゴルフ全集1』収録、田中善三郎『ゴルフむかし話』 中央公論社 1959
・『夕刊フジ』 人間グリーン257 鍋島直泰12『古く懐かしきキャデー』
・『夕刊フジ』 人間グリーン263 鍋島直泰18『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(上)』
・『夕刊フジ』 人間グリーン264 鍋島直泰19『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(下)』
・『ゴルフ80年ただ一筋(第二版)』 安田幸吉  ヤスダゴルフ 1991
・『わが旅路のファウェイ安田幸吉ゴルフ回想記』 井上勝純  廣済堂出版1991
・『人間グリーンⅣ 小坂旦子・三好徳行』   光風社書店 1978
資料はJGAミュージアム及び同本部資料室、国立国会図書館昭和館図書室で閲覧他、筆者蔵書より

参考サイト(本文2の執筆で閲覧)
鹿島建設ホームページより 鹿島の軌跡~歴史の中から見えてくるものがある~ 第25回『東京ゴルフ倶楽部と朝霞コース―日本初の常緑芝のゴルフ場(2009年4月28日公開)』
・Sports Network Japanホームページより Sports Advantage Vol.708-1 (017年3月13日公開) 岡邦行『原発禍!「フクシマ」ルポ87』
・鹿島カントリー倶楽部ホームページより『鹿島カントリークラブの施設ご案内』

 

 


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)