ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・5

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駒澤が開かれる前の話、横浜正金頭取の井上準之助を中心にニューヨーク界隈でゴルフを経験した現地邦人社交クラブ『日本倶楽部』会員や、東京ローンテニス俱楽部会員、そして彼らが在籍していた社交クラブ『東京倶楽部』会員らによって、日本人がゴルフを愉しめる場を造ろうと、東京ゴルフィングアソシエーション(東京GA,東京ゴルフ会とも)を結成してゴルフコースを造る為の用地探しをしていた際の話。

用地が駒澤に決まったという理由に、同地に住んでいた帝国ホテル初代支配人の林愛作が『居住地の隣にコースになる場所がある』と井上らに進言をした為という話がある。
というのも林は1899年頃にアメリカでゴルフを始めた日本人ゴルファーのパイオニアの一人で、帰国後明治末年に駒澤周辺でコースを造ろうと個人で動いていて、土地契約目前まで行きながらタイミングを失し断念した経験があり、進言した土地も購入が出来ないか交渉をした話を後に『Golf Dom』で語っているので、個人では無理でも団体でならば。と情報提供をしたのだろう。

紹介された大切山と呼ばれる雑木林を中心とする敷地の地主さんは自分の土地を歩いて横浜に行ける。と言われた秋山紋兵衛。元禄時代から油商を営む家の当主で、土地交渉をした林によると名代の頑固者であったという。
交渉の結果秋山と三田市太郎、三田弥三郎ら三人の地主さんと1913年10月1日から満十ヵ年、三万五千坪の借地契約の調印を行う所まで進んだのだが、彼らは井上の家で調印をしたい。と云ってきた。

 井上としては自身が頭取である正金のオフィスでやる方が良いのに。と思っていたのだが、彼らは『是非とも』という。
 というのも地主さん達は『任意団体 東京ゴルフ会 井上準之助』という名義での契約に、“聞いた事もない団体からの借地契約持ちかけ、山師に土地を何かされてしまうのでは無いか?”と警戒し、井上がどの様な人物かを見極めようとしたのだ。
 井上は彼らの要求を『それならば』と呑み、麻布三河台にある自邸に招待をした。調停当日、地主さんたちが井上邸を訪れると大名屋敷のような大門を備え付けた立派な邸宅、地主さん一同それを観て『これならば大丈夫だ』納得し、契約は無事締結した。
また、この時に創立会員の高木兼二の東京病院院長の肩書よりも彼が大森に持っていた小規模な桐畑が地主さんの信用に値した。という話も駒澤雀達に伝わって行った。

土地の使用料については井上が『田舎だから10年たってもそんなに開けないと思いますよ』と述べて値段(一坪五厘、8年毎の交渉でレート変更)が決まり、東京GAは地代確保の為出資金を横浜正金の定期預金としてその年利で支払えるようにし(神戸の水道公債を購入しその年利を当てたとも)、新たに発足した東京GCに無償土地貸し出し契約が行われコース造成が始動した。のだが、土地契約の際の井上の言葉が後々問題になった。

というのも当時の駒澤は1907年に開通した玉川電鉄により、郊外の住宅地として目が付けられ出しており、契約からコース造成の頃はそれほどでもなかったが次第に発展が始まり、4~5年後にコース向かいに出来た三井社員のレクリエーション施設の借地代がコースの七倍となっていた為、地主さん等から『井上さんに一杯食わされたぞ』と不満が噴出し、
 契約更新の際の地代の値上げ交渉が激しくなるわ、コース拡張の為の借地契約が中々決まらなくなる等の後難が起きたのは、後に大蔵大臣として金解禁を行い直後の世界恐慌による混乱から失敗と成ってしまった事と同様に、経済人井上の読みの外れと云うべきか。
それとも出資を抑える為、地主さん達に間接的に一杯食わすような言をしてしまったのか、真相は歴史の彼方に消えてしまっている。

 


主な参考資料
日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂 1995(復刻第二版)
The Bunker 1915年12月号~1916年11月号
阪神ゴルフ合本(1922年4~6,9月号全四号)
・東京ゴルフ俱楽部50・75・100年史 1964,1991,2015 
・『東京ゴルフ倶楽部史料室だより№4 東京ゴルフ倶楽部朝霞コースの全て』2007
・『東京ゴルフ倶楽部(会報)』2014年冬季号-100周年特集号
・『INAKA第五巻』11章『 Golf In Japan』収録 North-China-Daily News Hindie筆
『Rokkosan A Thing of Beauty and a Joy for Ever』 1916
・『INAKA第十巻』掲載『Golf of Yedo』 1919
・『野球界』1919年12月号 鈴木寅之介 『ゴルフ遊戯に就いて』
・『婦人公論』1929年8月1日号 『東西婦人ゴルファ』より室町英二『東京の名流婦人とゴルフ』
・『東京朝日新聞』1922年12月20日朝刊五面
・『Golf Dom』1923年6~8月号『So This is Golf!(1)~(2)』
・『Golf Dom』1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
・『Golf Dom』1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
・『Golf Dom』1934年10月号 C記者『森村市左衛門氏にゴルフを訊く』
・『Golf Dom』1935年3月号『ゴルフ漫談 田中善三郎氏との一問一答』
・『Golf Dom』1937年8月号及び9月号『ゴルフ規則を訊く』
・『Golf(目黒書店)』1931年11月号高木喜寛『ゴルフ発祥の時代』
・『Golf(目黒書店)』1932年2月号及び3月号『ゴルフ座談会』
・『Golf(目黒書店)』1933年2月号大谷光明『ゴルフ思出の記(二) 六甲から駒澤へ』
・『Golf(目黒書店)』1933年3月号大谷光明『ゴルフ思出の記(三) 駒澤をひらいた頃』
・『近代ゴルフ全集1』収録、田中善三郎『ゴルフむかし話』 中央公論社 1959
・『夕刊フジ』 人間グリーン257 鍋島直泰12『古く懐かしきキャデー』
・『夕刊フジ』 人間グリーン263 鍋島直泰18『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(上)』
・『夕刊フジ』 人間グリーン264 鍋島直泰19『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(下)』
・『ゴルフ80年ただ一筋(第二版)』 安田幸吉  ヤスダゴルフ 1991
・『わが旅路のファウェイ安田幸吉ゴルフ回想記』 井上勝純  廣済堂出版1991
・『人間グリーンⅣ 小坂旦子・三好徳行』   光風社書店 1978
資料はJGAミュージアム及び同本部資料室、国立国会図書館昭和館図書室で閲覧他、筆者蔵書より

参考サイト(本文2の執筆で閲覧)
鹿島建設ホームページより 鹿島の軌跡~歴史の中から見えてくるものがある~ 第25回『東京ゴルフ倶楽部と朝霞コース―日本初の常緑芝のゴルフ場(2009年4月28日公開)』
・Sports Network Japanホームページより Sports Advantage Vol.708-1 (017年3月13日公開) 岡邦行『原発禍!「フクシマ」ルポ87』
・鹿島カントリー倶楽部ホームページより『鹿島カントリークラブの施設ご案内』

 


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)