ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・18

 

駒澤に集まるキャディ達は当初会員達の階層(日本の政財界の主要人物ばかりだ!)から行儀見習いとして来ていたが、ゴルファーに一番近い存在である彼等も駒澤雀達が愉しんでいるのを見て、ゴルフに興味を持ち、他のコースの同胞達同様ゴルフ遊びを開発しだした。
彼らは木の幹枝を削って造ったウッドと、針金を蚊取り線香状に巻いて造ったアイアンを造り(鎌の廃品を使った六甲や鍛冶屋で鉄棒を叩いて造ってもらった根岸と比べ独創的である)、削り出した桐の球を使って、近所の医王寺や深沢不動の境内やコース近くの空き地などで遊んでいたが、年月が進み次第にメンバーからクラブを貰う者が出てきた頃からキャディ達が行うモノもゴルフ遊びからゴルフへと変化し、こっそりと練習をするようになっていった。
(それを示すものとしてキャディ時代の浅見緑蔵がメンバーの見ている前で絣の着物に草履姿で練習をしている写真が1938年の『Golf(目黒書店)』連載の鍋島直泰聞き書き『未完成回顧録』に掲載されており、倶楽部100年史にも転載されている)

そこでキャディに優しい事で知られた日本郵船の林民雄の音頭でプロ育成も兼ねて年に一回はきちんとプレーをさせようと1924年1月5日に駒澤で初めてのキャディ競技が行われた。
競技は独自に振り当てられたハンディキャップを使った18ホールのアンダーハンディ競技で、20人程のキャディと当時職業ゴルファーと成っていたキャディマスターの安田幸吉が参加した。
彼らが持っているクラブは3~4本、それもグリップに20円札が巻いてなければ会員達は見向きもしないような下等品で、安田によると使うボールもヘタっているような代物。プレーの方も自分の背丈位あるクラブを振り回すような子が多く、ドライバーがアプローチに使われたり、パターがアイアンのクリークの代わりに使われる様な状況であった。

とはいえキャディ達は関東大震災以前に出入りをしていたスコットランド人プロのデヴィッド・フードのフォームを参考にしたのか、彼の様な見事なフォームをしている者達が居たが、トラブルショットの練習をする機会が無かった為かパー34、ボギー38の駒澤のコースで大分叩いてしまう者が大半であったのは致し方あるまいか。

しかし優勝の田中亀夫はスクラッチで75、同じスクラッチの浅見緑蔵に10打差をつけるという素晴らしいスコア。三位は104-18のネット86を出した小柄な磯貝兵蔵。
ハンディキャップ+2で挑んだ安田幸吉はキャディマスターとして参加者が使う道具の確保に奔走した為か86でネット88の4位。
『Golf Dom』1924年1月号の記事では皆下の名と年齢のみの表記であるが、フルネームで名が判っているのは安田に田中、浅見緑蔵と3位の磯貝、そして後に名古屋GC初代プロとなる大木鏡三くらいで他は不明なのが残念である。

また、素晴らしいスコアを出した田中だが、後々浅見に『人の打った球を拾う球拾いなんて男一生の仕事じゃないよ』と語って海軍を目指したと伝わっている。
田中はそのセンスと、長身であった浅見と変わらない体格の持ち主であったので、ゴルフの道に進んでいれば。と研究者達に惜しまれている。

『Golf Dom』の記事には、“いずれこの中から日本のハリー・ヴァードン(全英OP六勝)やチック・エヴァンズ(全米OP・Am同年勝者)が出るのもそう遠くは無いだろう”と報じられ、安田や浅見が大成し目的は果たされているが、駒澤に於けるキャディ競技はこの一度だけ。従来語られてきた。

しかし、1969年前後にゴルフマガジンに於いて連載されたゴルフ関係者訪問記『人物巡り歩き』に於ける、駒澤出身で日本OP勝者の中村兼吉(1911.6/18~1974.2/28、JPGA殿堂者)の回(1969年1月号)では彼の経歴として、地元の素封家の出で、学校(今の国士舘高校)に行きながら長期休暇中にキャディをしていたが、2~3度行われたキャディ競技で度々優勝した。という話が書かれている。
(注=中村はゴルフを始めたのが数えの18歳前後というが、満17歳になる前に地元開催となる1928年度日本OP参加資格を掛けた東京GCアシスタント競技に参加しているのと大会翌日の招待プロ競技で健闘しているので、キャリアの始まりに微妙にぶれが生じてはいる)

1925年の赤星六郎の帰朝および入会による彼の啓蒙活動から安田が明確なプロとなり、1928年までの間にアシスタントとして浅見(程ヶ谷CCヘッドプロ)や小杉広蔵(東京GC移転後駒澤のヘッドプロに成る)や瀬戸島達雄(武蔵野CC及び鷹之台CC初代プロ)、先の大木、平松勇(我孫子CC初代プロ)、中村(藤澤CC初代プロ)らがアシスタントとして働き、その下にも後にプロと成る有望な少年キャディたちがおり、駒澤は戦前関東のプロ一大産地・留学地となっているのだから、何らかしらの物が在ってしかるべきであろう。
そもそも最初のキャディ競技は『Golf Dom』に報じられた事から世に知られたのだから、紙面に残っていないからと云って『行われて居ない』と観るのは早計なのかもしれない。

                  


※『駒澤雀奇談』はネタ切れでは無いモノの、だんだん一つの話にアレもこれもと詰め込む気が出てきて、当初の軽い書き物から逸脱しかけている為、一旦休止し、研究モノや別の小話を書かせていただきます。
                         筆者

 

 

 

主な参考資料
・ゴルフ80年ただ一筋(第二版) 安田幸吉  ヤスダゴルフ 1991
・わが旅路のファウェイ安田幸吉ゴルフ回想記 井上勝純  廣済堂出版1991
・人間グリーンⅣ 小坂旦子・三好徳行   光風社書店 1978
・『東京ゴルフ倶楽部(会報)』2014年冬季号-100周年特集号
・『INAKA第五巻』11章『 Golf In Japan』 収録North-China-Daily News P.N Hindie
『Rokkosan A Thing of Beauty and a Joy for Ever』 1916
・『INAKA第十巻』掲載『Golf of Yedo』 1919
・『東京』1917年5月号 法学士くれがし『ゴルフ物語』
・『野球界』1919年12月号 鈴木寅之介 『ゴルフ遊戯に就いて』
・『婦人公論』1929年8月1日号 『東西婦人ゴルファ』より室町英二『東京の名流婦人とゴルフ』
・『東京朝日新聞』1922年12月20日朝刊五面
・『東京日日新聞』1928年5月29日
・『Golf Dom』1923年6~8月号『So This is Golf!(1)~(2)』
・『Golf Dom』1923年9月号、『東京より』
・『Golf Dom』1923年10月号『19Th HOLE.』
・『Golf Dom』1924年1月号『駒澤通信』内『キャデ井ーの競技』
・『Golf Dom』1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
・『Golf Dom』1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
・『Golf Dom』1943年10月号犬丸徹三『駒澤回顧』
・『Golf(目黒書店)』1931年11月号高木喜寛『ゴルフ発祥の時代』
・『Golf(目黒書店)』1933年2月号大谷光明『ゴルフ思出の記(二) 六甲から駒澤へ』
・『Golf(目黒書店)』1933年3月号大谷光明『ゴルフ思出の記(三) 駒澤をひらいた頃』
・『近代ゴルフ全集1』収録、田中善三郎『ゴルフむかし話』 中央公論社 1959
・『Golf(報知新聞)』1954年4月号 『ゴルフ鼎談』
・『ゴルフマガジン』1969年1月号 人物めぐり歩き 「中村(兼)ゴルフ商会」社長中村兼吉 元プロゴルファーがつくるクラブの味
・『週刊パーゴルフ』1979年11月13日号 小笠原勇八『真相日本のゴルフ史3』
・『夕刊フジ』 人間グリーン257 鍋島直泰12『古く懐かしきキャデー』
・『夕刊フジ』 人間グリーン263 鍋島直泰18『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(上)』
・『夕刊フジ』 人間グリーン264 鍋島直泰19『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(下)』
・『夕刊フジ』 人間グリーン271 鍋島直泰26『忘れえぬ人・大谷光明さん(上)』
以上資料はJGAミュージアム及び同本部資料室、国立国会図書館昭和館で閲覧他、筆者蔵書より
・『Omaha daily bee』 1920 年8月22 日『Sports and Auto』より『Nicoll to Japan』
・『New York tribune』 1921年 3月27日Ray McCarthy 『Tow Japanese Brothers Loom As Golf Stars Princeton Pair Regarded as Coming Championship on From in Florida Tourney』
以上資料はアメリカ議会図書館HP、Chronicling America Historic American News Papersより閲覧

・『Referee』1923年11月14日『GOLFING IN JAPAN David Hood Instructor to the Prince Regent』
以上資料はオーストラリア国立図書館HP、TROVEで閲覧


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)