ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート㉗『新説第一回日本オープン』

f:id:ootataki02:20210725072310j:plain

第一回日本OPは、赤星六郎という日本のゴルフ全般の発展に大いに貢献した伝説的名手が、当時競技ゴルフに参加し始めたプロを歯牙にもかけず二位に十打差をつける圧倒的なプレーで、同大会唯一のアマチュア勝者としてゴルフ史に記録されており。大会を主催している日本ゴルフ協会JGA)の70年史では、この事を含め赤星の功績に大きくページを割いている。

これは赤星と雑誌編集記者・顧問の関係で深い付き合いのあったゴルフ史家小笠原勇八が、戦後ただ『第一回日本OP勝者』としか見做されなくなってしまった赤星を正当に評価されるよう、また彼だけでなく忘れられていたゴルフ界の功労者達の功績を『週刊パーゴルフ』の長期連載『真相日本のゴルフ史』で世に訴えて再評価させている事が大きいだろう。
※JGA70年史は小笠原の『真相~』と取材・調査ノートや編集をしていた『Golf(目黒書店)』の記事が骨子になっている

しかし『真相~』は貴重な記述が大多数を占めるも、内容が薄く誤謬が著しかった『JGA55年の歩み』と、同書の編集責任者で小笠原と確執のあった摂津茂和とその著書『日本ゴルフ60年史』、そしてJGAへの激烈な批判と、歴史的場面を自身が観てきたという自負からの断定論調が目立つ嫌いがあり、
この赤星六郎と日本OPに関する部分では、小笠原が頑なに否定・無視しようとしていた、現在JPGAによって追認されている『毎日新聞後援・主催の日本プロ選手権』を不当なものとする持論の理由づけに使っていた節を筆者は感じている。

そう感じてしまうのは筆者が摂津の孫弟子に当たる為、というよりも小笠原が赤星と親しい交流がありながらも。
『~私は十年間側近にいたが、一度もオープン優勝の話を交わすことがなかった。聞きただすことが、むしろ非礼にも思われた。(原文ママ、1982年史新春特大号掲載『真相日本のゴルフ史Part2連載5』より)』
と、第一回日本OPの時のことを訊いていないのに、(自身がゴルフ界に身を投じる1931年以前の)初期プロゴルフ界やトーナメントの種々を断定論調で書かれている為なのだろう。

もちろん赤星が図抜けた存在であり、プロたち、特に年少者の多かった関東の者達は彼から技術を教わっていたという“赤星の技量と功績”と、“プロが(トップ)アマチュアより技量が及ばなかった “事は事実であるのだが、小笠原が述べて以降、現在までJGAや東京GC系の史家の方々に踏襲されているこの史観について、疑問となる史料が存在している。


2017年春から夏にかけて、筆者は東京九段下にある昭和館の図書室で所蔵のスポーツ雑誌、『アサヒスポーツ』を読みふけっていた。
大阪朝日新聞が発行していた隔週刊のこの雑誌は、創刊間もない大正期からゴルフに関する記事があり、その中には非常に貴重な記録が在る事を偶々館内端末で書籍情報を調べた際に気付いた為であった。
それで第一回日本オープンの記事がないか、当てをつけて閲覧をしていたが、1927年7月1日号P20に睡蓮生というPNの人物(同じ俳号?を持っていた後のJGA会長石井光次郎が書いたとみられる)による大会レポートが在るのを発見した。

このリアルタイムの記事には、『Golf Dom』や新聞各紙に記されていない大会の経緯が記されているが、まずこの大会が開かれた理由の中で
『ここ数年の素晴らしいゴルフ熱で立派な未来あるプロの卵がどしどし生まれてきた。』
と関西の福井覚治・宮本留吉・中上数一や関東の安田幸吉・浅見緑蔵らを挙げ、
『この最初のオープンにおいて彼等プロの面々が赤星兄弟或いは川崎・大谷等の老将に対して如何なる成績を示すかということが日本最初の催しである丈に大きな期待をもって迎へられた』
と報じられているのは注目すべきであろう。

この大会に参加した大谷光明も、1935年に『Golf Dom』におけるロングインタビュー内で、プロゴルファーが増えたのもあり、彼らを混ぜたオープン選手権を開こうという事になった。と語っているので、『アサヒスポーツ』に書かれた事の裏付けになるであろう。
また、大会を知らせる東京日日新聞の記事でもこれまで大会の開催が望まれていたと書かれているので、前々から考えられていた可能性が高い。

加えて前年11月の第一回関西OPで関西及び会場茨木CCの会員であった関東のトップアマチュアたちが参加した中で、プロが1~4位を占めたこと(4位はアマチュアとタイ)も期待が増した要因であったと思われ。事実、『アサヒスポーツ』の記事内でもプロ達の台頭の続きに、彼らが関西OPで見事に手腕を見せ、一等二等は皆プロの手に帰しその勢いを示している。と書かれている。

JGAが大会の開催を決定したのは前年1926年9月24日の日本Am直後に行われた総会の際で、5月28~29日に程ヶ谷CCで72ホールのメダルプレイを行う事が、日本Amをマッチプレーに変更すること、東西Am対抗戦を行う事、JGAのナショナルハンディキャップ制定とともに決議されている。

このオフィシャルハンディキャップについてだが、『アサヒスポーツ』の記事を読むと出場資格にそれが使われなかったらしく、
『出場者の資格は、程ヶ谷ではハンデキャップ十一以下、駒澤、茨木等はハンデキャップ七以下の者に限定したので(後略、原文ママ)』とある。
JGA七十年史掲載の『JGAハンディキャップの変遷』の項を読むと、1927年の部分は各コースのスクラッチスコア(コースレートに相当)と取得方法と上限、更新のみが記されている。
リアルタイムの記録では『Golf Dom』1927年1月号のコラム『1926年のGolfを顧て』内の『1927年を迎へて』の冒頭で『Japan Golf Association は舊臘National handicapの制度を發表した。(原文ママ)』とあり、ハンディ取得の仕方が紹介されている。
旧臘は12月の事であるから、日本OPの際はもうナショナルハンディが使われているはずなのだがそうならなかった様だ。

JGAが出来て1年少々経った『Golf Dom』1925年10月号の巻末コラムでは“来年からゴルフ界はJGAに統一され、選手権の方も各クラブのハンディキャップが統一されるだろう”という記述が出てきており、また1926年1月号の同コーナーで“作ったのは良いけれど形式的なもので終わらせたくない、今の様な状況ならなくても変わらない、出来た以上は何か功績をあげてもらいたい”という(当時ゴルフ用品に掛かっていた10割関税の撤廃を期待する論へ続く)趣旨の文が掲載されたことがある。
事実、残った資料や当時の記事などからJGAの活動が軌道に乗り出したのが1928~29年頃ともみなせるので、当時はまだ協会も大会運営以外はまだ纏まりきって居なかった証左になるのではないか。


また、参加者について東京日日新聞の大会記事では、関西のトップアマチュア高畑誠一・伊藤長蔵、そして関西OP勝者であるプロの福井覚治の不参加は遺憾である。と書かれている。
これについてゴルフジャーナリストの武藤一彦氏は、JPGA殿堂機関紙『Walk With History Vol.2』内のコラムで、茨木CCが行った第一回日本プロに遅れてはならないと関東側が関西側に相談せずに日本OP開催を決定したので、後者がへそを曲げたのでは?という考察を挙げられていた。
確かに1926年JGA総会の前に行われた日本Amには茨木のプレーヤーが参加しておらず、総会の方にも茨木CCと神戸GC代表が参加していない事から、この考察をなさったのであろう。
しかし、関西の俱楽部は掛け持ち会員が少なからず居り、南郷三郎、伊藤長蔵、高畑誠一、室谷藤七、ハリー・クレーンら関西の重鎮が大会に出ているので(恐らく所属クラブを代表しただろう)、そこまで大騒ぎに成ったとは思えない。

件の『アサヒスポーツ』の記事によると、関西のアマチュアは『出ても関東の連中には勝てないから』、福井は『36ホールならばチャンスがあるが(二日で)72ホールでは身体がもたない』というのが不参の理由である事が書かれている。
福井は痩身小兵で元々体が弱かったのに加えて当時は結核を患って体力が下降して行った頃であることを考えるとやむを得ないのか。

マチュア二人について筆者が調べたところでは、高畑は勤務していた鈴木商店がこの年の4月2日に倒産したばかりであり、その事後処理と、新会社日商(現日商岩井)を興すという多忙な状況下で在った事は留意せねばならない。
が、解らないのが伊藤である。彼は大会中関東に来ており、大会の観戦取材をしていたらしく、その翌日には彼にゴルフを薦めてくれた旧友の誘いで、彼が会員の武蔵野CCの新コース、六実へ取材に行っており、大会後に駒沢の東京GCで行われたプロ競技(伊藤がこの年の日本プロの際に大阪毎日に寄稿した前評判記事に記した以外詳細不明)も観て居るのだ。

尤も関西には彼らの他にも西村貫一、石角武夫、クレーン兄弟、小寺兄弟、平佐徹二、W・ブッチャー、R.M・バーリンガル、W.J・ボローマン、室谷藤七らトップアマチュアがいたが、この面々が出なかったのは上の件があり得る。
また関西の他のプロ、村上伝二・越道政吉が出場しなかった事については、7月の大阪毎日主催の日本プロの観戦者のコラムに、村上は持病の痔の悪化で欠場、越道は病気から回復しきれておらず、福井とともに半病人の状態であった。という事が書かれているので、理由として見出せるか。
加えて村上は鳴尾GCに半所属という形態で、越道の所属の甲南GCは練習場的倶楽部であったので出場費や時間の都合が取れなかったのやもしれない。
※当時は東西への旅行というのは一大事であり、安田幸吉は前年の日本プロで大阪に行く際に水杯を交わしているのだ‼

 なお若手プロ達については、舞子CCの柏木健一は7月の日本プロが初陣であり、宝塚GCの村木章は前年の関西OPが初陣であったが、当時の宝塚GCが半パブリックであった為か別の理由か参加をしていない。

大会参加者は17名なのだが『東京日日新聞』5月28日付記載のスタート表を見ると二人一組の組み合わせになっており、そのため人数合わせのスコアラーとして東京GC・程ヶ谷CC会員の浅野良三が加わっている。(これは当時の『Golf Dom』6月号やJGA70年史にも記されていない)
参加者は以下の通り(『東京日日新聞』5月28日号記載のスタート順から※=プロ、所属地はJGA70年史の大会記録から)

Am9:00スタート10分おきに後続 (※はプロ、△はスコアラー)
第一組:井上信(東京)・野村駿吉(東京)
第二組:大谷光明(東京)・浅野良三△(程ヶ谷)
第三組:川崎肇(程ヶ谷)・伊地知虎彦(東京)
第四組:赤星六郎(程ヶ谷)・田中善三郎(東京)
第五組:安田幸吉※ (東京)・関一雄※(根岸)
第六組:相馬孟胤(東京)・藤田欽哉(程ヶ谷)
第七組:P.A・コックス(根岸)・中上数一※(京都)
第八組:赤星四郎(程ヶ谷)・宮本留吉※(茨木)
第九組:首藤安人(東京)・浅見緑蔵※(程ヶ谷)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                   2
大会の結果についてはJGA70年史の記録集等で判っているので予選を通過した者達の順位・合計スコアのみを下で記すが、その前に大会記事の中で進行状況や、選手評の主だったもの、出場者・観戦者の回想を挙げてみたい。

まず東京日日新聞の前評判では
『パー67(ママ)の程ヶ谷コースを平均75で廻る人は少ないから、72ホール320以下ならば優勝圏内に入れるものとみられる。大会前の練習では宮本、浅見がロング・ドラブ(ママ)に良い当たりを見せているが、赤星兄弟或いは試合に強い川崎氏あたりが却って良いスコアを出すのでは有るまいか(常用漢字・アラビア数字へ変換、句読点補填)』

初日36ホールが終わった際の東京日日新聞の一報では
『終始確実なプレーを見せた赤星(六)氏を除きアマチュアのプレーはむらが多かったが、プロフェッショナルのプレーは確実で、第二日出場者七名中四名を得たのは目についた(常用漢字へ変換、句読点補填)』
『Golf Dom』でも『順位も大体番狂わせもなく自他ともに満足であった』と報じられている。この事は当時のゴルフ界で試合に出る機会が殆どなかったプロの技量が、ちゃんと評価されていた証左として注目するべきだろう。

なお、前半36ホール終了時にトップから二十打差以上ついた者は規定でカットされた。この規定は戦後まで残っており、大谷光明の提言で決まったそうだが、この大会ではその大谷がちょうど二十打差でカットされて、歴史の小ネタ提供している。

大会二日目、快晴無風の良コンディション
二日目の組み合わせは以下の通り(上記の記事掲載)※はプロ
第一組:川崎肇・宮本留吉※
第二組:赤星六郎・浅見緑蔵※
第三組:赤星四郎・中上数一※
第四組:安田幸吉※・某氏(氏名不明・スコアラー)
第三ラウンドが終わった際にトップの赤星六郎と2位の宮本の差が10打差まで開いた為に、もう勝負は決した。と観られ、ギャラリー達の間には宮本・浅見の2プロ(『アサヒスポーツ』では浅見と同位の中上数一も加えられている)による2位争い位の興味しか持てない状況であった事が報じられている。

大会結果は次のとおりである
1:赤星六郎 79・73・79・78=309
2:浅見緑蔵 79・79・85・76=319
3:宮本留吉 83・78・80・79=320
4:赤星四郎 74・90・84・81=329
5:安田幸吉 85・80・84・82=331
6:中上数一 80・82・81・90=333
7:川崎肇  90・79・83・83=335

当事者たちの回想や記述について参加者安田幸吉はインタビュー型の回想記で、記録を見ながら語っているが、細かいことは殆ど覚えていないのです。としており。
宮本留吉については(初日のラウンドでの)9番ホールのバンカーショットでペナルティを取られた話(幾つのペナルティかわからず、競技委員一同がルールブックと格闘している)が良く知られているが、宮本本人にとってもそこが大きな思い出であった様で、幾つもの回想で触れているが、その他の事は浅見と二位争いをした話や賞金の話位である。

その浅見緑蔵の回想は少々毛色が違っている。
大会前の練習ラウンドは2~3日前からで、それまでの間一度もコースを18ホール廻れる事は無く、レッスンや事務に忙殺されていた。
大会では手持ちのクラブはたった5~6本しかない中、更にアマチュアに気兼ねする萎縮したプレーをしていた。と1963年に『Golf(報知新聞)』においてプロの地位の変化を語る中で回想している。
その萎縮というのがどんな状況であったかというと、国内ゴルフ史の『掘っくり返し屋』であった井上勝純がこの大会について浅見に尋ねた際に、浅見曰くアマチュア選手がラフに打ち込んだ際にはボール探しを手伝わなくてはならない雰囲気の一方、自分の時は冷ややか見ているだけで、時計を見たわけでもないのに『もう5分経ったから打ち直せ』と言われるような状況に置かれており、自分のプレーを見いだせなかった結果で『10打差は納得が出来ない』と語った事がJPGA30年史に紹介されている。

一方、程ヶ谷の会員であった石井光次郎は、赤星六郎が同じ組の浅見に教えながら廻っていたといい、著書『回想八十八年』で
『~その六郎と浅見緑蔵との決勝マッチプレイに、私はついて回った。試合の途中で六郎が『浅見、お前はああいうショットをしちゃいかん』と教えている。『はっ』というようなことで、浅見は教えられながら一生懸命やっていたが、六郎が勝って~(後略、原文ママ)』
 と振り返っている。浅見と石井の回想は両方とも違う面から見た事実なのだろう。
※なお石井によると彼と同じようにこの組に付いて回った森村市左衛門がせっせと写真を撮影していたと、赤星の追悼記事に寄稿している。

さて、件の『アサヒスポーツ』7月1日号の記事では大会結果の後、赤星について次のような趣旨の文が書かれている

前年の日本アマチュアで強風小雨のコンディションとは言え160打であった事から、アメリカで名を挙げた彼なのかと少し非難され、上海遠征も芳しくなかったが(筆者注=チャイナ・オープンAm5位)、ずば抜けたそのフォームや球筋から存在であると皆が認めていた。309のスコア、80以上のスコアを出していない所に彼の強みがある。

と、このスコアを偉いとし、続けて『あるいはこのスコアを破ることは当分出来ないかもしれない』と、300どころか290台を破る勢いの英米のゴルフ界に比べ、
『老い行く先輩、若手の成長は遅く、六郎以上の日本人ゴルファーは出そうに無い。彼以上の者が出ないなら彼自身にこのスコアを破ってもらう他に世界の記録に近づく道はない。 脂の乗ってる30前の彼には日本のゴルフ道の為に大いに精進してもらわねばならない』
という趣旨の選手層の偏りに対する危惧を述べ、彼のティショットが『帰米当初と比べて20~30yd』短くなった。という先輩連の意見と共に激励をしている。

勝つべき者が勝った。という睡蓮生(石井光次郎?)の意見であるが、選手層問題については、アマチュアの事がメインであったような気配を感じる。もっとも当時のゴルフ界のプロとアマチュアの割合と地位の問題で致し方ないだろう。

睡蓮生は続けて『若者の時代が来た』として、カットされたのは四十代以上やそれに近い者ばかり(唯一の予選落ちのプロ関一雄は19~20歳位だが)。一方入選者は川崎肇の40代を除けば1,2,3位の赤星六郎・浅見緑蔵・宮本留吉は(数えで)二十代の者ばかりで、その差は川崎の2日目のプレーを見ていると、この感が強かった。と書いている。

そして最後に2位の浅見、3位の宮本らプロについて評しており。
浅見は、最も将来のあるプロとして、その長身でしなやかな体から繰り出される球筋から、試合の度胸が少し足らないのが弱点も歳と共にその成長を日本ゴルフ界の成長そのもののごとく大いなる期待を持って見たい。と評し。
宮本は日本一のドライバーと呼ばれるそのロングドライブが注目され、アプローチショットに一段と工夫を積めば、浅見と並んで東西プロ界の宝玉のごとく光るであろう。と両者とも弱点を克服すれば大成することを述べている。

兎も角、この大会でゴルフ界全体の技量が判明した。トッププロは、ほぼトップアマチュア達の技量を上回り、川崎肇・赤星四郎とは同レベル、しかし図抜けた存在で有る赤星六郎には未だ及ばない、そしてプロがいかに競技ゴルフに馴染めるかが課題となったのである。

そして彼等のアマチュア勢への逆襲がこの年の関西オープンから始まった。
東西Am対抗戦が関西で行われたことから、トップアマチュアが多数参加し、36H競技ながら『むしろ全日本オープンの感を強くし』と云われたこの大会で、この年の日本プロ勝者の中上数一が一貫した危なげのないプレーをし、上海のプロ、ジョージ・ノリス(2位)そして無敵の赤星六郎(3位)に大差をつけて破って以降、オープン選手権はプロの独壇場になった。
翌年の日本OPでは赤星が所用で不参であったとは言え、前年二位であった浅見緑蔵が前年の悔しさをバネに奮戦して優勝を果たし、彼はその後東京GC招待、日本プロ、茨木CC招待とこの年参加できた全てのプロ競技に優勝。彼が参加できない関西OPもプロの宮本留吉が優勝して、ゴルフ界は新しい時代を迎えている。

『アサヒスポーツ』の記事を発見できたのは筆者にとって、とても驚きであったと共に、とても悔しい思いも齎した。
従来の定説を覆すような物であったので、後日JGAミュージアム委員参与の武居振一氏とお会いする際に写しを持っていき、事務の方にも見せたが、皆『赤星神話を覆すようなものだ』と言われていた。のだが、この年のJGAのHPに掲載された日本OPのページの大会小史は、従来の小笠原史観のままであった。
担当の方に資料が廻らなかったのか、小笠原史観を絶対とされたのかは判らなかったが、当時の筆者は無念でたまらず、後日その方にJGAに記事の写しを渡している事を伝える。という出来事があった。

その様な経緯があったのと、別所で戦前期の日本ゴルフ史を書き纏めている事から(其方で大会の詳細等を書く予定で在るが、まだ日本OPの所まで進んでいない)この場で出す気に成らなかったのだが、昨年晩秋に日本OP記事のある号が入った『アサヒスポーツ』の数冊セットを入手する事が出来たので、世の人に筆者が見つけた記事が実在することを示すため、新説の部分をメインに書いてみた。
このよう記事があることから、JGA100年史編纂の際には従来の資料だけでなく、『アサヒスポーツ』を始めとするスポーツ雑誌や新聞、その他の資料が生かされることを切に望む。


                       ―了-
                      2021年1月21~7月18日記


主な参考資料
・日本のゴルフ史 西村貫一  雄松社 1995復刻第二版 
日本ゴルフ協会七十年史   日本ゴルフ協会  1994
・新版日本ゴルフ60年史 摂津茂和 ベースボールマガジン1977
・『東京日日新聞』1927年5月28~30日分
・『Golf Dom』1926年9月号P7『來年度のChampionship―Japan Golf Association 總會に於ける決議―』
・『Golf Dom』1927年1月号P2~5『1926年のGolfを顧て』
・『Golf Dom』1927年6月号P20~24 『全日本Open Championship ―赤星六郎氏優勝す―』
・『Golf Dom』1927年7月号P8~10 ケーワイ生(吉田耕二) 『Long Putt Short Putt漫談數々(4)』
・『Golf Dom』1927年7月号P20~22『全日本Professional Golf大會』
・『Golf Dom』1927年7月号P23~25 C.I.生(伊藤長蔵)『六實一瞥』
・『Golf Dom』1935年1月号P23~34『大谷光明氏にゴルフを訊く』
・『アサヒスポーツ』1927年7月1日号P20 睡蓮生(石井光次郎?)『日本で最初に催された ゴルフオープン競技 赤星六郎君の優勝』
・『Golf(目黒書店)』1940年5月号P20~25 無記名(大谷光明?)『日本オープン思ひ出の熱戰集』
・『Golf(報知新聞)』1963年8月号 浅見緑蔵『むかしといまのプロ』
・『週刊パーゴルフ』1982年新春特大号 小笠原勇八『真相日本のゴルフ史 Part2連載5 アマチュア赤星六郎がプロを制した昭和2年第1回日本オープン選手権』
・回想八十八年 石井光次郎 カルチャー出版社 1976
私の履歴書 経済人15 P75~144高畑誠一 1981 日本経済新聞社
・ゴルフ一筋 宮本留吉 1985 ベースボールマガジン社
・わが旅路のフェアウェイ安田幸吉回想記 井上勝純 1991 廣済堂
・ゴルフに生きる  安田幸吉   1991補訂第二版 ヤスダゴルフ
日本プロゴルフ協会30年史 1987 日本プロゴルフ協会

史料はJGA本部資料室、国会図書館で閲覧および筆者蔵書から

 

 

(この記事の著作権は松村信吾に所属します)