ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・17

 

1922年4月19日に駒澤で行われた摂政宮(以下昭和天皇)と英皇太子プリンス・オブ・ウェールズエドワード八世、以下英皇太子)との親善マッチは国内ゴルフ史に於いて一大トピックであった。
というのも、イベントから国内でゴルフというスポーツの存在が広く知らしめられ、『聖上がプレー遊ばされているスポーツ』として大正末~昭和初頭のスポーツ雑誌や年鑑・図鑑でもゴルフの事がきちんと記される切掛けとなっている。

何故駒澤が会場に成ったのかを考えればコースや設備が適していた。というだけでなく、昭和天皇がゴルフを始めるきっかけ及びその後のプレーに駒澤雀が関わっている為だろう。
心身育成のスポーツとしてゴルフを宮内省に提言したのが勧めたのが駒澤雀である西園寺八郎と森村開作(市左衛門)で、ゴルフ諸事の先生である義理の叔父大谷光明、来日プロのデヴィッド・フードとのエキシビションマッチを披露した赤星鉄馬らも駒澤雀、そして一緒にプレーをする侍従たちを始めとする宮内省職員も駒澤雀が少なからず居た事は注目すべきことで在り、
加えて昭和天皇新宿御苑を始めとするプライベートコース以外でプレーした国内コースは駒澤と仙石ゴルフ場そして軽井沢GCだけである事は(後者二つも駒澤雀が大きく関わっている)、このマッチと後に台賜された摂政杯共々東京GCが誇りとしている事柄である。

試合は昭和天皇と大谷光明組と、英皇太子と主席随員のライオネル・ハルゼー海軍中将による2ボールマッチを予定していた所、英皇太子の『沢山プレーをしたい』という要望で4ボール式に成った。
試合は英国側が1・3番を取り4番で日本側が取り返す、6番で再び英国側が2アップ、8番日本側の取返しという一進一退のマッチであったが、ドーミーホールである9番のハーヴにより英国側の1UPで終わった。が、これについて英皇太子も大谷光明も後年、相手方を慮りうまく打数を調節して僅差でマッチが終われてよかった。という趣旨を回想しているのはゴルファーとしての見栄なのか何であるか。

試合の状況について伊地知虎彦が『阪神ゴルフ』送ったレポートによると、物々しさを排除する為警察の代わりに会員一同が警護役として各地に配置されており、また当時関東在であった鳴尾GA創立者安部成嘉に家族に語った所によるとパットの際会員らがグリーン上の旗を持ったという。
一方従業員については当時キャディマスターの職に在った安田幸吉によると、当日は他の従業員と詰所に篭っていた事を回想していることから『下々の者は両殿下の目に触れないように云々』という日本の宜しくない伝統が発動したのか?

プレーに当たり昭和天皇には会員高木喜寛の息子秀寛、英皇太子には同じく会員西園寺八郎の息子公一が学習院の制服姿でキャディに当たり、ハルゼー中将は随行員の英国側の護衛官が付いており、護衛等の面から感心したという駒澤雀の回想を筆者は読んだことがある。一方大谷のキャディは誰がしていたか判らないが、特別な者達ではなかった様だ。

というのも2017年頃に古書市で偶然購入した写真雑誌の英皇太子来日特集号(確か『写真通信』なのだが、人に永く預け題名を思い出せなく成っている)に、英皇太子のティショットを見やる日英組とキャディその他の中に絣の着物に学帽姿の駒澤キャディらしき少年が写っているのだ。(国会図書館HPのデジタル資料で観れる、大阪毎日新聞編集『答礼使御来朝記念写真帖. 中巻』掲載の写真では、同じ場面を少し遅れて撮影した様なのだが駒澤キャディの子に帽子が無いのと、西園寺公一が写っていない)

この少年は何者であるか、大谷のキャディとしては安田幸吉が専属のような扱いであったといい、筆者がベテランジャーナリストの方にこの話題をした際『やはり安田ではないか?』と考察されていたが、本人が当日詰め所に居たと述べているので可能性は低い。
当時キャディであったプロ浅見緑蔵の伝記小説『起伏の男道』では彼が昭和天皇のキャディを務めたという話になっているが、明らかに違う。が、大谷のキャディを務めたとするならば辻褄はあう。
のだが、件の少年は、背丈は傍にいる男性の肩位で、年齢を考えると12~14歳位、風貌は頭の上辺が角ばって見えるが、顔は不鮮明で誰なのかは判らないのが残念である。

誰であれ、この一大イベントに駆り出された少年を取り巻く状況について、当時の価値観とすれば『日英両殿下のゴルフ勝負の御手伝いに行くなんて家の誉れだ』として出発前か帰宅後にお赤飯が炊かれたり、学校でも色々取りざたされたのは間違いなく、大谷などからは何らかしらの記念品が渡されていると考えるのが妥当であろうか。
日本ゴルフ史上の重要な出来事に居合わせながら、写真以外残らず消えていった少年について、彼の名前やこの時の事を振り返った手記が残っているならば筆者は読んでみたい。

 

 

 

主な参考資料
・ゴルフ80年ただ一筋(第二版) 安田幸吉  ヤスダゴルフ 1991
・わが旅路のファウェイ安田幸吉ゴルフ回想記 井上勝純  廣済堂出版1991
・人間グリーンⅣ 小坂旦子・三好徳行   光風社書店 1978
・『東京ゴルフ倶楽部(会報)』2014年冬季号-100周年特集号
・『INAKA第五巻』11章『 Golf In Japan』 収録North-China-Daily News P.N Hindie
『Rokkosan A Thing of Beauty and a Joy for Ever』 1916
・『INAKA第十巻』掲載『Golf of Yedo』 1919
・『東京』1917年5月号 法学士くれがし『ゴルフ物語』
・『野球界』1919年12月号 鈴木寅之介 『ゴルフ遊戯に就いて』
・『婦人公論』1929年8月1日号 『東西婦人ゴルファ』より室町英二『東京の名流婦人とゴルフ』
・『東京朝日新聞』1922年12月20日朝刊五面
・『東京日日新聞』1928年5月29日
・『Golf Dom』1923年6~8月号『So This is Golf!(1)~(2)』
・『Golf Dom』1923年9月号、『東京より』
・『Golf Dom』1923年10月号『19Th HOLE.』
・『Golf Dom』1924年1月号『駒澤通信』内『キャデ井ーの競技』
・『Golf Dom』1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
・『Golf Dom』1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
・『Golf Dom』1943年10月号犬丸徹三『駒澤回顧』
・『Golf(目黒書店)』1931年11月号高木喜寛『ゴルフ発祥の時代』
・『Golf(目黒書店)』1933年2月号大谷光明『ゴルフ思出の記(二) 六甲から駒澤へ』
・『Golf(目黒書店)』1933年3月号大谷光明『ゴルフ思出の記(三) 駒澤をひらいた頃』
・『近代ゴルフ全集1』収録、田中善三郎『ゴルフむかし話』 中央公論社 1959
・『Golf(報知新聞)』1954年4月号 『ゴルフ鼎談』
・『ゴルフマガジン』1969年1月号 人物めぐり歩き 「中村(兼)ゴルフ商会」社長中村兼吉 元プロゴルファーがつくるクラブの味
・『週刊パーゴルフ』1979年11月13日号 小笠原勇八『真相日本のゴルフ史3』
・『夕刊フジ』 人間グリーン257 鍋島直泰12『古く懐かしきキャデー』
・『夕刊フジ』 人間グリーン263 鍋島直泰18『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(上)』
・『夕刊フジ』 人間グリーン264 鍋島直泰19『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(下)』
・『夕刊フジ』 人間グリーン271 鍋島直泰26『忘れえぬ人・大谷光明さん(上)』
以上資料はJGAミュージアム及び同本部資料室、国立国会図書館昭和館で閲覧他、筆者蔵書より
・『Omaha daily bee』 1920 年8月22 日『Sports and Auto』より『Nicoll to Japan』
・『New York tribune』 1921年 3月27日Ray McCarthy 『Tow Japanese Brothers Loom As Golf Stars Princeton Pair Regarded as Coming Championship on From in Florida Tourney』
以上資料はアメリカ議会図書館HP、Chronicling America Historic American News Papersより閲覧

・『Referee』1923年11月14日『GOLFING IN JAPAN David Hood Instructor to the Prince Regent』
以上資料はオーストラリア国立図書館HP、TROVEで閲覧


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)