ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『デヴィッド・フードの補足』・1

 

『1:調べた事と意外な事実』
2014年以降筆者が消息を追っている戦前来日プロの一人David Hood(以下デヴィッド・フードと表記)についてこの数年で判明したことを記させて頂く

彼の事を調べていくにつれて以前の書き物で述べたように、彼はJGA百周年記念なりJPGA殿堂なりで顕彰されるべき人物であるという事を確信し、(人数は少ないが)団体関係者やゴルフ史に興味のある方らに“デヴィッド・フードは評価されるべきだ”と云う様になっていった。

もう6年前になるがChoice2016年新春号のコラム『3分間教養』でスコットランド・ガランのゴルフ史家、故アーチー・ベアード医師(夫人がウィリー・パークSr.の曾孫で、骨董市で彼のクラブを見つけた所から私設博物館を持つまで研究にのめり込んだ人物であった)によるフードについて彼の回想記を基にしたという話が掲載された事が在った。(同コラムは『3分間教養』が単行本化された際に収録されている)

ベアード氏の話の邦訳をしたJGAミュージアム委員参与の武居振一氏(筆者は学生時からお付き合いさせて頂いている)が、その際にフードについて邦文情報がないか検索したら、筆者が大叩き氏のブログで掲載させて頂いている文を見つけられ、裏付け等に使用された事を後日JGA本部資料室でお会いした際に伺った。

その後武居氏とコース造成家のベンジャミン・ウォレン氏に同資料室でお会いした時にノースベリック出身ウォレン氏に、同じイーストロジアン地区の出身らしいフードの事をご存じか伺った所、ウォレン氏も彼のことを知っており、日本での話やどこの家の出か等三人で情報の交換や仮説建てをしたが(この書き物で追々出てくるだろう)、その前後からアンティーゴルフクラブ販売の古参サイトAntique Golf Club from Scotland におけるクラブメーカー紹介記事や、ノースベリックとその周辺のゴルフ史を研究されているダグラス・シートン氏(ウォレン氏との話の際にもシートン氏の調査の話から切り出した)のサイトNorth Berwick orgの掲載の『McLaren Brothers – Melbourne』などの記事を読む事が在り。
 その後2018~19年頃に国内新聞記事の発見や、2022年2月初頭からオーストラリア、ニュージーランド国立図書館のデジタル資料検索システム(前者TROVE、後者Paper Past)でリアルタイムの新聞記事を検索閲覧出来た事から新情報を得ることが出来、調査に大きな弾みが付き、以前書いた事柄の見直しをすることが出来た。
※原稿の仕上がり直後(2022.6/5)にシートン氏のサイトにフード一家の新たな記述があるのを発見したが、各位の生年月日や出身地、最初期の仕事場を知ることができたので、補稿とさせていただいた。

シートン、ベアード両氏の調査とオーストラリアの新聞『Referee』1921年11月9日付掲載のフードの記事や、ニュージーランドの新聞『Evening Star』1903年1月14日付のゴルフ記事から得た情報を総合すると、デヴィッド・フードは1887年5月22日マッスルバラの有名なゴルフ一家でクラブとボール職人のトーマス・フードとハンナ・ピーク夫妻の息子として生まれた。
父親の名前と職種から、彼は以前から筆者が見当立てていたマッスルバラのクラブメーカー“Thomas Hood”と同一人物で間違いが無いようである。
彼は1860年代から全英OPや賞金の出たアマチュア競技(まだアマチュア資格が明文化されていなかった!)やプロ競技に出場している記録が在る。

兄弟については三人の兄弟と二人の義兄弟がプロゴルファーであったといい、長兄のトーマス・スランシス“トム”(1870.4/17~?、アイルランドPGA創立会員)と次兄のフレッドリック・ジョージ・ミラー“フレッド”(1880.12/24~1926.6/23、ニュージーランドPGA創立会員)が名の判明している者で、3人目はデヴィッド本人か、名前の判らないもう一人か確認が取れなかったが、少なくともフード家には5~6人の兄弟姉妹が居たことに成る。
一家はトムが生まれた頃エディンバラのシュラブ・プレイスに住んでいたというが(調べてみると市内からリース港に行く通りの中間点が出るも呼び名がシュラブヒルとなって居る)、フレッドが生まれた時までにマッスルバラのリンクス南西のミルヒルに引っ越しており、デヴィッドが生まれた時はさらに南側のインヴェレスクの、リンクスへと続く通りに住んでいたようだ。
(『Referee』紙とシートン氏のNorth Berwick org『Musselburgh - East Lothian』内『David, Fred and Tom Hood』より)

 少年時代のデヴィッドの話について、彼が最初の来日の際に雑誌『Golf Dom』の伊藤長蔵等に語った話として、13歳の時、スコットランドで開催されたとある選手権を見に行った際に当時プロとなって居た兄(後述の件からフレッドか)からプレーヤーが球を打つ瞬間に注意するよう云われ、彼は兄の進言を守ってその瞬間ばかりを観ていた。
翌日の観戦に行く際に兄から今度は各プレーヤーのトップオブスウィングを注視してご覧。といわれ、その通りに観ていると、どのプレーヤーもトップは違えどもインパクトは皆同じになるという事に気付いた。
この事はデヴィッドにとって後々のプロ人生に影響を与えたようで、兄のこの教えを今も感謝している。という話が残っている(1922年12月号掲載)

デヴィッドのプロのキャリアの始まりはベアード氏始め研究者各位の調査を統合すると1899年にトムがロイヤル・ダブリンGCに雇用された際にアシスタントとして同行し、それが世界を廻るきっかけになったというが、彼の年齢(12歳)と上記の話を考えるともう少し遅いかもしれないし、当時の肉体労働者の就労年齢を考えれば有り得なくもない。
また先述の『Referee』の記事を見るとエディンバラでゴルフを覚え、近郊のブレイドヒルズのコースで働き、ロイヤル・ダブリンやポートマーノックを経て、英国に戻りミッドサリー(ロイヤル・ミッドサリーGCとは別か)、レインズパーク(トムの二番目の職場、現存せず)及びその他の倶楽部で働いていた。と在る事からアイルランド行きはやはりもう少し歳を取ってからか、シートン氏の云う生年が違う可能性も捨てきれない。が兄たちの“それ”が合って居るのでその線は薄いか。
そして各倶楽部での所属期間は後述する新天地への渡航時期を考えると何処も一年そこそこの様だ。

兄弟の活動については、フレッドがトムの1年先にアイルランドに渡ってダブリンから北東の街に在ったマラハイドGC(現在南のポートマーノック近郊に移転)で働いており、その後ロンドンのウィンブルドン・パークGCに勤務していたが、1901年10月に、ロンドンに来ていたニュージーランド北島オークランドGC(2010年にロイヤルの称号が付く)の会員T.J・ブラッシーのスカウトで移籍し、倶楽部に到着してから10日目の状況を報じた新聞記事(『New Zealand Herald』11月30日付)では、プロ及びクラブメーカーが居なかった倶楽部の会員達に非常に喜ばれている事が書かれており。その後もプロのいない彼方此方の倶楽部へ出張をしている。
ニュージーランドPGAのホームページではフレッドをSt.アンドリュース出身としているがシートン氏の調査結果及び先述の新聞記事等をここでは優先する。

長兄のトムも一度乃至二度アイルランドからニュージーランド渡航し、オークランドGCでフレッドのアシスタントをしていたと伝わるが、1902年7月下旬にフレッドが同じ北島首都のウェリントンGCへの出張及びアマチュア選手権勝者A.D.S・ダンカンとのエキシビションマッチをした際に、所属するプロを探している倶楽部会員等との会話で
『(自分よりも巧い)僕の兄弟ならば喜んで来ると思いますよ』
と語っていた事も有ってか(7月29日付『Wairarapa Daily Times 』より)、9月27日付『New Zealand Herald』には『ウェリントンGCと二ヶ年の契約を結び、来年の2月にダブリンから来訪予定』と報じられているので、直ぐ契約が結ばれたのであろう。
(しかしその後の別のプロが居てトムの記録がほぼ出てこない‼が、1904年にロイヤル・ダブリンに戻っているのでニュージーランドに滞在していたのは確かな様である。)

何故兄弟はニュージーランドに渡ったのか。1890年代からスコットランドから新世界のゴルフ場へ職業ゴルファーや労働者ゴルファーが職を求めて旅立っているが、それには現地の土壌と呼ぶ者達と仲介者が無ければならない。
※例としてアメリカのシカゴ地区では銀行家として成功していたクラブメーカーのフォーガン家の息子たちが同地のゴルフ創成に関わっていた為か、故郷St.アンドリュースの若者(フォーガン工房の職工も多数いた)が中西部の各倶楽部のプロとして多数雇われている。

これについてフード兄弟がニュージーランドに来た初期の新聞記事を調べていたら意外な事実に突き当たった。
というのも彼らの伯父で、この話の主人公と同じ名前のデヴィッド・フード(以降新聞の表現からデイヴィー伯父さんと表する)がニュージーランドのゴルフ創成に関わっていたのだ。

                              ―続―
※今回の連載は参考史料が大量に成った為、全話が発表された後独立した形で紹介させて頂きます。

 

 

 

 

(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)