ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

松村信吾の発掘ノート

掘っくり返し屋のノート-人物評伝-『忘れられた朝鮮最初のプロ、出口寛治』

朝鮮半島最初のプロは戦前最後の日本OPに優勝した延徳春(1916~2004)とされている。彼は1935年に京城GCから『内地』こと日本の藤澤CCに留学し、ヘッドプロの中村兼吉の指導の下、関東PGAの月例競技および日本OP、日本プロに出場。翌年3月終盤の帰郷後、正…

掘っくり返し屋のノート-埋もれた選手権記録-『転機、1918年日本アマチュア選手権』

日本の競技ゴルフ史に於いて、日本アマチュア選手権は1907年の第一回大会から1915年迄の大会は外国人の選手権であった。神戸GCと横浜根岸のNRCGAが持ち回りで開催をしており、加えて日本人の参加が無かった為だ。その為に“在留外国人間の私的競技”などと評す…

掘っくり返し屋のノート-埋もれた競技記録- 『自己申告~1909年日本アマチュア優勝者失格事件~

メジャーや一国の名前を冠した選手権で優勝者が失格になる・なりかねない事例と云うのはそうそうない。 1876年年大会でデヴィッド・ストラスがグリーンへのショットが飛びすぎて先行組およびギャラリーに打ち込んだ事が問題となり、それがルールに反するか否…

掘っくり返し屋のノート㉜『プロに成らなかった男』

北海道のゴルフは古い。1927年春に小樽の佐藤棟蔵(三菱鉱業)、札幌の佐藤清、函館の君島一郎(日銀支店長)らパイオニアが銘々公園の一角や草原でクラブを振り始めたのが同地のゴルフの始まりとなっている。(それ以前1910年代末期か、プロの中上数一が海…

掘っくり返し屋のノート-埋もれた競技記録-

『赤星四郎の1921年フロリダ冬季選手権第二フライト優勝に関する補筆』 2018年に筆者が大叩き氏のブログをお借りしての書き物を再開した際に書いた『ミステリー①』は1921年のSt.オーガスチンで行われたフロリダ冬季選手権の第二フライト(マッチプレー競技な…

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・18

18 1920年代の関西のゴルファーには銀行家が多かった。もちろん東京GCの発起人である井上準之助、名手川崎肇なども銀行家で在り、他にも幾人も居るのだが、関西は不思議と目について居る。 このシリーズの第一~二話で紹介した安部成嘉、星野行則は銀行の支…

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・17

17関西のゴルフは神戸で始まり、第一次大戦後から大阪でも火が付きだしていたが、1924年頃には古都京都でもゴルフの火が廻って来た。これは大阪の実業家らによって茨木CCを造る機運が出たのに触発されての事で、当初は室内練習場で福井覚治や研修中の宮本留…

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・16

16日本のプロのパイオニア、福井覚治が人にゴルフを教えたのは1913年に横屋GAに入会した安部成嘉とプレーをして勝った翌日の事だという。福井本人は『阪神ゴルフ』誌上の回想記で明治41年(1908)の事としているが、夫人が雑誌『日本ゴルファー』1936年4月号…

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・15

15キャディ達のゴルフ遊びは、六甲のキャディたちが行っていたのが走りで、宮本留吉が育った麓の篠原村では村はずれの芝原に彼らがショートコースを作って、柴刈鎌の廃品を鍛冶屋でアイアンやパターにして貰いプレーをしていたというし、鳴尾ではコースと武…

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・14

14St.アンドリュースでプレーをした最初期の邦人ゴルファーである久保正助(神戸ガス重役)は、関西の邦人ゴルファーとしてもパイオニアで、鳴尾GAが出来た頃、発起人の一人である安部成嘉の勧めでゴルフを始めた人物であった。その際の事として、秋の良く晴…

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・13

13関西は日本のゴルフ用品販売や製作の先鞭をつけた場所で、福井覚治が後援者のW.J・ロビンソンの勧めで1914年前後には工房を開いており、神戸GC支配人の佐藤満も早くからショップを構えていた。(彼が創立した三田GCホームページに於ける年表では、1918年か…

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・12

12鳴尾GCは鳴尾GA時代の6ホールを受け継ぎ発足し、9ホールに拡大して会員達はプレーをしていた。その内に18ホールの茨木CCが創られることに成り、鳴尾が関西ゴルファー達から取り残されない様に、以前倶楽部キャプテンであったE.G・フラッジェリー(1911日本…

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・11

11六甲の神戸GCでは1933年までサンドグリーンが使われていた。このサンドグリーンとは『水はけ等を考慮した砂地のグリーン』ではなく、土の土台に砂を撒いてローラーを掛けて固め、更にホール回りに細かい砂を掛けるという。良い芝が得られなかった初期の新…

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・10

10シーズン中の神戸GCは別荘地の傍にある為、ゴルファーとその家族だけでなく門番と呼ばれた別荘管理人や、アマサンと呼ばれる家事を担当する女中さんたちも『何処々々の○○さんが今日はどういうプレーをした』事を知っている様なゴルフ村と化していた。と伊…

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・9

9神戸GC及び会員等の別荘地は六甲山の上にある為、向かうには(A.H・グルームが地元民を雇って整備した)山道を徒歩で上がっていくか、麓の駕籠屋さんに頼んでえっちらおっちら揺られて行く方法があった。駕籠屋さんは六甲へ上がる各道の出発点に集まってい…

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・8

8国内最初のパブリックコース、長崎の雲仙GLに於けるカラスのボール攫いは今も有名で、俳優の早川雪舟がプレーをした際にそんな目に遭ったのを記念して、カラスを追いかけている自身を描いた漫画絵が友人によって『Golf Dom』に掲載されたり、民俗学者の柳…

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・7

71920年に開場した、関西で最初の日本人によるゴルフ倶楽部である舞子CCは、恐らく当時日本に在ったゴルフ倶楽部の中で一番競技を行っていたであろう。戦前期は他の倶楽部でも競技は多数行われていたが、大正期は舞子がダントツで多く、『Golf Dom』にも(外…

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・6

6鳴尾から芝を持ち出せなかった為もあろうが舞子CCのコースは1920年10月3日に開場した時も芝付きが悪くボコボコであったといい。それから数年間『ティとグリーンだけのコース』と呼ばれる状態でプレーがされ、当初の9ホールから12ホールに増設したモノの再び…

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・5

5芝の話はまだまだ続く、日本人と外国人によって1914年に開かれ、年を追うごとに熱心な邦人ゴルファー達が集まり発展した鳴尾GAも、借りていた土地の一部を所有していた鈴木商店が食用油工場設立の為他の土地を買い取った事により9ホールから6ホールに縮小し…

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・4

4関西のコースでは芝にまつわる話は(東京ベントの始まりも大概だが)関東のそれに比べて激しめの話が残っている。 1913年晩秋?の横屋の閉鎖によって創立者のW.J・ロビンソンと最後の入会者及び最初の日本人会員であった安部成嘉が新天地として武庫川と鳴尾川…

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・3

3神戸GC発足前、コース造成から関わっている貿易商W.J・ロビンソンは、コースが六甲山頂の為に冬季はプレーが出来ないことを残念に思い、平地にコースを造る事を思い立った。その際に用地として神戸GCを興したA.H・グルームが1898年に日本国籍を持つ長男名…

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・2

2神戸GCに於ける日本人で最初のプレーイングメンバーは六甲で初めて別荘を購入した邦人でもある貿易商の小倉庄太郎で、1905年乃至07年の事。後者の時は妹で名ピアニストと成る小倉末子もプレーしたという。小倉が入会したのは親交のあった登山とゴルフの名…

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・1

東京GCの最初の活動の地であった駒澤に集まるゴルファーたちの逸話を書いたが、関西も初期から様々な逸話があるので記していこう。この書き物においても実際の記述や回想を基にしているが会話などは『こんな感じであったのだろう』という風味付けをしている…

掘っくり返し屋のノート『デヴィッド・フードの補足』・9

『9:関西時代のデヴィッド・フードの活動と彼の唱える技術論』 デヴィッド・フードが担当した茨木CCの設計では諸事から造成が不本意な事となり、1925年10月1日に18ホール(2757・3027=5777yd)が開場した少し後にはデヴィッドは二度目の離日をしているが、…

掘っくり返し屋のノート『デヴィッド・フードの補足』・8

『8:デヴィッド・フードと茨木CC設計の概要』 デヴィッド・フードの日本に於ける最大の功績と云われているのが茨木CCの設計であるが、これは彼を始め関係者一同苦闘の場でもあった。この書き物はデヴィッドの来歴と活動を辿ることがメインであり茨木CCの倶楽…

掘っくり返し屋のノート『デヴィッド・フードの補足』・7

『7:日本に於けるデヴィッド・フードの補足-再来日と関東大震災からの関西移籍』 再来日後のデヴィッド・フードの動静に関しては、翌1924年1月5日に駒澤で行われたキャディ競技の記事に、彼らのスウィングに影響を与えたという記述が見受けられることから、…

掘っくり返し屋のノート『デヴィッド・フードの補足』・6

『6:日本でのデヴィッド・フードの活動の補足-最初の来日時』 さて、次はデヴィッド・フードの来日について紹介していきたい。これ迄国内のゴルフ史書に於いてデヴィッドが来日したのは1921年であるとされ、筆者も2019年迄そう思っていた。これは『日本のゴ…

掘っくり返し屋のノート『デヴィッド・フードの補足』・5

『5:第一次大戦前後のデヴィッド・フードの動静とフィリピンへの旅立ち』 1914年に勃発した第一次大戦の影響でニュージーランドでも翌15年から選手権が中止に成ったが、それはオーストラリアよりも一年遅く、赤十字のエキシビションなどは英米同様行われて…

掘っくり返し屋のノート『デヴィッド・フードの補足』・4

『4:ニュージーランド選手権におけるデヴィッド・フードの記録とその他の活動』 デヴィッド・フードがオークランドからオタゴGCに移籍した1906年、ニュージーランドのゴルフ競技史におけるターニングポイントがあった。これ迄同国のプロ達は、エキシビショ…

掘っくり返し屋のノート『デヴィッド・フードの補足』・3

『3:ニュージーランドに来て間もないデヴィッド・フードの動静と同国のプロゴルフ事情』 デヴィッド・フードはアーチ-・ベアード氏の調査では、1904年にニュージーランドのオークランドに渡ったといい、先話で挙げた『Referee』1921年11月9日付では1905年…