ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・15

 

唄の題材にもなった大正12年9月1日の関東大震災は京浜を中心に甚大な被害をもたらし駒澤も被害からは逃れられなかった。
当時職業ゴルファーとなっていた安田幸吉によると、午前中は雨が降っていて、クラブの手入れをしながら“お客も来ないから午後にプレーをしようかな”と考えていた矢先に起こったという。


敷地の被害は駒澤村の建物同様にクラブハウスが傾いたのと壁土が落ちた程度で済んだが、問題は会員たる駒澤雀達であった。彼らは日本の政財界の重要人物で在るゆえに被害の酷い京浜間に居住していた為だ。


幸い、軽井沢(及び軽井沢GC)で夏休みを過ごしている者が多く居たので直接的な被害を受ける者は少なかったが、中上川次郎吉・子爵井上勝純・松方義輔らは邸宅が全焼、赤坂に住んでいた川崎肇は邸宅の煙突倒壊で夫人を喪い、森村市左衛門は邸宅の延焼で井上準之助から預かっていた東京GC創立からの出資帳を焼失し、倶楽部初期の詳細な記録は歴史の彼方へと消えてしまった。

 

佐賀の鍋島直映は永田町の邸宅が延焼した際、前年優勝した摂政宮(昭和天皇)台賜の摂政杯を御真影や各国公使からの贈り物とともに避難させるのに三人の家令共々非常に難儀した。何しろカップの直径が45㎝越えで更に両サイドに大きな取手が付いており、重さが6.75㎏、加えてそれを収めるケースは紫檀製の立派な物であったのだから非常な重さに成り、車に乗せるのも一苦労で渋谷松濤の別邸まで命からがら運んでいる。

 

中上川勇五郎や伊地知虎彦は歩き詰めで関西へ避難(前者は京都に定住)、大谷光明は西本願寺の『浄如上人』として震災当日から築地本願寺で各種慰問事業の指揮に奔走していたようである。

 

横濱は建物の倒壊と大火災に見舞われ市街地が壊滅状態になり、同地に住んでいた1921年度日本Am勝者の駒澤雀、田中善三郎は無事が確認されたものの、名誉会員であった根岸のG.G・ブレディはその有様にショックを受け(加えて根岸の会員達にも複数人死者が出た)、墓も買い骨を埋める気でいた日本から去り(後スイスに定住したという)、同じく名誉会員のF.E・コルチェスターもこの為か同様に日本から去ってしまった。


また当時駒澤に出入りをし、夏には茨木CC設計の為に関西出張をしていた来日プロのデヴィッド・フードも同地に住んでいたが、彼は傍にいた人が倒壊した柱の下敷きになる様な死地を潜り抜けた事が、命からがら横浜から(フードが長年働いていた)ニュージーランドへ脱出した英字新聞の広報部長によって『彼から訊いた話』として、現地やオーストラリアの新聞で掲載されたフードの日本での活動記事の中で紹介されている。

 

 

閑話休題
東京GC50年史に『井上準之助が震災翌日に駒澤を訪れプレーをした』という話が掲載されている。これは『Golf Dom』1923年の10月号の巻末コラム『19Th HOLE.』に載っている話が元であろうと考えられるが。その内容というのが、
『東京倶楽部で、震災に對する遠慮も遠慮だがrecreationも大に必要だと云ふことになつて、翌日揃つて駒澤に行つて見ると、井上藏相の顔が見へた。藏相が大地震大火災の中で日銀の防火を挺身指揮し、續いて非常時に於ける金融財界に對する處置に多忙であることを知るものは其餘裕綽々たる様子を一層賴もしく思つたとのことである。(原文ママ)』
というものであるが、ごらんの通り日時がはっきりしていない。

もし本当に翌日に出かけていたとするならば、被害確認に来たのが誇張されて伝わったのか。と考察している史家の方が居るが、
筆者としては、もしこの話が本当に9月2日として、南関東一円の惨状とクラブハウスが傾いた事などを考えると、プレーをしたとしても状況確認で敷地を歩き回るついでにボールを打った程度ではなかろうかと考えていたが、1943年に太平洋戦争の悪化で駒澤が閉鎖となった際『Golf Dom』10月号に掲載された特集に帝国ホテル支配人の犬丸徹三が寄稿した『駒澤回顧』の中に
『當時、大藏大臣だつた井上準之助さんが、あの大正十二年の大震災の直後、駒澤ゴルフ場に姿を現はし、獨りで、コツコツ、ゴルフをやつて居られた時だ。『こんな時には、ゴルフに限るよ』とのことだつた。其の心境は、ゴルフアーでなくてはわからぬと思ふ。(原文ママ)』
という、犬丸がプレーをしていた井上と出会い、彼が語った事を書き残しているのを発見した。

この事を鑑みると井上が訪れたのは9月2日ではなく被害状況がはっきりとし、復旧対策を始めた頃ではなかろうか。と思うのだが、どの様なモノか。
現在では井上の行動は震災から1カ月も経たない時分であれば『不謹慎だ』と猛バッシングに遭うであろう事だが、挫けそうな災害の対応に追われる中、殆ど人が来ない駒澤で静かにボールを打って英気を養おうとした彼の気持ちは犬丸の云う様にゴルファーとして理解はするが、しかし…

 

 

 

主な参考資料
・ゴルフ80年ただ一筋(第二版) 安田幸吉  ヤスダゴルフ 1991
・わが旅路のファウェイ安田幸吉ゴルフ回想記 井上勝純  廣済堂出版1991
・人間グリーンⅣ 小坂旦子・三好徳行   光風社書店 1978
・『東京ゴルフ倶楽部(会報)』2014年冬季号-100周年特集号
・『INAKA第五巻』11章『 Golf In Japan』 収録North-China-Daily News P.N Hindie
『Rokkosan A Thing of Beauty and a Joy for Ever』 1916
・『INAKA第十巻』掲載『Golf of Yedo』 1919
・『東京』1917年5月号 法学士くれがし『ゴルフ物語』
・『野球界』1919年12月号 鈴木寅之介 『ゴルフ遊戯に就いて』
・『婦人公論』1929年8月1日号 『東西婦人ゴルファ』より室町英二『東京の名流婦人とゴルフ』
・『東京朝日新聞』1922年12月20日朝刊五面
・『東京日日新聞』1928年5月29日
・『Golf Dom』1923年6~8月号『So This is Golf!(1)~(2)』
・『Golf Dom』1923年9月号、『東京より』
・『Golf Dom』1923年10月号『19Th HOLE.』
・『Golf Dom』1924年1月号『駒澤通信』内『キャデ井ーの競技』
・『Golf Dom』1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
・『Golf Dom』1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
・『Golf Dom』1943年10月号犬丸徹三『駒澤回顧』
・『Golf(目黒書店)』1931年11月号高木喜寛『ゴルフ発祥の時代』
・『Golf(目黒書店)』1933年2月号大谷光明『ゴルフ思出の記(二) 六甲から駒澤へ』
・『Golf(目黒書店)』1933年3月号大谷光明『ゴルフ思出の記(三) 駒澤をひらいた頃』
・『近代ゴルフ全集1』収録、田中善三郎『ゴルフむかし話』 中央公論社 1959
・『Golf(報知新聞)』1954年4月号 『ゴルフ鼎談』
・『ゴルフマガジン』1969年1月号 人物めぐり歩き 「中村(兼)ゴルフ商会」社長中村兼吉 元プロゴルファーがつくるクラブの味
・『週刊パーゴルフ』1979年11月13日号 小笠原勇八『真相日本のゴルフ史3』
・『夕刊フジ』 人間グリーン257 鍋島直泰12『古く懐かしきキャデー』
・『夕刊フジ』 人間グリーン263 鍋島直泰18『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(上)』
・『夕刊フジ』 人間グリーン264 鍋島直泰19『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(下)』
・『夕刊フジ』 人間グリーン271 鍋島直泰26『忘れえぬ人・大谷光明さん(上)』
以上資料はJGAミュージアム及び同本部資料室、国立国会図書館昭和館で閲覧他、筆者蔵書より
・『Omaha daily bee』 1920 年8月22 日『Sports and Auto』より『Nicoll to Japan』
・『New York tribune』 1921年 3月27日Ray McCarthy 『Tow Japanese Brothers Loom As Golf Stars Princeton Pair Regarded as Coming Championship on From in Florida Tourney』
以上資料はアメリカ議会図書館HP、Chronicling America Historic American News Papersより閲覧

・『Referee』1923年11月14日『GOLFING IN JAPAN David Hood Instructor to the Prince Regent』
以上資料はオーストラリア国立図書館HP、TROVEで閲覧


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)