ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート㉛『105年の霧の中から』・1

 

日本のゴルフ競技史において、メジャー選手権でありながら空白となっている物がある。
それは1917年9月23日に神戸GCで行われた日本アマチュア選手権の記録だ。
JGA70年史の競技記録を見ると優勝者のG.A・ローパーの名とスコア74・73=147以外は不明になっており。ゴルフ創成期の事柄が多く記されている『日本のゴルフ史』でも同様である。

なぜこんな事になっているのか筆者は疑問であったし、調べてみても大谷光明が1936年時に雑誌『Golf(目黒書店)』で日本アマチュア選手権史を連載した際、1917年大会について、自身も参加の許可が出たこと(1926年にも万朝報「新日本史」のゴルフの項で記している)。六甲特有の霧にコースが覆われ皆ロストボールに悩み、自身はフェアウェイでも無くしてしてしまったこと。優勝のローパーに就いたキャディが、彼が打つたびに『何処其処に行ったぞー!』と(こういった時に動員される)フォアキャディに呼びかけ、相手も落下音からボールの位置を把握して見つけ出す。という、その連携が優れていた事が勝利のカギと成った事。を記している位であった。

JGA創立百周年も近いことも在り、筆者はこの空白を埋めるため記録を探すことにした。以下長い話になってしまうが日本のゴルフ史に関わる事柄なのでお付き合い願いたい。

大会記録が日本で発行されていた英字新聞に在るのは間違いない。と目途を立てていたが、神戸で発行されていて掲載の可能性の高い『神戸ヘラルド』は筆者が出かけられる図書館には所蔵されていないので何から手を付けるか思案をした。
そこで上海で発行されていた『North China Daily News』は度々日本のゴルフ界の記事を書いていることを『INAKA』で知っていたのと国会図書館にある事から目星をつけた。
しかし当時コロナ下において同館は予約抽選制になって居た為に行く機会を逸し続け、今年に入って知己の国立大学日本史研究員氏が『行く際に調べてみましょうか?』と云ってくれる事も有った。
それが、利用登録者は決められた時間内ならば予約なしでも入館できるようになったので6月下旬、二年半ぶりに出かける事とした。

件の新聞のマイクロフィルムを閲覧申請し、デジタル映写機で見ようと箱から取り出したら、フィルムのリールは酸っぱい匂いを放ち、映写機に装着すると表面が少しグニャっていた。
これはフィルム素材が今でいうバイオプラスチックと同様の構造ゆえに、温度や湿度による劣化由来の分解反応“ヴィネガーシンドローム”を起こし出していたのだ。 
(現在は半永久的にコンディションを保てるフィルムがあるが、古い物はこのような劣化が問題になっているのだという)
レコードや映画フィルムを収集している友人からこの現象を聞いていたので嫌な予感がしていたが、それは的中し(職員さんに相談しながら)巻取り映写を進めるにつれて、リールの真ん中、それも知りたい日時のあたりで癒着と剥離が起きており、資料が使用不可能な状態になってしまっているのを、筆者そして一緒に状態確認をした職員さん達は目の当たりにすることになった。

新聞資料室から退出の際、先の職員さん等から一橋大学にも同じフィルムが所蔵されているので行ってみたらどうか(ほか紀伊国屋書店が電子版を学校図書館向けに販売している)。と勧められ、先の研究員氏に報告した際も同様のことを言われていたので、“地元の中央図書館で紹介状を書いて貰おう”と計画建てたが、同大学は現在コロナ防疫のため外部の人間は研究機関員以外は謝絶している状況にあり更に落ち込む。

そういう状況を研究員氏に話したら『他に所蔵し閲覧可能な場所があったら連絡しますよ』と同情されたが。
『日本にも英字新聞はいくつもあるではないか、神戸ヘラルドなどは国会図書館にないが、Japan TimesやJapan Advertiserがあるではないか』
と、連絡があるまで調べようと考え、7月4日に再び出かけることにした。

同館では別の調べモノをした後、新聞資料室に赴き読み易そうな『Japan Chronicle』の週刊版を最初に視ることにした。
神戸の新聞であることがフィルム箱に書かれていたので、望みがあると感じたのだが(この時、神戸・横浜対抗戦である第一回インターポートマッチの報道合戦をしていた新聞の一つである事を失念していたのだ!)、
当たりを付けている日時近くまでリールを早送りするも、大会二日後の9月25日号には何もなく『ダメなのか』と、巻き取りハンドルを回す手が重たくなったところ、10月4日号の一面目次欄に『Kobe Golf Club Amateur Championship』の文字が在ったのを見て思わず両手を上げた。

ハンドルを該当ページまで回してみると、インターポートマッチの記事と共に大会記事が掲載され、上位10名の順位表もスコア付きでキチンと記載されており。他に見つけた同紙の神戸GCの記事共々(デジタル)複写申請をして持ち帰り、(なお『Japan Times』には記事がなく、『Japan Advertiser』は該当年次のフィルムが所蔵されていなかった)
帰宅後改めて翻訳して読んだが。その内容を他の記録などによる補足をしながら紹介してみよう。


『Japan Chronicle』の記事によると1917年大会には20名の参加者があったと記されている。内約は記事と対抗戦の記録等をすり合わせると、横浜・神戸の対抗戦代表の16名と大谷光明(彼は8月19日に行われた神戸GCの“根岸カップ“に優勝したことから参加が許可されたようだ)ら4名になる模様。組み合わせは大会前日の9月22日土曜日の夜に決まった事が書かれている。

明けた23日日曜日、午前8時30分に第一組がスタートした。この時は大谷の回想とは違って良い天気で、それに比例して良いスコアが上がってきた。
この年横浜から神戸GCに移籍のH.M・マルコルムが73で首位に立ち、カーヌスティ仕込みの名手A.T・ホワイトやベテランのC・バイロン、この数年でクラブを代表するプレーヤーとなったG.A・ローパーといった神戸GCクラッチ・プラスハンディ組が76で続く。
その下は78を出したJ.P・アーサーや、“六甲のヌシ”H.E・ドーントにH・ホーン、J.D・トムソンといった神戸GCの主力選手が79で廻り、80の9位にやっと横浜チームのキャプテンA.E・ピアソンが来る。という神戸ゴルファーが圧倒的優勢な試合運びとなって居た。

(続く)

 

 

 

 

参考資料
・日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂(復刻第二版)1995
神戸ゴルフ倶楽部100年の歩み 神戸ゴルフ倶楽部 2003
霧の中のささやき 編著・棚田眞輔、編集・神吉賢一、監修・松村好浩 交友プランニングセンター 1990
・ゴルフの常識 草上来太郎(伊藤長蔵) ゴルフドム 1927
・新日本史第四巻 『運動編』より大谷光明『ゴルフ』 万朝報社 1926
・Japan Chronicle(Weekly Edition)
1917年8月23日号『Kobe Golf Club-Record Entry for Sundays Play.』
1917年9月20日号『Kobe Golf Club-Club Championship』 
1917年10月4日号『Kobe Golf Club-Amateur Championship』
・『Golf(目黒書店)』1936年3月号 大谷光明『日本アマチュア選手権物語(3)』
資料はJGA旧本部資料室、国立国会図書館及び筆者蔵書より閲覧

 


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)