ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート㉖ 『戦前の来訪外国人プロゴルファー芳名帳』 その3

f:id:ootataki02:20210612125942j:plainデイヴ・ブラック(1883~1974)
1923年前後に思案
トルーン出身の兄弟プロの一人で、バンクーバーのショーネッシー・ハイツGCで働いていた。彼の兄弟もアメリカ西海岸で働いており。ジーン・サラゼンと1922年の全米OPで優勝争いをしたジョン・ブラックは彼の兄である。
ブラックは150㎝台と非常に小柄であったが、“小さな鉄人”と呼ばれる1910~20年代のカナダプロゴルフ界を代表するプレーヤーで、カナディアンPGA四勝という戦績を挙げ、優れたアマチュアであった息子のケン・ブラックとともにカナダゴルフ殿堂入りをしている。
バンクーバーは日本からの航路の停泊地であったので、(政財界のトップが多かった)筆頭に日本人ゴルファーが出入りしていたことから、ブラックも川崎肇などから日本ゴルフ界の情報が入っており、しきりに日本に行ってみたい、川崎に会ったら宜しく。と語っていたことが『Golf Dom』1923年3月号掲載の現地来訪したゴルファーの寄稿文の中に出てくる。
日本行は叶わなかったが、1935年の日本プロ渡米選手団が来加した際に所属クラブで親善マッチを行ったのち、選手団を自宅に招待している。

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シリル・ウォーカー(1894~1948)と・ウィリー・マックファーレン(1889~1961)
両者とも1925年頃思案
ウォーカーはイングランドランカシャー生まれの移民プロ、第一次大戦直前に渡米。ショットメーカーで1924年度全米OP勝者だが、スロープレーでも有名で、夏坂健が彼の退場事件を読み物で書いている
彼は赤星六郎の先生の一人で、神奈川県二宮にあった彼の邸宅にはウォーカーの写真が飾られていたことを親交のあった南郷茂宏(南郷三郎の息子)がエッセイで記している。

マックファーレンはスコットランドアバディーン出身のプロ、20代初めの頃にアメリカに渡る。第一回USPGA準決勝者(3位)になっているが、クラブプロの仕事が主で試合にあまり出なかったので、1925年の全米OPでボビー・ジョーンズをプレーオフで破った際は大騒ぎになった。
 日本に興味を持ったのは同年に英国ゴルフ旅行の際に全米OP観戦及び帰路に再訪した大谷光明・赤星鉄馬らに日本のゴルフの話を訊いた為の様だ

ウォーカーとマックファーレンの(個別の)来日思案の件は、当時の日本ゴルフ界で歓迎はされたものの、招聘まではいかなかった。その理由は当時の日本のゴルフ界が未熟であることから、プロたちにとって技量を発揮できる場がなく、単なる観光旅行のようなものになってしまうだろう(呼ぶためには日本ゴルフ界の底上げをせねば)。という趣旨が『Golf Dom』1926年1月号の巻末コラムに記されている。

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ブラウン某(1888頃~?)
1926~27年頃交渉
英国ケント州ベックナム自治区(現在はロンドン特別区ブロムリー編入)在住であったプロ。当時鳴尾GCがチャンピオンシップコースとして整備が進んでいた事と、会員F.V・ウォーカーが帰郷するのを機に、彼にブラウンを年俸500ポンドで鳴尾に移籍してもらえるよう交渉をしていたが、鳴尾浜にあったコースの地権者が変わった事による使用状況の変化から凍結状態になり、1927年7月に倶楽部側がウォーカーに中止を求めて、この件は立ち消えになった。

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オーストラリアPGA選手団
1936年4月予定
 メンバーは1930年代にオーストラリアOPやPGAで活躍したした若手選手、ウィリアム・ジョセフ“ビリー”・ボルガー(1910~1977)、マイケル・ルイス“ルー”・ケリー(1913~1971)、テッド・ネイスミス、ジョージ・ネイスミス(1909~1983)、ジョー・コーエンの5人

事の発端は1934年にオーストラリアPGAアメリカのプロ選手団を招待して対抗戦(この対抗戦は開催クラブにちなんでレイクス・インターナショナルカップと呼ばれ1950年代にも行われたそうだ)やトーナメントを行ったのだが、アメリカ側からその返礼として35年末に招待を受け、翌年にかけて同地での対抗戦とウィンターツアー(PGAツアーの前身、クラブプロたちが休業となる冬季に西海岸と南部で行ったのでこの名がついた)に参加する事になっており、
その帰りに日本に寄港しプロチームと対抗戦を行うことをJGAに打診し、日本側も乗り気で日程の調整をしていた。のだが、オーストラリアチームはアメリカでの戦績が非常に芳しくなかったため自信を失い、日本との対抗戦もキャンセルしてオーストラリアへ直帰してしまい、日本側からしたら『なんだそれは⁉』という結果に終わってしまった。

 

 

 

~番外~

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エドワード”テッド“・レイ(1877~1943)
ジャージー島出身でハリー・ヴァードンの後輩にあたる。大柄な体格で桁外れのロングヒットで知られ米英のOPを制覇した数少ないプレーヤーの一人。
荒れ球持ちだが素晴らしいショートゲームとパットの持ち主で、正確無比なヴァ―ドンと組んでエキシビションを始めアメリカ遠征も行っている。
日本へは来なかったが、1925年にゴルフ探訪のために渡英した『Golf Dom』の伊藤長蔵らとの契約で翌年『Golf Dom』へ『Japanese Golferの為に』という日本人向けの連載レッスン記事を寄稿している。

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ロバート・タイア“ボビー”・ジョーンズ(Jr.)(1902~1971)
言わずと知れたゴルフ史上伝説の名手の一人、日本へ招こうとする動きは現役時代の時から引退後の弁護士兼職業ゴルファーであった1930年代までに少なくとも四度(1926,28,33,37)あり、斎藤博アメリカ総領事、のち駐米大使)岩永裕吉(のち共同通信社社長)や野村駿吉や赤星六郎が交渉をしたが、タイミングが合わなかったり、ギャラの問題で叶わなかった。

 ギャラ問題は引退間もない頃(1933年時か)の交渉の際に、先に来日したウォルター・ヘーゲンらが求めた額よりもずっと高い2万ドル(4万ドルとも)に渡航費と夫婦での滞在費も請求したため、当時のゴルフ界重鎮たちから“がめつい”とみられる出来事となった。
 ジョーンズは弁護士でやり手のビジネスマンであったことから自己の権利と価値をキチンと図って請求をしたとみられ(今もジョーンズと彼にかかわる名前には使用料が発生する)。また当時はクラブデザインやレッスン映画製作などの事業をしていたので、それを休止した際の補填の意味もあったのだろうが、日本側に悪印象となってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主な参考資料
・日本のゴルフ史 西村貫一  雄松社 1995復刻第二版 
日本ゴルフ協会七十年史   日本ゴルフ協会  1994
・新版日本ゴルフ60年史 摂津茂和 ベースボールマガジン1977
・程ヶ谷二十年 程ヶ谷カンツリー俱楽部 1942
霞ヶ関二十五年史 霞ヶ関カンツリー倶楽部 1955
・ゴルフに生きる 安田幸吉 ヤスダゴルフ製作所 1993改定版
・ゴルフ一筋 宮本留吉回顧録 宮本留吉 ベースボールマガジン社1985
・人間グリーンⅥ 大屋政子・小笠原勇八 光風社 1978
木戸幸一日記上巻 東京大学出版会 1978第五版
昭和天皇実録第三巻 宮内庁編集 東京書籍 2015
・American Annual Golf Guide 1929年版
・Royal and Ancient Championship Records 1860~1980   R&A 1981
・Golf in Canada A History James A. Barclay 1992
・The Architects of Golf   Geoffry.S Cornish & Ronald.E Whitten
・佐藤昌が見た世界のゴルフコース発掘史、ゴルフ伝来100年記念出版 佐藤晶
・サラゼン・ウェッジ(原題『Thirty Years of Championship Golf』) ジーン・サラゼン、ハーバート・ウォーレン・ウィンド共著 戸張捷訳 小池書院 1997
・世界記録ツアー11連勝した男(原題『How I Played the Game』)バイロン・ネルソン著 戸張捷訳 1998 小池書院
・ウォルター・ヘーゲン物語(原題『The Walter Hagen Story』)ウォルター・ヘーゲン著 大澤昭一郎訳 2006 文芸社
阪神ゴルフ1922年4~5,9月号
・Golf Dom1922.11~1943年分
・Golf(目黒書店)1931.11~1937,1939~40年分
・週刊アサヒゴルフ
1972年6月21日号 小笠原勇八 『人物百話6 森村市左衛門』
1973年1月24日号 小笠原勇八 『人物百話33 岩永裕吉』
1973年2月7日号 小笠原勇八 『人物百話34 野村俊吉』
・アサヒスポーツ
1930年6月15日号
1930年7月1日号、7月15日号『ゴルフ座談会 へーゲン、カークウッド兩氏のプレーを觀て(上)(下)』
1931年1月15日号 植村睦郎・玉村生『ビルとボビーのゴルフ』
1938年五月第二号
・大阪毎日新聞
1927年9月2日朝刊七面『プロフェッショナルゴルファー 本社主催国際模範試合』
1927年9月3日朝刊七面『ノリス選手の技量は侮れぬ 興味をもって期待されるけふのゴルフ試合』及び『日本プロフェッショナルゴルファー国際模範試合』
1927年9月4日『ノリス福井組見事勝つ 五アップ三ツー・ゴー 国際ゴルフ模範試合』
・東京朝日新聞
1921年12月8日朝刊五面『雄辯家ス氏來朝 川崎の大競技場設計者も』
1922年9月9日夕刊二面『來て見てびっくり新婚旅行のゴルフの先生 宮内省でも教習交渉の手紙』
1926年8月28日朝刊『フード氏歸國
1929年12月6日朝刊『ゴルフ界の二巨人來朝 来春を期待されるヘーゲン、カークウッド両氏』
1930年5月21日夕刊二面『世界のゴルフ王ヘーゲン氏來る 曲打王のカークウッド氏と相携えへてけふ神戸へ』
1930年5月30日朝刊11面うますぎる妙技 初めて見る両巨人の腕前にファン膽をつぶす」
1931年12月4日朝刊11面『ゴルフ教師來る』

以上資料はJGA本部資料室、同ミュージアム国立国会図書館昭和館で閲覧および筆者蔵書

The American Golfer
・1916年11月号  J.G Davis筆    『Western Department』
・1916年12月号  Lochinvar筆    『Western Department』
・1910年3月号  Westward Ho!筆 『Western Department』 
・1913年3月号  Lochinvar筆    『Western Department』 
Golf Illustrated   
1920年1月号G.O. West筆『ALONG THE PACIFIC COAST』
1921年11月号G.O. West筆『Golf on The Pacific Coast』

以上資料はLA84Foundationホームページ、デジタルライブラリーで閲覧

参考サイト
PNWPGA History Project WikiよりHall of Fame及びChamipionship


(この記事の著作権は松村信吾氏に所属します。)