ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・9

駒澤が開いてから数年間、会員たちを教える明確な専門職が居なかった。
コースが在り、ゴルファーが居てもコーチがいないというのは中々困ったものである。
(開場の頃、苦闘時代の福井覚治がゴルファーの多い東京GCへの単身赴任を考えていた。と夫人が彼の七回忌の際に雑誌『日本ゴルファー』1936年4月号で語っている)

当初は横浜根岸のNRCGAから招聘されたキャディマスターの山田某がレッスンをすることも有った(その為か大谷光明は回想の時に彼をキャディマスターでプロの、と評している)
山田は小柄な足の少し悪い男であったというが、中々好いフォームを持っていて開場式の際にエキシビションマッチを根岸のブレディと披露したり、会員たちが越そうと苦闘する1番ホールの170~180yd地点を横切る農道を超えるティショットを打つことが出来たというが、しかし、何があったのか山田は短期間でやめてしまったという。
1916年に刊行された『INAKA第5巻』掲載の『North China Daily News』記事で紹介されている。駒澤のコースレコード65を持っていたキャディマスターとは彼か、二代目の浅見巳之助(浅見緑蔵の兄)のどちらであろうか。
(『INAKA』翻訳書『霧の中のささやき』ではこのスコアを出した人物をその前の文で紹介している会員の川崎肇が出したものとして訳しているが、そうであった場合、その次に上海のバレット大尉が出した73を“最近出されたアマチュアのレコード”と書くであろうか?)。

駒澤に正規のプロが訪れたのは1918年の事で、上海GCのプロ、グリーン某がNRCGAの招聘で二回目の来日をした際に東京GCに寄りレッスンを行っている。
体格の近い駒澤雀達に小柄でも距離を出すことが出来るのを教えており、ロングゲームが弱点で在った彼らの役に立ったと『INAKA第十巻』の駒澤の記事で引用された『North China Daily News』で報じられているのには注目したい。
翌1919年初夏に鳴尾GA会員の村上伝二がコーチで来たことがある。と、この年14歳でキャディマスターと成った安田幸吉は回想しているが(摂津茂和の『新版日本ゴルフ60年史』にも年時は不明だが記述がある)、何故プロ転向する前の、それも日本人会員内でトップに立つかどうか。とういう時代の彼が来たのかは不明である。

またこの年の夏に倶楽部は英国からスミス某という二十代半ば位の若いプロゴルファーを招聘し、専属プロとして契約している。
彼については、横浜正金ロンドン支店長経験者である巽孝之亟の斡旋で遣って来たスコットランド人であるとか、共同通信社役員でのちにボビー・ジョーンズ来日交渉を手掛ける岩永祐吉が招いたなどと伝わる。
※異説として1934年に『Golf Dom』が行った森村市左衛門のインタビューや(10月号)、1954年に報知新聞の『Golf』の企画によって行われた安田、宮本留吉、南郷三郎(神戸桟橋、日本綿花社長、関西ゴルフのパイオニア)の座談会『ゴルフ鼎談(4月号)』等では、1920年に来日したSt.アンドリュース出身のアメリカプロ(米領フィリピンから来日)トム・ニコルの後に来たとされている。


駒澤に於けるスミスはクラブハウスに寝泊まりをしてレッスン業務に当たっており、会員達の評判も良かったという。
安田によると、彼のフォームは両手が右肩よりも下に来る大分フラットで左膝の動きや腰の回転も多い物で在ったといい。スコットランド人プロ特有の所謂(新式)St.アンドリュース型乃至カーヌスティ型であった様だが、安田少年はスミスが造作もなく綺麗な球を打っていくフォームに魅了された。
以来彼はスミスがレッスンをするときは注視し、プレーする時はキャディを率先して観たスウィングに近づく様、会員達から貰ったクラブで素振りを繰り返し、フォームを形成していった。

そんなある日スミスが片手にウィスキーのボトルをぶら下げ、もう片方の手には持ったクラブを振り上げ『You Stole My Swing‼』と彼を追い掛け出したのだ。
『ひゃぁ』と逃げ出す安田少年。何とか難を逃れたが、三十五年後に『Golf(報知新聞)』の座談会で語った所によると何度もそんな目にあったというのだ‼

この件について、何故スミスがウィスキーボトルを持っていたのか。と疑問に思われた読者諸兄も居られるだろう。
彼は一人郊外のゴルフ場で暮らしていた為か、三ヶ月程でホームシックに掛かってしまい、その寂しさを紛らわす為次第に玉川電鉄沿いの飲み屋街に入り浸る様になり、更には朝からウィスキーをラッパ飲みする様なアルコール依存症となってしまっていたのだ。
そんな鬱屈の中、何時も自分を監視するように纏わりついてくるJap Kidが、教えもしていないのに自分のスウィングそっくりにボールを打っているのを見て、不安定で在った精神が爆発してしまったのだろう。
この件を含め業務も儘ならなく成って仕舞ったので、役員一同英国総領事と相談の上スミスを本国送還することに決めたのだが、豈図らんや。その航路客船が壇ノ浦に差し掛かった際に彼が投身自殺をしてしまった。との一報が駒澤に居る安田達に伝わって来た。

スミスの技術は、思い切り放り投げる様なアークの大きいスウィングとして安田に受け継がれ、彼は155㎝の小兵ながら海外プロにも負けないロングヒッターとして2度のアメリカ遠征時に大いに注目され、また来日プロのラリー・モンテスからもヒッコリー時代有数のスタイリストとして知られたマクドナルド・スミスの日本版(そのスウィング故かメジャーで彼同様2位が多かった為か?)と評されている。
そして、安田はレッスンも巧みで在った事から彼の技術は多くのプロの卵やアマチュアゴルファーに伝わって行った事からスミスのエッセンスは何らかしらの形で次世代につながって行った。
夢を抱いて来日しながらも心を病み、自ら命を絶ってしまったというこの哀れな青年プロについて、その足跡をもう一度きちんと調べられる事が必要に成ってこようか。

 

 

主な参考資料
日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂 1995(復刻第二版)
The Bunker 1915年12月号~1916年11月号
阪神ゴルフ合本(1922年4~6,9月号全四号)
・東京ゴルフ俱楽部50・75・100年史 1964,1991,2015 
・『東京ゴルフ倶楽部史料室だより№4 東京ゴルフ倶楽部朝霞コースの全て』2007
・『東京ゴルフ倶楽部(会報)』2014年冬季号-100周年特集号
・『INAKA第五巻』11章『 Golf In Japan』収録 North-China-Daily News Hindie筆
『Rokkosan A Thing of Beauty and a Joy for Ever』 1916
・『INAKA第十巻』掲載『Golf of Yedo』 1919
・『野球界』1919年12月号 鈴木寅之介 『ゴルフ遊戯に就いて』
・『婦人公論』1929年8月1日号 『東西婦人ゴルファ』より室町英二『東京の名流婦人とゴルフ』
・『東京朝日新聞』1922年12月20日朝刊五面
・『Golf Dom』1923年6~8月号『So This is Golf!(1)~(2)』
・『Golf Dom』1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
・『Golf Dom』1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
・『Golf Dom』1934年10月号 C記者『森村市左衛門氏にゴルフを訊く』
・『Golf Dom』1935年3月号『ゴルフ漫談 田中善三郎氏との一問一答』
・『Golf Dom』1937年8月号及び9月号『ゴルフ規則を訊く』
・『Golf(目黒書店)』1931年11月号高木喜寛『ゴルフ発祥の時代』
・『Golf(目黒書店)』1932年2月号及び3月号『ゴルフ座談会』
・『Golf(目黒書店)』1933年2月号大谷光明『ゴルフ思出の記(二) 六甲から駒澤へ』
・『Golf(目黒書店)』1933年3月号大谷光明『ゴルフ思出の記(三) 駒澤をひらいた頃』
・『近代ゴルフ全集1』収録、田中善三郎『ゴルフむかし話』 中央公論社 1959
・『夕刊フジ』 人間グリーン257 鍋島直泰12『古く懐かしきキャデー』
・『夕刊フジ』 人間グリーン263 鍋島直泰18『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(上)』
・『夕刊フジ』 人間グリーン264 鍋島直泰19『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(下)』
・『ゴルフ80年ただ一筋(第二版)』 安田幸吉  ヤスダゴルフ 1991
・『わが旅路のファウェイ安田幸吉ゴルフ回想記』 井上勝純  廣済堂出版1991
・『人間グリーンⅣ 小坂旦子・三好徳行』   光風社書店 1978
資料はJGAミュージアム及び同本部資料室、国立国会図書館昭和館図書室で閲覧他、筆者蔵書より

参考サイト(本文2の執筆で閲覧)
鹿島建設ホームページより 鹿島の軌跡~歴史の中から見えてくるものがある~ 第25回『東京ゴルフ倶楽部と朝霞コース―日本初の常緑芝のゴルフ場(2009年4月28日公開)』
・Sports Network Japanホームページより Sports Advantage Vol.708-1 (017年3月13日公開) 岡邦行『原発禍!「フクシマ」ルポ87』
・鹿島カントリー倶楽部ホームページより『鹿島カントリークラブの施設ご案内』

 

 


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)