ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

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掘っくり返し屋の思案 『縦の糸横の糸 正しい歴史とは』

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正しい歴史。というと世間では大日本帝国時代の海外統治や日中~太平洋戦争における加害認識問題という、史学にイデオロギーが絡んだ事柄が結び付きやすいが、ここで書くのは大日本帝国時代ではあるが国内のゴルフ史に関する問題である。

以前赤星四郎のアメリカ時代のトーナメント記録について書いた『ミステリー①』の冒頭で少し触れたが、1980年代以降日本のゴルフに携わる各団体には派閥というものがあって、その中で国内ゴルフ史において、なぜか事実が軽んじられたり、酷い場合は黙殺されてしまう事が起きている。
残念なことに『歴史の事実があって、それを各位がどう見て自分達の見解を述べるか』ではなく、団体等のメンツの為の歴史になってしまっているのだ。
筆者の知人の某国立大学日本史研究員氏は『そのような事は歴史研究ではよくある話です』と言われていた。また、伝統芸能のとある分野では、対立していた一派の事を全く無視し、その芸能の歴史を描いた一大書籍も在る事を、先年喧嘩別れした若き大衆芸能研究の御仁から聞いたことがある。

現在、『日本のゴルフは東京GCが総ての起源なのだ』とする論がある。これは、日本のゴルフ界の重鎮であった大谷光明が摂津茂和の『日本ゴルフ60年史』の序文に書いた、

“六甲・根岸は外国人が主体の俱楽部であり、日本のゴルフの発展に直接の影響を与えていない。日本のゴルフは外国でゴルフを覚えた日本人の手によって発足し、外国人ゴルファーの助けは借りながらも、何から何まで(倶楽部運営・規則・作法・芝の研究等)ABCから彼等の手によって行われ発展し、その先駆が東京GCであるという事なのだ”

という趣旨の言が基であり、更にその説へ、ゴルフ誌記者・JGA・KGA事務局長として戦前からゴルフを観て記録して来た小笠原勇八が、日本のゴルフ発展に貢献をした者達の大半が東京GCの会員(関西の重鎮たちも掛け持ちしていた)であった事や、東京GCが様々なゴルフ界発展にかかわる事柄を率先した事から、東京GCの歴史=日本のゴルフの歴史である。と世に訴えた所からきているのである。

事実、1913年に発足し翌年初夏に開場した東京GCの起源として、ニューヨークの日本人社交倶楽部のゴルファー達(1902~03年に生糸商新井領一郎が友人たちにゴルフを勧めたのが起源)まで遡る事が出来、戦前期の関東・中部甲信地方のゴルフ倶楽部のほぼすべての母体であり。
当時のゴルフ界の主権を握っていた神戸や横浜との対抗戦を先んじ、JGAの創設、プロ・アマチュアの技術の底上げをした赤星兄弟の存在、東京婦人ゴルフ倶楽部と戦後JGA女子部をまとめた名手三井栄子、相馬孟胤の常緑芝研究、C.H・アリソンの招聘、プロショップの創設と専門職としてのプロゴルフの体系立てと一貫した団体(関東PGA)、大谷光明によるルールの研究などなど……
国内ゴルフに大きな影響を与え東日本のゴルフ界の源流となり、国内のゴルフ界を牽引する主流団体の一つであった事は疑いのない事実であり、同倶楽部の誇りとされている所以である。

しかしである、関西も東京GCと同時期(1914春頃)に日本人(安倍成嘉)と外国人(W.J・ロビンソン)が一緒に鳴尾GAを造っており、その源流は日本最初の倶楽部神戸GCまで遡る。
ロビンソンが冬季に神戸GCではプレーができないので横屋GAを1904年頃に興し、1913年秋頃同地が閉鎖になった際に、彼と最後の入会者であった安倍が新天地として鳴尾を興したのだ。
この鳴尾GAは関西ゴルフの源流であり、このコースから移転先の舞子CC、引継ぎの鳴尾GCが生まれ、続けて茨木CCや舞子の後続として広野GCが生まれている。

戦後東京GCとそこに纏わる者達の功績を述べた大谷も、大正末年に萬朝報の『新日本史4巻-運動編-(1926発刊)』で舞子について関西における日本人による日本人のコースと評し、
『今日関西で活躍してる日本人ゴルファーの大部分は、この垂水を揺籃の地となし、こゝで育てられたので、垂水に對しては其人達は母胎の如き尊敬と感謝を拂つても然るべきかと思はれる。(原文ママ)』
と述べており、日本人のゴルフの歴史は、東京GCと鳴尾GAの二つの流れが存在していると観るべきであろう。

 また、関西はゴルフ用品製造(福井覚治および佐藤満。東京の各大手運動具店も1910年前後から注目していたそうだが、東京GCとは直接関係はなかった模様)、日本人によるゴルフ雑誌刊行(『阪神ゴルフ』及び『Golf Dom』)、ゴルファーの為の社交倶楽部・室内練習場(阪神ゴルファーズ倶楽部)、日本人による最初の女子ゴルフ団体(関西レディスGC、三井のライバルであった西村マサが中心人物であった)、
職業としてのプロゴルフ及び団体設立(関西プロフェッショナル研究会)、ルール本刊行(松本虎吉翻訳、大谷光明も手伝っていた)、オープン及びプロトーナメント発足(毎日新聞後援・主催の日本プロ、KGUの関西OP)、等。
関東より先んじていた欠かすべからざる事柄が多々ある事実は正史に記録されなければならず、各研究者は留意すべきである。

当時のゴルフ界の動きを端的に述べると、関東はコース造成や倶楽部運営、ゴルフ団体の取りまとめ等のハード面から入り、計画を立ててじっくり行動にあたっている。一方関西は用具や文化面などのソフト面を充実させ、思いついたらすぐ行動。という即断力があったといえる。

筆者は六甲の神戸GCで行われた2019年度日本ヒッコリーOPの後、参加をされていた鳴尾GCの職員さんとクラブハウスで-雨雲の中に入ったコースを見ながら-上記の話をし、
『日本のゴルフ史において、日本人の日本人による倶楽部である東京GCから始まる流れと共に、日本人と外国人が造った鳴尾GAから始まる流れもきちんと記録せねばならないし、鳴尾はその事を誇りとすべきだと思う』
と述べた所、氏も『その通りなのだ』と強く云われていた。

現在の『東京GC日本ゴルフ創成論』が浸透している状況については、先述の小笠原が1979~87年間に『週刊パーゴルフ』で長期連載をしていた『真相日本のゴルフ史』で、当時関西の話が偏重されがちで、誤伝も多かった国内ゴルフ史において東京GC関係者たちの功績を世に訴えた事。そしてその後も東京GCの方々が啓蒙していたことが一番大きいと思う。
東京GCは現在までコースは2度移転したが、倶楽部自体は100年以上途切れることなく続いており、ゴルフ史料も小笠原の記録資料(小笠原は各地の倶楽部史編纂にも関わっており、特に東京GCとは深い繋がりがあった)を頂点に大量に収集し、資料室委員の方々が研究をなさっている。

一方鳴尾GAの場合は1920年に解散となり、旧メンバー達による新設の舞子CCと、敷地を貸していた鈴木商店の社員達によって興された新規引継ぎの鳴尾GCに分かれ。更に舞子は茨木CCと実質的移転再結成をした廣野GCを生んだのち解散し、パブリックコースに運営移行(更に戦後垂水GCとして再結成)。
と、解かり辛くて恐縮だが、皆直接繋がっている訳ではなく、さらに資料も東京GC程まではいかず(広野は高畑誠一が1950年代に舞子時代からの会員であった友人の遺品である大量の大正期からの雑誌資料の合本を寄贈したが、その間もなくクラブハウス火災が起き烏有に帰してしまった)、加えてあまり大きな主張をされなかった事から(あの神戸GCも日本初の俱楽部である件以外は控えめである)東京GC起源論に後れを取ってしまっている。

それに加えて、本邦ゴルフ界では大正の頃から関東と関西間に対抗意識があり、なかなか激しい話が残っている。
現在でも、『朝霞は無くなっているけれど、こっちには広野があるんだぞ』という様な物があったり、東京GC史観が出たJGA70年史に関西側が臍を曲げたという話を耳にしたことがある。(これは先の小笠原の調査資料がベースになっており。内容が薄い上に誤謬が多く、関西に偏重気味であった『JGA55年のあゆみ』に対する反動でもあったが、歴史的なコースの写真紹介欄で関東の物しか乗せていないのは、筆者から見ても明らかにおかしい)

※また、東西だけではなく、JGAに加盟し地区連盟の創立にも関わっている各地区のパイオニア倶楽部と其れを取り巻いた人々の活動についてもきちんと評価されなければならない。と先日同好の方から伺った意見も頭から離れない。

歴史は得てして強者側の視点が主体になってしまうのは世の常だろう、そして各団体や研究者らが自身の重視したい面を主立たせるのも彼らの権利であり、いくつもの視点から物事は観られるべきである。
しかし、日本のゴルフ史にかかわる資料は戦争等で散逸や消滅してしまっている物が多く、隙間だらけの箇所がある。その中で現在のように面子のために記録を軽んじたり黙殺をし、『正しいゴルフ史』を主張する事がいかに危険で滑稽なものになるかは、読者諸兄もご賛同いただけると信じている。

縦横一方の糸を欠かしてしまったら布を織ることはできない。
筆者の自戒の意味も込めて、どのような系列に属していても、研究者各位は事実をきちんと表記してから『当方ではこう歴史を見る・この部分を重視したい』という書き方をして頂きたい。 
そうなれば本邦のゴルフ史研究も加速すると思うのは筆者だけではないはずだ。 暴言多謝

                               -了-
                             2021年6月16日記

 

 (この記事の著作権は松村信吾氏に所属します。)