ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・2

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開場当初は芝がなく土壌も芳しくなかったコースも年を追うごとに改善していき、1918年に日本アマチュアを開催した頃には東アジアでもトップレベルのターフとグリーンを持ったパークランドコースとして知られるようになった。
ここに至るまでは会員やグリーンキーパー達の努力の賜物であった、後者は実行者であるが、前者は各位コースの改善のために整備道具やそれを曳く馬、芝を取り寄せて倶楽部に寄付をして事に当たった。

そんな奮闘期のこと、会員の岩崎小弥太(岩崎弥太郎の甥で岩崎財閥三代目)が英国からサトンローンの芝の種(※品種なのか会社名なのか判別できず、求情報)を石油箱(缶?)一杯程の量を取り寄せ、『これで頼んだよ』と倶楽部に寄贈した。
普通であったら養生地を作って種を撒き、芝生になってからコースに移植するのだが。経理の小林藤太郎なる御仁、芝の育て方を知らなかった為に、種をそのママあっちへパラパラ、こっちへパラパラと撒いてしまい、せっかくの寄付を台無しにしてしまった。
(1930年の座談会では、岩崎はこの他に『アイルランド・グリーンの森』から取ってきた芝を寄贈し、8番ホールに使われたというが、詳細不明)

これが初期の駒澤雀たちの失敗として思い出話になった1929年、芝が枯れだす11月のある日のこと。
芝が枯れ出す時期なのに、コース内に所々青い芝が有ることに気付いた会員の相馬孟胤(相馬家31代目当主、宮内省式武官)、古参会員から上記の話を訊き、青い芝の株を採取調査してみると(彼は帝大理学部植物学科出身で蘭栽培と養鯉の権威でもあった)、ケンタッキーブルーグラスをはじめとする数種の洋芝が確認された。
十年以上日本の風土下にあっても枯れないことから、相馬はコース用常緑芝として取り寄せた洋芝と共に実用化研究に取り組み、倶楽部が駒澤から朝霞に移転する際にエバーグリーンの名でコースに採用した。
当時常緑芝を根付かせる事は日本ゴルフ界の目標であり、東京GCはこの事を誇りとし、1934年に刊行された倶楽部会報もこの名前が使われ、少し後だが会員の千葉常五郎が興した国産ゴルフボール会社の製品にもエバーグリーンの名が冠されている。

相馬は有名な熱心者で第一回日本OPの参加者の一人であり、日本Amで決勝に進む(2位)等優れた腕前を持っていたが、それを犠牲にしてもこの芝の研究に情熱を傾け、1936年2月に手術入院中に別の病にかかり急逝するまでエバーグリーンと共にあった。
朝霞のコースに使われたエバーグリーンは途中フェアウェイの分が病に負けてしまい総常緑芝の夢は破れたが、グリーンに使われ続けた。
その後朝霞の閉鎖と秩父(狭山)への移転後戦争によって一時行方不明になったが、戦後再発見された際にエバーグリーンは東京ベントと呼ばれ、1996年までグリーンに使われ、引退後は相馬家ゆかりの地である相馬市の天明CCに引き継がれ、一部は東京GC会員で相馬の孫に当たる相馬家三十三代目相馬和胤氏の牧場(北海道)に移植された。
その後天明CCが原発事故直後の業績不振によってコースが閉鎖されるにあたり、相馬和胤氏が名誉理事を務める南相馬市内の鹿島CCに移され、現在は相馬ベントの名で引き継がれている。
※岩崎が芝の種を取り寄せ撒かれた時期について、相馬は著書『常緑の芝草』で大正8年(1919)頃としているが、『Golf Dom』1931年9月号P8~10 掲載の駒澤における芝研究の記事には『15~6年前』とある

 


主な参考資料
日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂 1995(復刻第二版)
The Bunker 1915年12月号~1916年11月号
阪神ゴルフ合本(1922年4~6,9月号全四号)
・東京ゴルフ俱楽部50・75・100年史 1964,1991,2015 
・『東京ゴルフ倶楽部史料室だより№4 東京ゴルフ倶楽部朝霞コースの全て』2007
・『東京ゴルフ倶楽部(会報)』2014年冬季号-100周年特集号
・『INAKA第五巻』11章『 Golf In Japan』収録 North-China-Daily News Hindie筆
『Rokkosan A Thing of Beauty and a Joy for Ever』 1916
・『INAKA第十巻』掲載『Golf of Yedo』 1919
・『野球界』1919年12月号 鈴木寅之介 『ゴルフ遊戯に就いて』
・『婦人公論』1929年8月1日号 『東西婦人ゴルファ』より室町英二『東京の名流婦人とゴルフ』
・『東京朝日新聞』1922年12月20日朝刊五面
・『Golf Dom』1923年6~8月号『So This is Golf!(1)~(2)』
・『Golf Dom』1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
・『Golf Dom』1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
・『Golf Dom』1934年10月号 C記者『森村市左衛門氏にゴルフを訊く』
・『Golf Dom』1935年3月号『ゴルフ漫談 田中善三郎氏との一問一答』
・『Golf(目黒書店)』1931年11月号高木喜寛『ゴルフ発祥の時代』
・『Golf(目黒書店)』1933年2月号大谷光明『ゴルフ思出の記(二) 六甲から駒澤へ』
・『Golf(目黒書店)』1933年3月号大谷光明『ゴルフ思出の記(三) 駒澤をひらいた頃』
・『近代ゴルフ全集1』収録、田中善三郎『ゴルフむかし話』 中央公論社 1959
・『夕刊フジ』 人間グリーン257 鍋島直泰12『古く懐かしきキャデー』
・『夕刊フジ』 人間グリーン263 鍋島直泰18『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(上)』
・『夕刊フジ』 人間グリーン264 鍋島直泰19『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(下)』
・『ゴルフ80年ただ一筋(第二版)』 安田幸吉  ヤスダゴルフ 1991
・『わが旅路のファウェイ安田幸吉ゴルフ回想記』 井上勝純  廣済堂出版1991
・『人間グリーンⅣ 小坂旦子・三好徳行』   光風社書店 1978
資料はJGAミュージアム及び同本部資料室、国立国会図書館昭和館図書室で閲覧他、筆者蔵書より

参考サイト(本文2の執筆で閲覧)
鹿島建設ホームページより 鹿島の軌跡~歴史の中から見えてくるものがある~ 第25回『東京ゴルフ倶楽部と朝霞コース―日本初の常緑芝のゴルフ場(2009年4月28日公開)』
・Sports Network Japanホームページより Sports Advantage Vol.708-1 (017年3月13日公開) 岡邦行『原発禍!「フクシマ」ルポ87』
・鹿島カントリー倶楽部ホームページより『鹿島カントリークラブの施設ご案内』

 

(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)