ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・16

 

駒澤でゴルフクラブが造られ出したのは1920年。この年の初夏から夏にかけてSt.アンドリュース出身のトム・ニコルが当時米領のフィリピンからやって来て、同地に短期所属した際の事だ。
アメリカの新聞にはニコルはコース設計(軽井沢GCの事だろう)でも呼ばれたとある。また、ボール等の用具提供をしていた初代キャディマスターの山田某や、最初の来日プロ、S・グリーンも(所属の上海GCでクラブを造っているので)クラブの修理などを行っていたのでは。と推察されるが、明確な記録がないので1920年起源説を取る。

当時キャディマスターであった安田幸吉曰く、ニコルはクラブのパーツや工具も持ち込んでいたので、レッスンが無い時や雨天の際などはクラブ製作を行っており、その際には安田を呼んでシャフトの磨き上げなどを手伝わせた。 
(筆者はヒッコリーゴルファー所有のニコル発注アイアンの組み立て直しを行ったがあるが、国内で入手された物だったので、駒澤時代の品かもしれない)

安田も最初は半強制的にやらされていたが、次第にニコルの技術や手際の良さに魅入られて、彼から修理製作技術を手取り足取り教えてもらい、ニコルが駒澤を離れる時には工具一式を譲り受け、クラブの修理製作を始める事となった。

が、最初は作業場が無かったそうで、クラブハウスの一角に作業台を置いて安田やアシスタントとなる浅見緑蔵がクラブを弄っており、造ったウッドも糸でグルグル巻いたような仕上がりであったと。と1937年初頭に『Golf(目黒書店)』の企画で行われた国内クラブ・ボール両メーカーの座談会(2~3月号掲載、安田・浅見と中村兼吉らプロも参加)で述べられている。
それが1925年の赤星六郎の帰朝と入会に端を発するゴルフ全般の最新知識啓蒙から、東京GCに於けるプロの立場が明確化された事により、敷地にプロショップが建てられ仕事がし易くなり製作にも弾みがついた。

同時にクラブの修理製作が出来る者が登場した事により、東京一円の百貨店や1925年からマグレガーの東洋総代理店をしていたイシイカジマヤの様なゴルフ用品取り扱いのスポーツショップ等が、クラブの日本人向け調整や修理依頼に応える様になるべく、安田の許を訪れてその技術を学び、中にはイシイカジマヤ従業員で後にマツダゴルフを興す松田久一の様に安田と事業を行うなど公私において長い付き合いをする者も現れている。
※1910年前後から東京の運動用具製造販売業者たちがゴルフ用具に興味を示し、研究開発をしているが、直接のつながりは無かったようだ。

また安田は1927年に相馬孟胤からの依頼で昭和天皇の為のドライバーを製作しているが、この事は日本のゴルフ史・クラブ製造史上に於いて注目すべきことだろう。
(J.H・テイラーを始め海外のプロやクラブメーカーが昭和天皇や皇族の為にクラブを造った話は色々残っているが、国内プロで天皇の為に造った記録がハッキリ在るのは彼くらいだ)
安田は戦前期の関東のクラブメーカー達に影響をあたえており、関西クラブメーカーの祖である福井覚治や佐藤満と共にゴルフ用具製造史上のキーパーソンであるが、その始まりが“異人さんのプロ”から半強制的にやらされたシャフト磨きである事は物語的でもある。

と、ここまでは国内クラブ製造史関東編の1ページであるが、リアルタイムの出来事としては、こうクラブを色々と出来る者が倶楽部にいれば当然駒澤雀達は放っておかない。
当時主流であったヒッコリークラブはシャフトの反り・曲がり、ネック糸やグリップの緩み、アイアンヘッドの錆及びウッド・アイアンのホーゼルガタ付き等々ガタが出ることが在るので、安田が回想記で語る様にそれらの手入れや修理で中々忙しかったというが、それと同時にクラブを『ああしてくれ』、『こうしてくれ』調整を持ち込む熱心者がショップとクラブハウスを行き来する様になった。

日本郵船の林民雄はコースに来るたびにウッドの重量調節を求め、安田は鉛を叩いて造った板を張り付けたり外したりを繰り返した(当時ウッドは鉛をバックフェースに入れるのが一般的であったので、それを変にいじらない様にする為だったのだろう)。
名手赤星四郎も1920年代後半にはクラブフェースのトウやヒールをどう削るか(ウッドならばバルジの付け方で在り、アイアンならエッヂラインの流れだろう)の調節などを熱心に行い、安田が『赤星様程弄る方は在りません』と語っていたと1931年12月に雑誌『Golf(目黒書店)』の企画で行われた関東の第一人者らの座談会で相馬孟胤が述べている。

※筆者も先日アメリカ議会図書館HPの新聞アーカイヴで発見したのだが、1921年3月に赤星四郎・六郎兄弟が冬季フロリダ選手権に参加した際、彼らのゴルフを報じた記事の中にゴルフ全般を学ぶため会場のSt.オーガスチンGCのアシスタントプロ兼クラブ職人の下でクラブの修理製作を学んでいた事が書かれている。
赤星兄弟が後に国内クラブメーカー等に製作のアドバイスをしている事を考えると色々こだわりがあったのだろうし、ただ注文するのではなく一緒に作業場に籠っていたのだろうか?

云われた赤星は『それがモッと酷くなったのが相馬さんで一日の中でどれだけ直されるか判らないそうだ』
とやり返しているが、この類で特に酷かったのが駒澤の仲間、徳川誠(徳川慶喜九男、男爵)だそうで、彼はシャフトの調節に夢中になったらしく、
一本のクラブの長さを詰めてくれ、径を細くしてくれ、太くしてくれ(!?)とひっきりなしに持ち込むので安田も音を上げて、ある時嫌になってしまった彼は何もせずに『徳川様、ご注文通りに仕上げました』と渡したのだが、徳川は『ああ安田、ご苦労様』と気付かずに持ち帰ったという。
こういった話は安田のアシスタントから名古屋GC初代プロとなった大木鏡三や、関東クラブメーカーのパイオニア有賀英雄の甥で有賀ゴルフを支えた斎藤今朝雄等が実体験として書き残しているが、ゴルファーの心理状況を表す事例でもある。

 

 

 


主な参考資料
・ゴルフ80年ただ一筋(第二版) 安田幸吉  ヤスダゴルフ 1991
・わが旅路のファウェイ安田幸吉ゴルフ回想記 井上勝純  廣済堂出版1991
・人間グリーンⅣ 小坂旦子・三好徳行   光風社書店 1978
・『東京ゴルフ倶楽部(会報)』2014年冬季号-100周年特集号
・『INAKA第五巻』11章『 Golf In Japan』 収録North-China-Daily News P.N Hindie
『Rokkosan A Thing of Beauty and a Joy for Ever』 1916
・『INAKA第十巻』掲載『Golf of Yedo』 1919
・『東京』1917年5月号 法学士くれがし『ゴルフ物語』
・『野球界』1919年12月号 鈴木寅之介 『ゴルフ遊戯に就いて』
・『婦人公論』1929年8月1日号 『東西婦人ゴルファ』より室町英二『東京の名流婦人とゴルフ』
・『東京朝日新聞』1922年12月20日朝刊五面
・『東京日日新聞』1928年5月29日
・『Golf Dom』1923年6~8月号『So This is Golf!(1)~(2)』
・『Golf Dom』1923年9月号、『東京より』
・『Golf Dom』1923年10月号『19Th HOLE.』
・『Golf Dom』1924年1月号『駒澤通信』内『キャデ井ーの競技』
・『Golf Dom』1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
・『Golf Dom』1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
・『Golf Dom』1943年10月号犬丸徹三『駒澤回顧』
・『Golf(目黒書店)』1931年11月号高木喜寛『ゴルフ発祥の時代』
・『Golf(目黒書店)』1933年2月号大谷光明『ゴルフ思出の記(二) 六甲から駒澤へ』
・『Golf(目黒書店)』1933年3月号大谷光明『ゴルフ思出の記(三) 駒澤をひらいた頃』
・『近代ゴルフ全集1』収録、田中善三郎『ゴルフむかし話』 中央公論社 1959
・『Golf(報知新聞)』1954年4月号 『ゴルフ鼎談』
・『ゴルフマガジン』1969年1月号 人物めぐり歩き 「中村(兼)ゴルフ商会」社長中村兼吉 元プロゴルファーがつくるクラブの味
・『週刊パーゴルフ』1979年11月13日号 小笠原勇八『真相日本のゴルフ史3』
・『夕刊フジ』 人間グリーン257 鍋島直泰12『古く懐かしきキャデー』
・『夕刊フジ』 人間グリーン263 鍋島直泰18『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(上)』
・『夕刊フジ』 人間グリーン264 鍋島直泰19『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(下)』
・『夕刊フジ』 人間グリーン271 鍋島直泰26『忘れえぬ人・大谷光明さん(上)』
以上資料はJGAミュージアム及び同本部資料室、国立国会図書館昭和館で閲覧他、筆者蔵書より
・『Omaha daily bee』 1920 年8月22 日『Sports and Auto』より『Nicoll to Japan』
・『New York tribune』 1921年 3月27日Ray McCarthy 『Tow Japanese Brothers Loom As Golf Stars Princeton Pair Regarded as Coming Championship on From in Florida Tourney』
以上資料はアメリカ議会図書館HP、Chronicling America Historic American News Papersより閲覧

・『Referee』1923年11月14日『GOLFING IN JAPAN David Hood Instructor to the Prince Regent』
以上資料はオーストラリア国立図書館HP、TROVEで閲覧


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)