ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋の憤懣『死蔵の西村コレクション』

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―始めに―
この度の題材は筆者の憤懣事となるため、読者の方々がご不快に思われてしまうやも知れない事を前もってお詫びいたします。


日本のゴルファーの方々で西村コレクション。と云って『あれだね』とご存じなら歴史やゴルフ蔵書にお詳しい方々であろう。このコレクションについては海外の研究家や収集家の方が良く知って居るやもしれない。

『そは何ぞや』と思われる諸兄に説明をすれば、西村コレクションとは戦前のゴルファーで『日本のゴルフ史』の著者である『神戸の名物男』西村貫一がその生涯をかけて収集したゴルフ書籍のコレクションの事である。
 彼は元々、狂気に近い熱心なゴルファーであったのだが、1924年2月に夫人とアジアゴルフ旅行から帰国した際に、鳴尾GCの友人ジョー・クレーンから『六甲の主』H.E・ドーントが病気(実際にはその二年前に負った登山の際の負傷療養らしい)による帰国の為の家財処分の一環で蔵書の引き取り手を探している事を教えられ、すぐ飛んで行き、ゴルフ書を全て購入したのが始まりであった。
このドーントのゴルフ蔵書は数十冊であったが、ここから西村は本格的にゴルフ史の研究と書籍の収集に乗り出すことになったのは間違いないであろう。

この事とライバルであった伊藤長蔵の英国訪問(1925)に触発されプレーに並行して収集をし、1930年に発行した大著『日本のゴルフ史』にも蔵書目録を載せている。
その翌年に自身の病気と明治二年来の家業である『西村旅館』の立て直しの為にプレーを辞めるのだが、ゴルフ書籍の収集は止めず、せっせと世界中から集め、先のドーントや海外のコレクターたちと情報交換をして、『収集は君に任せた』と応援をされたり。高飛車な手紙を送ってきたアメリカ在の世界一のコレクターと目録交換をして一目を置かれるなどして、『日本にKwan-yichi Nishimura在り』と知られるようになり、戦後英国の『Golfers Handbook』におけるゴルフ書籍収集家の項で紹介される存在となっていた。

そのコレクションの内容は後述する蔵書目録によると、世界各国のゴルフ書が387、国内の物が70、そして多数の国内外の雑誌や冊子(雑誌の大半は西村の手によって合本にされている)で、当時としても飛びぬけて多いという訳ではなかったが(西村本人は1938年に新聞の取材で万は超えると答えている)、その中には最初のゴルフ詩集と言われているトーマス・マシンソンの『The Goff』の第三版や、1700年代のオランダのコルヴェン(ゴルフとアイスホッケーの中間のスポーツで、ゴルフの原形の一つと目されている)の教本など世界的な稀覯本が含まれており、質の高さと範囲の広さで評価されたのだと思われる。
また、日本最初のゴルフ本といわれる岸敬二郎の『娯留夫圖説』、初のゴルフ誌『The Bunker』を始めとする現在では戦災等で散逸消失してしまった国内ゴルフ史料の大半を所蔵している事にも注目をしたい。

1930年代に入ってからの西村はゴルフ蔵書目録を製作して世界各国の図書館に配布することを計画し、秘書を雇い慣れないタイプライターを駆使しながら取り組んでいたが(新聞にも度々紹介された)、完成した頃に日中戦争の悪化と太平洋戦争への開戦が続いたため、同じく編纂をしていた家業の西村旅館年譜と共に書籍化は見送られることになった。

西村は太平洋戦争の戦況の悪化とともに空襲で神戸が危機にさらされる事を察知し(町内の防空部長を務めていた故だろう)、来る日に備えて荷物疎開や従業員や出入業者たちの為に各位に多額の保険を掛ける等対策を始めるものの、書籍たちは手元から放しがたく、
 本の収蔵庫として竹筋コンクリートの茶室を敷地に建てて収納し、特に貴重な本は油紙に包んで缶に詰めて床を掛けた古井戸の中に仕舞いマンホールの蓋で閉じ、井戸の周りに土嚢を積んで対策をしていた。
そして1945年3月17日、遂に起きた神戸空襲で旅館は焼失するも(西村が残した記録では焼夷弾直撃等ではなく山の手からの火の手による延焼であったという)、ゴルフ界の宝である本達を守り抜いた。
1980~2000年代に活躍したゴルフ史家の井上勝純が西村の妻マサ夫人にインタビューした所によると、西村は唯一焼け残った茶室を見てコレクションの無事に狂喜したという。
(※次男の西村雅司は井戸の事は書いているが茶室の事は触れていない)

戦後、海外の収集家たちの間では、日本が丸焼けになった事を聞いて蔵書を心配し、西村に『大丈夫であったか?』と手紙で訊ねてきたという者もいれば、これ幸いと進駐軍に頼んで接収させようとする者も複数人いたらしく、後者がやってきた際には『空襲で焼いておいて何を言うのだ探してみろ‼』と一喝して追い返することもあれば、奥行きのある本棚を用意し、手前に普通の本を置いてカモフラージュするなどして無法者達からコレクションを守り抜いた。
 幸い世情が落ち着いてきた頃にはそう云ったことも無くなったようで、友人の木村毅(文筆家・文芸評論家)によると、進駐軍内のコレクターと重複本を交換することが度々あったという。

結局目録は発行の機会のないまま1960年に西村が死去し、遺志を受けた長男の西村雅貫(カメラ開発者で、学生時代研究と製作に熱中するあまりスパイ容疑が掛かるも、その製作技術と性能から参謀本部にスカウトされた経歴を持つ)が計画を進めるも彼も急逝し、引き受けた次男の西村雅司が、文字を打ち直して誤植があるよりも原本のままの方が良いとして、西村の作った目録を写真撮影し、それを製本用紙に印刷することとした。
そうして1974年『A Bibliography of Golf based on the compiler’s private collection of Golf-Literaturre Supplement by Kwan-yichi Nishimura』(以下西村蔵書目録)が発行され、刷られた100部の内50部が各国の図書館に寄贈され、残りは書籍コレクターに贈られる事になるのだが、50冊の送り先である図書館について貫一の遺言がなかったらしく、雅司はどう選ぶべきか、父親と親交のあった木村毅へ諸事の相談をした。

相談を受けた木村は西村の蔵書目録の発行を知己である当時の国会図書館稲村徹元に事情を説明し(筆者は以前この際の手紙の写しを書籍収集の方から頂いた、原本は後2020年秋~晩秋にネットオークションに出ていたが、研究者の方が落札されただろうか)、稲村もそれに応じ三者面談の結果、図書館の選定と送料を負担してくれることに成った。

西村貫一の死後蔵書は西村家にそのまま保管されていが、遺族が膨大なコレクションが死蔵となってしまうので、その処置として(1979年前後に?)海外のコレクターと売却交渉を始め、貴重な蔵書が国外に出ていこうとしていた。
最近判明したことなのだが、西村は国内外の関係者に送る書簡を書く際、写しを造って保管したらしく、近年『西村蔵書目録』や『西村旅館年譜』制作時の秘書の方が保管していた物が市場に出て、筆者がお世話になっている方の一人が入手された。
筆者もお会いした際に一部を拝見したが、氏曰く西村が1950年代には海外のコレクターたちに『日本に置いていても駄目だから』と売却の話を書いている手紙がある。と離日したドーントに書籍収集を手伝ってもらっていた手紙がある事共々教えて頂いた。それを考えると遺族の売却交渉は西村の遺言であったのかもしれない。

しかし、丁度JGAミュージアム設立事業が始まっていた事から、その話を聞いた委員長の摂津茂和の嘆願でJGAが買い取り蔵書の大半が広野GC内のJGAミュージアムに、雑誌の一部が本部資料室に納められている。
(JGA70年史や同ミュージアムガイドブックには300冊ほどとあるので、一部は別の所に渡ったのだろうか、また、売却条件には貫一がもう一つのライフワークとして製作していた『西村旅館年譜』の書籍化(1980)も含まれていたという)、
のだが…ここから筆者が見聞きした事を絡めて書かせていただく。

2017年に筆者は西村コレクションの全容が知りたくて、国会図書館にある『西村蔵書目録』を閲覧し、その際に特に興味のあった国内(外地含む)の雑誌や書籍資料がどれだけあるか調べる為、日本のゴルフ刊行物の掲載ページを複写してもらった。
帰宅後改めてチェックをし(目録は雑誌の発行年等から1938年の完成の様だ)、題名を邦文に直すと、今は無きゴルフ倶楽部の会報・議事録、関西GUの議事録、満州・朝鮮・台湾の雑誌・連盟の機関誌等々まったく未見の史料がズラズラと出て来たのだ!!!!
これだけの物があったことに愕然とすると共に『これらに目を通したこともないのに賢し面をしていたとは……』と恥じ入ったが、それと同時に深刻な問題に気付いた。
そう、所蔵管理しているJGAに全く活用されていないのだ。

誤謬が甚だしかったJGA55年史を改めるために発行されたJGA70年史にも、西村コレクションは『Golf Dom』等ごく一部を除き、全く活用されなかった事は、奥付の参考資料一覧からも明白である。
(これは、55年史の誤謬を指摘批判していた、元JGA事務局長の小笠原勇八氏の手持ち及びゴルフ誌記者時代からの調査資料が主体となり、それ以外の物はあまり精査及び使われなかった模様である)
以来西村コレクションが活用されたのは2021年10月に発行された鳴尾GCの百周年記念書籍『Naruo Spirit』の編纂の際位であろう。

博物館含め各方面の収集界では、『海外では収集した物を使い、それにまつわる文化をいかに発展させていく事を考えるが、日本では収集した事に安心して、仕舞うだけになってしまう』
と言われるが、事実40年以上の間これらの史料がほとんど活用されず、『ただ棚やケースに納められているだけの肥やし状態』というこの現状を鑑みると、JGAで資料閲覧をさせて頂いている者として誠に暴論であるが、西村蔵書が海外のコレクターに買われていた方が今頃様々な研究論文や書籍が発行されていただろうし、有効活用されていたであろう。と思えてならなく成ってしまった。
(尤もそうなってしまっては、筆者がここで諸々を指摘できないことは承知であるが、しかし……という感情である)

さらにその翌年2018年4月下旬にJGAミュージアムへ同コレクションの閲覧に伺った際に見た展示品の状況は、今でさえ冷静な筆調が出来なくなる程のコンディションで、そんな中、西村コレクションだけは何とか無事で心から安堵した事が、貴重な資料の数々を読めた喜びよりも大きく、未だに忘れられないで居る。
※2021年6月にさらにミュージアムの状況が悪化しているという話を風の便りで伺ったが、実際に筆者が観たわけでは無いので風聞とせざるを得ない。が事実であるならば一刻も早く対策が取られて欲しい。

筆者が見聞きした状態を鑑みれば “世界に誇るゴルフ蔵書が日本のゴルフを統べる団体の元にありながら、悪コンディション下に置かれ、全く生かされていないという現状はどれだけの損失であろうか”と成り、現状が変わらないままであった場合の行く末を考えると身がよじ切れそうになる。

先述の井上勝純は著書で西村コレクションのマイクロフィルム化を唱えられていたが、これも叶わなかった。しかし現在はデジタル化も安易に出来る時代である、西村コレクションもJGA本部所蔵の雑誌資料共々どんどんデジタル処理をして内外の研究者たちがJGAホームページから閲覧できるようにするべきであり、その時が来た。と考えるが如何であろうや 暴言多謝

                         2021年9月4~12月14日筆

 

(この記事に関する文責及び著作権は、松村信吾氏に所属します。)