ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『デヴィッド・フードの補足』・2



 

 

『2:ニュージーランドゴルフの始まりとデイヴィー伯父さん』

ニュージーランドのゴルフは1860年代末期には始動をしており、1871年に南島のオタゴで創立したダニーデンGC(オタゴGCの前身)と1873年クライストチャーチのハグリーパークで創立したクライストチャーチGCが正式な活動の始まりと成っている。

最初の倶楽部である前者は『ニュージーランドゴルフの父』と謳われたスコットランド人酒造家C.R・ハウデン(同国ゴルフ殿堂入りをしており、兄弟や従兄弟達も初期オセアニアゴルフ界の主要人物であった)らの肝煎りで興されているが、現地のゴルフの起こり(オタゴGCのHPによると1869年頃からボールを打っていたのだという)を観ていたデイヴィー伯父さんも会員として活動に加わった。

近代までゴルフ倶楽部と云うのは同じ社会的地位の人達に依って形成されることが多く、本場St.アンドリュースを例に挙げると、“紳士ら”のR&A、労働者ゴルファー(プロやクラブ職人も含む)のSt.アンドリュースGCといった具合に分けられていた。
しかしダニーデンGCは“紳士達”だけでなく配管工・庭師・鍛冶屋と云った肉体労働者や新聞編集者、そして職業ゴルファーの家の出であるデイヴィー伯父さん(ニュージーランドGA発行の『Golf In New Zealand』には“始まりの頃のダニーデンに於けるゴルフ商でもあった”とある)といった具合に様々な階層の者達(当時の記録やハウデンの弟の評伝記事を読むと他に学校の教授や銀行役員も居た)がメンバーで、『世界的に見て民主的なゴルフが行われた証明で在った』と先述の1902年9月27日付『New Zealand Herald』及び10月9日付の『Evening Star』に記されている。

1871~77年時の『Evening Star』や『Otago Daily Times』、『Otago Witness』等のニュージーランド地元紙を確認すると、ダニーデンGC時代のデイヴィー伯父さんは全盛期はスクラッチという、クラブでもトップレベルの腕前で、試合でコースレコードを度々出した話や、現在もオタゴGCに受け継がれているSt.アンドリュースチャレンジクロスに優勝(1874,75?)している他、年次のハンディキャップ式シルバーカップ競技に優勝した記録(1876)と倶楽部委員を務めていた記事を確認できた。
また、1874年にはプレーの巧さを吹聴するJ・テルファーと云うプレーヤーに10ポンドを賭けたステークスマッチを呼びかける広告が2月16日付『Otago Daily Times』に掲載されている事には注目したい(試合が行われたかは不明)
※当時はアマチュア規定が明文化される前で、アマチュアでも賞金が貰える試合が在ったのだ!

しかしデイヴィー伯父さんのゴルフ活動は数年程で紙面から消えた。というのも、ダニーデンGCはクラブハウスとして使っていたコース直ぐ横のホテル(写真が残っているが、コースは住宅街そばの丘の斜面にあり、ホテルも平屋建ての小規模なものだ)の運営移行による破産(1876)に続き土地問題も生じた為、1878年頃から段々活動が尻すぼみになり、加えてハウデンも仕事の関係で英国に帰っていた事も在って1879末乃至80年以降に解散してしまったのだ。
1880年代のデイヴィー伯父さんの動静は調べきれなかったが1892年、ニュージーランドに戻ってきたハウデンらにより、十二年前後のブランクを経てオタゴGCとして倶楽部が再結成した際、彼は初代グリーンキーパーに就任している。

※倶楽部HPでは1876年に始まった上記の出来事からプレー不能となって解散し、再結成まで20年近く掛かった。とあるが、1892年6月25日付『Evening Star』に結成と役員を知らせる記事が在り、HPでもダニーデン・レディスGC(翌年からオタゴ・レディスGC)の結成が同年6月22日としているので、それよりも遅いとは考えにくく、俱楽部側が年数をアバウトに表現してしまったのだと筆者は推察している。

 グリーンキーパーと成ったデイヴィー伯父さんだが、プレーも続けており、1894年の新聞記事を見ると倶楽部で行われたオープントーナメントに参加し、また1893年頃にオタゴGCに隣接して復活したダニーデンGC(旧俱楽部で使われたメダルやトロフィーの競技が行われたが、現在オタゴGCに在ることからこの後合併したのか)のメンバーとして倶楽部競技やオタゴGCとの対抗戦にも出場し1895年には倶楽部の委員にも成っている。

しかし1896年以降は新聞の競技記録にも出てこない。これは年齢の為か、それともこの年のアマチュア選手権後の会合で、クラブ製造販売を行っているウェリントンGC会員プライド氏(97年勝者のデヴィッド・プライドの模様)の選手権不参加という出来事があった事から、アマチュア規定及びプロの定義が議論されたのだが、その記事に『ニュージーランドに於いて二人だけに影響があるプロの定義』とあるので、一人は俎上に上がって居る前者であるのは間違いなく、もう一人はニュージーランドで最初にゴルフを教えた人。と云われるデイヴィー伯父さんか、旧ダニーデンGCの仲間で早くからクラブ職人となったR.D・スミスの事ではなかろうか。と筆者は考えているが、前者であったとするならば彼が職業ゴルファーと見做されて参加資格を失ったか、これを機に裏方として活動をしていたのやもしれない。

二十世紀に入った1902年10月9日付の『Evening Star』にはデイヴィー伯父さんは70歳を超えても時折コースに出て元気にプレーをしている事が報じられ、彼と甥そして旧友ハウデンと息子達(一人は北島のワンガヌイGC創立に貢献)の誰かによるマッチを行うのはどうか。と書かれているが、年明けの1903年1月14日付『Evening Star』のスポーツ記事に先週(1月一週目)にオタゴGCのコースで件の企画が開催され、デイヴィー伯父さんは(無記名だがオタゴからオークランドに移るとある為)フレッドと組み、ハウデンは娘婿H.D・ストラナックと組んで行われた“家族マッチ”はデイヴィー伯父さんの矍鑠としたプレーとフレッドのアシストによりフード家が6&4で勝利している旨が報じられている。

以前筆者は甥の方のデヴィッド・フードの記録を探す際にJGAの旧本部資料室でニュージーランドゴルフ百年史『Golf In New Zealand』に目を通していたが、この事を知らなかった為名前が出てこなかったものの、創成期の話を飛ばし読みしたのが悔やまれる。が書籍に主要人物としてパイオニア達と共に名前が挙がっていたDavid Hoodはデイヴィー伯父さんの方で在ったのか。と得心が付いた。
筆者が確認した記事の記述が確かならばフード兄弟は伯父さんからニュージーランドのゴルフ事情を知らされていた、またフレッドをスカウトしたオークランドGCの会員達もデイヴィー伯父さんの親族がプロゴルファー一家である事を知っていたのではなかろうか。
そして1890~1910年代のニュージーランド及びオーストラリアの初期のプロにマッスルバラやノースベリック等のイーストロジアン地区出身のプロが居たのはこの事が関係しているのか否か。

さて、ここまで全然登場してこなかった主人公であるデヴィッド・フードがニュージーランド渡って来たのは(ダグラス・シートン氏の調査が正しければ)16歳になったばかりの1903年6月4日の事で、その理由がこの年の2月にフレッドと所属倶楽部との契約更新がされた際に、彼が余りにも多忙で業務に支障が出始めているので、業務軽減として弟であるデヴィッドをクラブ製作のアシスタントに呼ぼう。という倶楽部委員会側の要請が在った為だ。
デヴィッドが来る事にあたって『キャディマスターもしてくれると良いな』という、キャディの育成や上手なローテーションへの期待もあった事が4月25日付『New Zealand Herald』の記事に伺える。
デヴィッド本人は4月にはイングランドを出発し、6月6日付『New Zealand Herald 』のゴルフ記事によると、先の木曜日(4日)にイングランドからウェリントン経由で到着し、彼はオークランド(ゴルフ)倶楽部のコースでアシスタントプロとして活動することに成る予定だ。と報じられている。
ここから彼は十数年間ニュージーランドを活動の場とするのだが、主な内容は次話で触れてみよう。

                              ―続―


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)