ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート㉚『補記・幻の国産ボール第一号』

 

2020年9月にアップした『幻の国産ボール第一号』について新事実が判明したのでそれを記してみたい
前回の時は1929年に運動用具店でマグレガーの東洋総代理店であったイシイカジマヤの社長石井純一とゴム会社に勤め関東大震災前に国産ゴルフボールを造ろうとした技師吉田昇平によってゴルフボールの実用新案の願書が出され32年に広告された事と、吉田の弟で戦後銀座ゴルフの販売総部長をしていた吉田武雄が1961年に雑誌『近代ゴルフ』で回想した“昭和11年(1936)ころに『愛国ゴルフボール』という名で販売”という事との整合性が取れないため色々と考察をした。

その後資料が出てこなかったのだが、2021年に知己のヒッコリーゴルファー福本勝幸氏から、氏が入手されたイシイカジマヤ版の1932-33年マグレガーカタログのコピーを頂いたが、その末尾に1930年代初頭に大流行したベビーゴルフ(パターゴルフのこと)のキット『AIKOKU BABY GOLF』という広告があり、それに使われている球が『愛国ゴルフボール』なのかな。と考えていた。
それが今春に(知人に代行していただく形だが)戦前のマグレガーと美津濃のカタログ及び広告をまとめて入手することができた。
マグレガーのカタログはイシイカジマヤ版、銀座松屋運動部版と上野松坂屋運動部版の物であったが1931,32-33,34年版の三冊が在った。(イシイカジマヤ以外の版は裏表紙に店舗名の記載とイシイカジマヤの記述が無く店舗紹介に成っている等以外はほぼ同じなので、前社が委託発行をしていたのやもしれない)

筆者にとって一番価値があったのが1931年の松屋版で、代行してくださった方のお宅での支払いと引き取り際に飛ばし読み確認をした所、巻末2ページにある「All Japan Famous Professional Golfers」という国内プロ達の写真紹介の中に、忘れ去られた朝鮮最初のプロゴルファー、出口寛治のスタジオ写真が関一雄や中上数一の写真と共に掲載されていて、思わず『ああぁー在ったよぉ!』と掲載されているクラブの情報そっちのけで叫んでしまった。
というのも出口は京城GC従業員の親族で出入りする内にゴルフを覚え、技術が優れていたので内地の倶楽部に留学に出され、帰還後プロとして倶楽部に所属した人物で。
1931年度日本OPにも出ているのだが、その後不行跡で解雇されて以降消息不明になったが故に忘れ去られ、現在1935年に留学で国内競技に出た延徳春が朝鮮最初のプロとされるに至っている。そんな彼の写真というのがこれ迄出てこなかったので魂消てしまった次第だ。

閑話休題。このカタログはちょうどヒッコリーの終焉とスチールの一般化の間のクラブが出ており、これ迄ヒッコリーであった物をスチールにしたり、両方のシャフトで販売しているモデルが在るなど色々と参考に成ったが、クラブ以外の用品を確認していたら『AIKOKU BABY GOLF』のセットがその他のキットとともに紹介されているのを発見すると共に、P38-39のボールと付属品の項に大きく『AIKOKU GOLF BALL MADE IN JAPAN」、その下に『新製品 愛国ゴルフボール 特許出願中』名のもとに商品のイラストが在った。吉田武雄が述べていた愛国ボールは実在したのだ。

商品説明を読むと『ゴルフ界の進歩に伴ひ愈々國産ゴルフボールが完成致しました、ウエイト及サイズ等規定通りにして感じは舶來品と遜色無く、特に堅牢にして安價なる事を最も特徴として居ります。(原文ママ)』とある。
石井吉田らの出願から実用新案として広告されたのが1932年3月1日なので審査待ちの中販売されていた。と辻褄は合う。
なお値段はダース6円、一個50銭で掲載され、その他取り扱いのダンロップスポルディング、マグレガーら大手メーカーのボールがダース時価、ドット&ダッシュというボールがダース10円とあるが、時価ボールの一つであるスポルディングが当時販売していたクロウフライトを例にとると、
アメリカでの価格がダース8ドル、もちろん卸しの値段は販売価格よりも安いのが通常だが、当時は1ドルが約2円で、ゴルフ用品の関税(一定数までは免税された)が25%。それに販売側の利鞘を入れれば、日本での販売価格は恐らくダースで25~30円、バラで2円50銭は確実だろう。そういった事を鑑みれば、愛国ボールは破格の安さであり、吉田武雄が回想する、時の商工大臣や内務大臣らが外貨節約に大いに役立つ。と激励するに足りうるのをご理解いただけるか。
(なお外国製ボールは1930年代半ば以降にはもう少し安くなっており、1934年版カタログでもクロウフライトはダース20円50銭、ダンロップやシルバーキング、ノースブリティッシュなどの有名ブランドも18円に落ち着いている)

しかし、このボールは、32-33年度のカタログからは消えて仕舞い34年版も同様。吉田武雄の言う1936年に売られていた。という記述の裏付けになる物にはたどり着けなかった。
何故、生産乃至取り扱いを止めてしまったのか。
1930年代初頭の国産ゴルフボールと云うのは、幾つかの会社で造られ海外輸出等もされているのだが、『Golf(目黒書店)』時評などには反発力の喪失や傷や狂いが出やすい。と評される試行錯誤期で、各社の努力で1936~37年頃からプロや熟練プレーヤーも及第点が出せるグレードのモノが出て製造が盛んになっている。それを考えれば時代を先取りしすぎたのか。
※石井は国産ゴルフ用品の先駆者一人で、いち早くキャディバッグの実用新案を出願しており、吉田武雄によれば大阪の某社と提携して国産スチールシャフト製造に乗り出し、ほぼ完成するもメッキの技術が甘く、スウィングに於ける撓りで剥がれて仕舞い大損害を被った。という出来事もあったそうだ。

或いは1936年刊行の『東京運動具製造販売業組合史』の座談会で石井は、完成前に吉田昇平が亡くなってしまったのでボール研究事業が殆ど中絶している旨を語っている事から、販売直後にその事態になり製造事業が停まってしまった。のどちらかで在ろうか。
吉田の没年が判ればカタログから消えた理由と成るだろうし、弟の吉田武雄のいう『1936年頃発売』の記述も気に成るので35年以降のイシイカジマヤのカタログを読めればゴルフ用品製造の統制が掛かった1940年に造られたシルバースコット・スーパーフライト以前にもオリジナルブランドのボールが出てくるかもしれない。

 とりあえず今回は実物が存在した。という事をご報告させていただくが、それにつけても思うのは初期の国内ゴルフボール製造の歴史を辿るのが非常に難しいという事だ。

筆者はボールについては門外漢で在るのを前提に書くが、日本に於ける国産ボールの歴史というものは社史や海外の書籍に触れられている物を除くと、総合的に細かく書いた物がない。
これは現在残っている戦前からの会社がダンロップ住友ゴム)とブリヂストン、そしてキャスコのボール部門の前身であるファーイースト位で、中小企業であるその他パイオニアの会社が戦中戦後に廃業している為であろうか。
また、製造の始まりの所や、日中戦争からの物品統制下に於ける製造と配給の部分などで定説と大分ブレが在るのをリアルタイムの記事で観ているが、当時の史料としてもボールの構造や、製造の為のモールドやワインディングマシーン等の実用新案や特許の記録の他専門的な物と云ったら、1934~35年頃に日本精工所(旧日本ゴルフボールマニュファクトリー)の上林慶喜が開発研究のレポートを『Golf Dom』及び工業雑誌への寄稿した物や、ガッタパーチャのフィルム化による無塗装ボールの開発の冊子を発行しているくらいで、これは良く残してくれた。というモノである。
後は殆ど当時の資料が出てこずゴルフ雑誌の広告や記事、運動用具製造販売の書籍でコツコツ情報を集めているという状況だ。

纏まった国内製造史の書籍やレポート等が発表されれば良いのだが、そのような物を研究している方は居られるのか、居られたら情報交換をしたいし、居られなければ戦前期のモノは筆者が書かねば成らなくなるのだろうか? 門外漢としては他力本願で居たいがどうなる事か。
                              ―了―
                             2022年4月12日記

 

 

 

主な参考資料
・Macgregor Golf Goods 1931 (松屋運動部版) The Crawford, Macgregor and Canby Company  訳イシイカジマヤ? 1930乃至1931
・東京運動具製造販売業組合史 東京運動具製造販売業編 東京運動具製造販売業1936
・新興商品知識製造から販売者まで 時事新報経済編集部編 指導社 1936
・『近代ゴルフ』1961年6月号 吉田武雄 『ゴルフの一生』
・『近代ゴルフ』1961年7月号 吉田武雄 『ゴルフの一生 国産シャフトの功労者たち』

資料は国会図書館で閲覧及び筆者蔵書より


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)