ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・11

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大正期の駒澤では、風雨降雪などでプレーが出来ない日でもクラブハウスに駒澤雀達が大勢集まっている事がよくあった。
これは雀の一人1921年度日本Am勝者の田中善三郎曰く、『誰それのクラブが自分には使いやすそうだ』というチェックに来ていたそうで、全員が他のメンバー全員のクラブを把握していて、機会があると各々目当てのクラブの持ち主へ交渉を行ったものだという。 
交渉は会うたびに申し込んで、お世辞を言ったり、お辞儀をしたり。それでもすぐ締結せず1~2年かけて入手ないし交換する事もザラであった。

現在のゴルファー諸兄には理解しがたいやもしれないが、この時代に使われていたヒッコリーシャフトのクラブというのは、そのプレーヤーに合わないとトコトン使い物にならないが、ひとたびピタリと合うクラブが見つかれば、何物にも得難い宝物の様な存在となるのだ(ヒッコリーゴルファーである筆者の感想から)。
田中自身も良いクラブが合致する時の愉しみたるや中々今の人の想像がつかない。と雑誌で語っており、森村市左衛門が1934年時に語った所によると、当時は大事なクラブが火災等で喪われるのを恐れて、クラブハウスのロッカーに保管せず毎日持って帰る者が大勢居たという。

加えて会員の階層ゆえか、皆良いクラブを持っていて、仕事の関係で洋行を多くしている熱心者は名工の作や有名プロの使用品を入手しているのだから“さぁ大変”である。
特に川崎肇は熱心なクラブマニアで、交渉の頻度は並々ではなく食前食後に掛け合い、自分に合うものならば1本千円(大正期なので現在の五百~六百万円位の価値か)でも出すという具合で、その為相手から『そんなに良いのなら売らない!』と言われ逆に失敗する事もあった。

1921年頃、赤星兄弟の三男喜介がアメリカから帰ってきた際に、現地で購入したとても良いドライバーを持ってきた所、これを見た川崎、田中、大谷光明の三人が各々『自分に譲ってくれないか』と2~3か月にわたり猛烈な『交渉』にあたった。
赤星は“誰に渡しても角が立つ!”と恐れをなしたのか、第三者である倶楽部の仲間、徳川慶久(徳川慶喜の七男で軽井沢GC発起人の一人)にドライバーを譲った

 これは致し方ない、と思った三人に引き換え漁夫の利を得た徳川はこのドライバーが大変なお気に入りとなるのだが、それから間もなく(1922年1月22日)急逝してしまう。
 一同クラブの行方はどうなったのか?と思っていたところ、しばらく後に大谷が件のドライバーを使っているので田中、川崎は驚いた。
『大谷君どうしたんだ、どっから持ってきたんだい?!』
と田中が尋ねると、なんでも徳川夫人が葬儀の際に夫の愛用のクラブであるから。と棺に入れたのを弔問に訪れた大谷が、
『いや、奥様。このような国宝の如きクラブを焼いてしまう事はありますまい』
と説得し、形見分けしてもらったのだという。

二人は、“それはケシカラン”と憤慨する一方
『いや、こんなことは坊主である大谷にしかできまいよ』
と感心してしまった。
大谷は西本願寺門主の次男で浄如上人として僧籍があり(大谷の英語表記がK. J. Otaniなのはその為である)、兄で22代門主大谷光瑞の後継に選ばれた事があり(本願寺疑獄事件の影響で後継を辞退し、その翌年傷心の中上京をした際に林愛作の勧めで東京GCを訪れ、駒澤雀達に迎え入れられている)、倶楽部での綽名は猊下と呼ばれていた人物なのだから、おそらく法話を織り交ぜて徳川夫人に譲ってもらったのだろう。

兎に角、予期せぬ形で諦めていたクラブがライバルの手に渡ったことから、やっかみ半分感心半分の川崎・田中の両人は
『ねぇ大谷猊下、お前さん、お通夜の時ナンマイダ、ナンマイダとお経を挙げながら持ってきたんだろ(笑)』
と大谷を冷やかしたという
これは田中が1935,59年に雑誌インタビューや書籍で国内ゴルフの変遷を回想した際の逸話であるが、1935年時に『いまだにそう思っている』と語っていることから余程強烈な出来事であったのだろう。

 

 

主な参考資料
日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂 1995(復刻第二版)
The Bunker 1915年12月号~1916年11月号
阪神ゴルフ合本(1922年4~6,9月号全四号)
・東京ゴルフ俱楽部50・75・100年史 1964,1991,2015 
・『東京ゴルフ倶楽部史料室だより№4 東京ゴルフ倶楽部朝霞コースの全て』2007
・『東京ゴルフ倶楽部(会報)』2014年冬季号-100周年特集号
・『INAKA第五巻』11章『 Golf In Japan』収録 North-China-Daily News Hindie筆
『Rokkosan A Thing of Beauty and a Joy for Ever』 1916
・『INAKA第十巻』掲載『Golf of Yedo』 1919
・『野球界』1919年12月号 鈴木寅之介 『ゴルフ遊戯に就いて』
・『婦人公論』1929年8月1日号 『東西婦人ゴルファ』より室町英二『東京の名流婦人とゴルフ』
・『東京朝日新聞』1922年12月20日朝刊五面
・『Golf Dom』1923年6~8月号『So This is Golf!(1)~(2)』
・『Golf Dom』1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
・『Golf Dom』1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
・『Golf Dom』1934年10月号 C記者『森村市左衛門氏にゴルフを訊く』
・『Golf Dom』1935年3月号『ゴルフ漫談 田中善三郎氏との一問一答』
・『Golf Dom』1937年8月号及び9月号『ゴルフ規則を訊く』
・『Golf(目黒書店)』1931年11月号高木喜寛『ゴルフ発祥の時代』
・『Golf(目黒書店)』1932年2月号及び3月号『ゴルフ座談会』
・『Golf(目黒書店)』1933年2月号大谷光明『ゴルフ思出の記(二) 六甲から駒澤へ』
・『Golf(目黒書店)』1933年3月号大谷光明『ゴルフ思出の記(三) 駒澤をひらいた頃』
・『近代ゴルフ全集1』収録、田中善三郎『ゴルフむかし話』 中央公論社 1959
・『夕刊フジ』 人間グリーン257 鍋島直泰12『古く懐かしきキャデー』
・『夕刊フジ』 人間グリーン263 鍋島直泰18『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(上)』
・『夕刊フジ』 人間グリーン264 鍋島直泰19『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(下)』
・『ゴルフ80年ただ一筋(第二版)』 安田幸吉  ヤスダゴルフ 1991
・『わが旅路のファウェイ安田幸吉ゴルフ回想記』 井上勝純  廣済堂出版1991
・『人間グリーンⅣ 小坂旦子・三好徳行』   光風社書店 1978
資料はJGAミュージアム及び同本部資料室、国立国会図書館昭和館図書室で閲覧他、筆者蔵書より

参考サイト(本文2の執筆で閲覧)
鹿島建設ホームページより 鹿島の軌跡~歴史の中から見えてくるものがある~ 第25回『東京ゴルフ倶楽部と朝霞コース―日本初の常緑芝のゴルフ場(2009年4月28日公開)』
・Sports Network Japanホームページより Sports Advantage Vol.708-1 (017年3月13日公開) 岡邦行『原発禍!「フクシマ」ルポ87』
・鹿島カントリー倶楽部ホームページより『鹿島カントリークラブの施設ご案内』

 

 


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)