ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート㉛『105年の霧の中から』・2

 

 

六甲山上にある神戸GCと横浜の根岸競馬場トラック内盆地にあるNRCGAではコースが何から何まで違うので、選手権や対抗戦の際はローカルナレッジが顕著になるのだが、掛け持ち会員が一定数いた為かあまり差が出ることが少なく、この年の様な展開は中々無かった。
大会記事ではないが、翌日行われたインターポートマッチの記述からこの理由が伺えるだろう(日刊版9月27日付にもこの記述がある様だ)。
この年は神戸チームが有力選手をそろえた一方、横浜は主力選手F.E・コルチェスター(1908年勝者)が直前に病欠し、六甲に遊びに来ていたL.J・ヒーリング(夫人と娘が横浜を代表するプレーヤーであった)が代役となった他、六甲や名物の霧を未経験のプレーヤーがメンバーに少なからず居た。とある事から、致し方なかったのやも知れない。

最終ラウンドは(休憩を挟んで)午後2時30分に第一組がスタートするのだが、最終組が出た直後にコースは一面濃霧に覆われてしまった。
ここからが大谷の回想にあるような各位ロストボール頻発の苦闘の場になったようで、記事には『最後までプレーできた競技者は10人だけであった』と報じられている。
六甲のコースをプレーされた事の無い方は『六甲の霧とはどんな感じだろう?』とお思いだろう。

同地でその様な状態や雨雲の中でプレーをした事のある筆者の感想としては150~170yd先のグリーンが霞む。80~120yd先から白くぼやける。30~60ydから先が白い壁に見える。自分の周りが白い文字通り五里霧中。の4段階で、更に空から覆われるモノと地形に沿って纏わりつくモノの二種類がある気がする。
後者二例でもプレーは出来る事はできるも、選手権で1打が争点になる熟練プレーヤーはキャディないしフォアキャディが居ないと勝負がグッと不利に成るのは間違いない。

さて、この霧の中のラウンドで優勝戦線にいた者たちがどうなったかというと、午前一位のマルコルムは90を叩いて早々と脱落。
2位T組のホワイトは午前よりも良い75で廻って151となったが、午前・午後の両ラウンドで16番“石切り場”に8打をかけて、当時のコースの基準打数ボギーから計6打落として仕舞った事が後々致命的になるとは、誰が思っていたであろうか。

同じく2位T組に居たバイロンは棄権をしてしまい、6位組のドーントやホーンも同様。5位のアーサーは崩れなかったが77の155とホワイトには及ばず。残るローパーのラウンドが勝負の帰趨であると注目される中、彼は物語の主人公となった。
というのもアウトの9ホールを30で折り返し、12ホールを終わって41の7アンダー4(パーが一般的になる前の表現方法で、記事でもそう記されている)という六甲で開催された日本Am史上なかった大爆発をしたのだ。
コースレコード(1914年にドーントが出した68)が破られるのでは。とささやかれる中、重いプレッシャーが彼を襲ったのか、谷底に向かって打ち下ろす13番“煉獄”から文字通り試練の場となり、スコアが崩れ始めていった。
しかし大きな数字を出すことなく、5のペースで回り後半を基準打数の41で纏め71、総計147でホワイトに4打差をつけて大魚を得たのである。

ローパーの最終ラウンド各ホールのスコアと当時の神戸GCボギー数を記す
・ボギー  Out 443,444,543=35 In 446,445,545=41 Total 76
・ローパー Out 334,343,433=30 In 344,555,645=41 Total 71
※ボギー数は『神戸ゴルフ倶楽部100年の歩み』より1908-18年間のスコアカードを引用

悪天候下の六甲山でのヒッコリー選手権をプレーした身として云えるのはローパーのスコアがとてつもなく素晴らしいという事だ。
似たコンディションとしては台風接近下で風雨と濃霧の中アウト9Hのみで行われた2021年度日本ヒッコリーOPでの優勝スコア35(同着)が比較対象になるか。
当時は3・4番が短いワンショットホールだが、今のベントグリーンと違って『砕石舗装の地獄の産物』たるサンドグリーンが設置されていた事を考えれば、ローパーの奮戦の価値は損なわれない。

順位は以下の通り
―1917年日本アマチュア選手権―
(※各選手の所属地や棄権者については、記事等の記録からもすり合わせをしている)
1, G.A・ローパー(神戸)     76・71=147
2, A.T・ホワイト(神戸)     76・75=151
3, J.P・アーサー(神戸)      78・77=155
4, E.C・ジェフェリー(横浜)   83・78=161
5, H.W・マルコルム(神戸)    73・90=163
6, F.W・マッキー(神戸)     86・78=164
6, J.D・トムソン(神戸)      79・85=164
8, A.E・ピアソン(横浜)     80・85=165
9, H.P.K・ドリューリィ(神戸?) 88・85=173
10, H.Y・モリス(神戸?)     93・85=178
―以下氏名判明の棄権者―
C・バイロン(神戸)        76・棄権
H.E・ドーント(神戸)       78・棄権
H・ホーン(神戸)         78・棄権
大谷光明(東京)         ??・棄権
※他、横浜チームのL.E・ミッチェルモア、G.H・ベル、G.G・ブレディ、A.P.W・ブレンコゥ、L.J・ヒーリング、W.E・グッチが参加し、最終ラウンドで棄権したとみられる。

105年来ずっと空白であった大会記録を見つけて読者諸兄に紹介ができるのは“掘っくり返し屋”として喜ばしい事であるが、ここで問題が幾つか出てくる。
第一が上記のローパーのスコアが従来の記録73・74=147と違うことだ。
『日本のゴルフ史』以前のゴルフ書籍やレファレンス書籍では総計スコアのみが記されており、ラウンドの方は記されていない。気になるのが選手権の前週、9月16日に行われたクラブ選手権で優勝のA.T・ホワイトが出したスコアが全く同じであることなのだ。しかも『日本のゴルフ史』ではこの二つの記録は隣り合っていることから、構成あるいは印刷の活版制作の際にクラブ選手権の記録と混同した可能性が筆者の頭を過ぎってしまう。

しかし、西村貫一は『日本のゴルフ史』執筆にあたり、国内外の関係者たちに手紙や面会による聞き取り取材をし、新聞や倶楽部記録、メモ・刊行物などリアルタイムの資料を集め、
執筆の際は書斎に閉じこもって、友人達へ面会謝絶とし、夫人が覗きに来たら執筆の邪魔だとブロンズの置物を投げてきた(彼は有名な惚気屋で知られていたのにこの態度だ!)程の打ち込み様であったこと。そして『○○だろう』という言葉を使わないよう徹底的に調べ、確証のあること以外は書かなかった。と関係者たちの回想で伝わっている。
 その為、彼が誤植をするのは考えられず、資料の出所がどこなのか、西村は詳細資料に出会えなかったのか?と頭をひねっているが、筆者が見つけた資料が丸々正しいという考えも危険である事を加味せねばならない。

冒頭で登場した国立大学研究員氏に『ついに見つけた』という報告をする中、この史料が今後JGA史の記録編纂に使えるか。という話題で、氏は纏め上げていく際の正確性を求める大変さと、新聞資料は誤りが意外と多い事を挙げられ、
最近の調査事例としてスキーを広めた一人とされるレルヒ少佐に教わった当事者が戦後当時を振り返る中で、少佐の通訳をした人物の姓も職業も全く間違えて覚えていながら(エリート通訳官を自身の友人の兄弟の鋳物業者としている⁉)、その人物が書いた回想記を紹介している。という頭が捩れそうな記事の話をしてくれた。
筆者自身も1907年第一回ニュージーランドOPでアマチュア参加者たちのスコアが別の競技の予選にも使われたため、勘違いをした記者が彼ら全員のスコアをオミットして3位のベストプロを優勝者とした記事が全国の新聞に掲載された事件を知っている。

そう言うことを考えれば、JGA百年史編纂の際には、『Japan Chronicle』の記事だけで満足せずに、神戸や横浜にあった他の英字新聞に記事があるか確認し、在れば整合性をすり合わせて纏めていかねばならない。
 とはいえ、今回の資料は今後のさらなる調査の叩き台になるモノであり、国内ゴルフ史を覆っていた霧を払うものであると筆者は信じる為、紹介をさせて頂いた。


                             ―了―
                           2022年7月8日記
                              7月9日改訂

 


参考資料
・日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂(復刻第二版)1995
神戸ゴルフ倶楽部100年の歩み 神戸ゴルフ倶楽部 2003
霧の中のささやき 編著・棚田眞輔、編集・神吉賢一、監修・松村好浩 交友プランニングセンター 1990
・ゴルフの常識 草上来太郎(伊藤長蔵) ゴルフドム 1927
・新日本史第四巻 『運動編』より大谷光明『ゴルフ』 万朝報社 1926
・Japan Chronicle(Weekly Edition)
1917年8月23日号『Kobe Golf Club-Record Entry for Sundays Play.』
1917年9月20日号『Kobe Golf Club-Club Championship』 
1917年10月4日号『Kobe Golf Club-Amateur Championship』
・『Golf(目黒書店)』1936年3月号 大谷光明『日本アマチュア選手権物語(3)』
資料はJGA旧本部資料室、国立国会図書館及び筆者蔵書より閲覧

 


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)