ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・4

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初期の駒澤のバンカーというものは、今の物とそう変わらない物が設置されていたのだが、この他に何というべきか、現在筆者たちがコースで見ている物とは形を異にした物が存在した。しかし当時としては珍しいものでもなかった。
それは、本来の意味で使われるBunkerと云うべき、深さよりも壁のほうが高く作られた“胸壁塹壕”のような形であったのだ。
これは1890~1910年頃にかけて新世界のゴルフ場建設において、石垣や垣根と共によく採用されたデザインで、フェアウェイを横切る溝のようなバンカーにこのタイプが使われたり、またバンカー内に三角山が点在して、その形から『チョコレートドロップ』とか『竜の歯』と呼ばれるタイプもあり、これらは今のゴルファーから見ればビックリ箱のようなレイアウトかつ厄介な代物でもある。

しかも駒澤の場合は可罰的な横切るタイプのバンカーとしてグリーン周りだけでなくフェアウェイにも胸壁型が設置されているホールがいくつかあり、『六甲の主』と呼ばれた名手H.E・ドーントが1918年の日本アマチュア開催時のコースの各ホールを『INAKA第十巻』で紹介しているが文中、“溝と堤防型”バンカーの文字が出てくる。

会員の大谷光明によると9番ホールのグリーン手前30~40ydを横断している胸壁バンカーは170㎝程の垂直の壁からなっており、低い球は壁にぶつかり捕まってしまったそうで。
(ここは1918年時で210ydパー3・ボギー4のホールなので、ラッキーミスでグリーンに乗らないようにする為であったのだろう)
脱出には正しいエクスプロージョンショットをしない限り脱出困難である。と難しさを回想しているほか、生え抜きプロの安田幸吉も自伝にイラスト付きで胸壁バンカーを紹介し(その絵では壁にある程度の傾斜がついているが、大分鈍角である)大谷同様脱出の難しさに触れている。

可罰的バンカーが多かったためか、苦悩する駒沢雀達の話も残っている。最初のころの3番ホールはティから80yd地点にトップボールを捕まえる浅いが大きなバンカーがフェアウェイを横切る様にあり(1918年時には更に両サイドに溝と堤防型のバンカーがあったという!)、日本人ゴルファーのパイオニアの一人で、東京GCの源流を造った人物である新井領一郎は、在所のアメリカから帰朝し駒澤でプレーをする度にこのバンカーに捉まり、
『死ぬまでに一度で良いからアレを越える球を打ちたいなぁ』とこぼすのが常であったが、成功することがなかったのだという。

初期の会員に建築家で、絵師河鍋暁斎の弟子としても知られるジョサイア・コンドルが居た。
彼はあまり上手ではないので、似たような腕前のヴィヴィアン“V.R”・バウデンとよく廻っていたのだが、ある日のこと、件の9番ホールのグリーン手前フェアウェイを横切る胸壁バンカーに入れたコンドル先生、ここに入れてしまうと何打もかけないと脱出できないという難儀に見舞われるで、一計を案じニブリックをボールの下に滑り込ませるようにして掬い上げてバンカーから脱出した。
(※当初筆者は超低速スウィングで行ったのかと考えていたが、大谷光明が1937年に『Golf Dom』のルールに関する座談会で、とある例としてコンドルと名指しせずこの件を語った記述には、アドレスの時に直にソールするどころか、そのまま砂の中にヘッドを潜り込ませて掬い上げていた。のだという……)
当然当時でもルール違反なのでバウデンは
『おいオイおい、そんなコトしたらダメじゃないかぁっ!』
とクレームをつけるのだが、先生すかさず
『だって、こうでもしないと出ないじゃぁないか⁉』

このような特殊形状のバンカーは1921年ごろまで残って居る事が確認できるが(皇太子時代の昭和天皇のプレー写真絵葉書等より)、繰り返される改造とともに前時代的なものとして消えていった模様。

 

 

主な参考資料
日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂 1995(復刻第二版)
The Bunker 1915年12月号~1916年11月号
阪神ゴルフ合本(1922年4~6,9月号全四号)
・東京ゴルフ俱楽部50・75・100年史 1964,1991,2015 
・『東京ゴルフ倶楽部史料室だより№4 東京ゴルフ倶楽部朝霞コースの全て』2007
・『東京ゴルフ倶楽部(会報)』2014年冬季号-100周年特集号
・『INAKA第五巻』11章『 Golf In Japan』収録 North-China-Daily News Hindie筆
『Rokkosan A Thing of Beauty and a Joy for Ever』 1916
・『INAKA第十巻』掲載『Golf of Yedo』 1919
・『野球界』1919年12月号 鈴木寅之介 『ゴルフ遊戯に就いて』
・『婦人公論』1929年8月1日号 『東西婦人ゴルファ』より室町英二『東京の名流婦人とゴルフ』
・『東京朝日新聞』1922年12月20日朝刊五面
・『Golf Dom』1923年6~8月号『So This is Golf!(1)~(2)』
・『Golf Dom』1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
・『Golf Dom』1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
・『Golf Dom』1934年10月号 C記者『森村市左衛門氏にゴルフを訊く』
・『Golf Dom』1935年3月号『ゴルフ漫談 田中善三郎氏との一問一答』
・『Golf Dom』1937年8月号及び9月号『ゴルフ規則を訊く』
・『Golf(目黒書店)』1931年11月号高木喜寛『ゴルフ発祥の時代』
・『Golf(目黒書店)』1932年2月号及び3月号『ゴルフ座談会』
・『Golf(目黒書店)』1933年2月号大谷光明『ゴルフ思出の記(二) 六甲から駒澤へ』
・『Golf(目黒書店)』1933年3月号大谷光明『ゴルフ思出の記(三) 駒澤をひらいた頃』
・『近代ゴルフ全集1』収録、田中善三郎『ゴルフむかし話』 中央公論社 1959
・『夕刊フジ』 人間グリーン257 鍋島直泰12『古く懐かしきキャデー』
・『夕刊フジ』 人間グリーン263 鍋島直泰18『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(上)』
・『夕刊フジ』 人間グリーン264 鍋島直泰19『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(下)』
・『ゴルフ80年ただ一筋(第二版)』 安田幸吉  ヤスダゴルフ 1991
・『わが旅路のファウェイ安田幸吉ゴルフ回想記』 井上勝純  廣済堂出版1991
・『人間グリーンⅣ 小坂旦子・三好徳行』   光風社書店 1978
資料はJGAミュージアム及び同本部資料室、国立国会図書館昭和館図書室で閲覧他、筆者蔵書より

参考サイト(本文2の執筆で閲覧)
鹿島建設ホームページより 鹿島の軌跡~歴史の中から見えてくるものがある~ 第25回『東京ゴルフ倶楽部と朝霞コース―日本初の常緑芝のゴルフ場(2009年4月28日公開)』
・Sports Network Japanホームページより Sports Advantage Vol.708-1 (017年3月13日公開) 岡邦行『原発禍!「フクシマ」ルポ87』
・鹿島カントリー倶楽部ホームページより『鹿島カントリークラブの施設ご案内』

 


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)