ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

無事再手術成功・・・今日退院

17日に入院して、今日退院しました。

今、脈は以前より早いけど乱れは無く、規則正しく打っているように感じる。
入院以前の、脈拍が猛烈に速くなり脈が乱れっぱなしの時の、落ち着かなさや不安感や息苦しさは、なくなった。

しかし、たった6日間の入院生活でも、実に疲れる。
病院の患者や医師・看護師・技師さんたちの苦労に頭が下がる。
今回、意外な体験をしたので、これからゆっくり上げていく。
この経験が、中高年で不整脈に悩む人、カテーテルアプレーション手術をしたのにまた再発した人の参考になれば、と思う。

今日は疲れたので、この辺で。

さあ、1週間だ

 

明日、心臓血管の3D画像を作るためのCT検査を受ける。
その前に入院手続き。
金曜入院で、退院予定は22日。

5年前1度はやったカテーテルアブレーション手術なので、流れの見当はついているが、それだけに気が重くて面倒臭い部分もある。
...出来ればやりたくない事も複数あって。

でも、今の俺はこうした現在の治療法に希望を持ち、期待し、救われている部分が多いことを改めて実感している。
もう20年以上前の、同じように不整脈で苦労し、脳梗塞になり、不自由な体で生きた母を改めて思い、我が身の身勝手さを思い知る。
あの時代にはまだ根本的な治療法がなく、ただ血栓を作らないように「ワーファリン」を飲み続けるだけの治療。
母親の、不整脈発作の度にただ抗血栓薬を飲み続けるだけの日々は、どんなに不安だったろう...
(自分の心臓にガタがきて、やっと親の気持ちに気がつくなんて...やっぱり俺は大バカヤローって認めるさ。)

それに比べれば、今の俺はずっと運が良い。
治療法が進歩して、心臓自体に修理を施し、薬に頼らないで済む生活へと立て直して行く希望がある。
この1週間を乗り切れば。

仕事は一つを除いて、1週間分先行して描いて送った。
(残る一つも、事情を話して前から頼んでいるんだが...「遅い」って文句も言えないし、入院の直前まで仕事だな。)


さあ、1週間の辛抱だ。
病院嫌いだけど、1週間。
手術は麻酔が怖いけど、1週間。


終わったら、酒(酒ね)池(旅ね)肉(食うね)林(ゴルフね)への1週間。

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・18

 

駒澤に集まるキャディ達は当初会員達の階層(日本の政財界の主要人物ばかりだ!)から行儀見習いとして来ていたが、ゴルファーに一番近い存在である彼等も駒澤雀達が愉しんでいるのを見て、ゴルフに興味を持ち、他のコースの同胞達同様ゴルフ遊びを開発しだした。
彼らは木の幹枝を削って造ったウッドと、針金を蚊取り線香状に巻いて造ったアイアンを造り(鎌の廃品を使った六甲や鍛冶屋で鉄棒を叩いて造ってもらった根岸と比べ独創的である)、削り出した桐の球を使って、近所の医王寺や深沢不動の境内やコース近くの空き地などで遊んでいたが、年月が進み次第にメンバーからクラブを貰う者が出てきた頃からキャディ達が行うモノもゴルフ遊びからゴルフへと変化し、こっそりと練習をするようになっていった。
(それを示すものとしてキャディ時代の浅見緑蔵がメンバーの見ている前で絣の着物に草履姿で練習をしている写真が1938年の『Golf(目黒書店)』連載の鍋島直泰聞き書き『未完成回顧録』に掲載されており、倶楽部100年史にも転載されている)

そこでキャディに優しい事で知られた日本郵船の林民雄の音頭でプロ育成も兼ねて年に一回はきちんとプレーをさせようと1924年1月5日に駒澤で初めてのキャディ競技が行われた。
競技は独自に振り当てられたハンディキャップを使った18ホールのアンダーハンディ競技で、20人程のキャディと当時職業ゴルファーと成っていたキャディマスターの安田幸吉が参加した。
彼らが持っているクラブは3~4本、それもグリップに20円札が巻いてなければ会員達は見向きもしないような下等品で、安田によると使うボールもヘタっているような代物。プレーの方も自分の背丈位あるクラブを振り回すような子が多く、ドライバーがアプローチに使われたり、パターがアイアンのクリークの代わりに使われる様な状況であった。

とはいえキャディ達は関東大震災以前に出入りをしていたスコットランド人プロのデヴィッド・フードのフォームを参考にしたのか、彼の様な見事なフォームをしている者達が居たが、トラブルショットの練習をする機会が無かった為かパー34、ボギー38の駒澤のコースで大分叩いてしまう者が大半であったのは致し方あるまいか。

しかし優勝の田中亀夫はスクラッチで75、同じスクラッチの浅見緑蔵に10打差をつけるという素晴らしいスコア。三位は104-18のネット86を出した小柄な磯貝兵蔵。
ハンディキャップ+2で挑んだ安田幸吉はキャディマスターとして参加者が使う道具の確保に奔走した為か86でネット88の4位。
『Golf Dom』1924年1月号の記事では皆下の名と年齢のみの表記であるが、フルネームで名が判っているのは安田に田中、浅見緑蔵と3位の磯貝、そして後に名古屋GC初代プロとなる大木鏡三くらいで他は不明なのが残念である。

また、素晴らしいスコアを出した田中だが、後々浅見に『人の打った球を拾う球拾いなんて男一生の仕事じゃないよ』と語って海軍を目指したと伝わっている。
田中はそのセンスと、長身であった浅見と変わらない体格の持ち主であったので、ゴルフの道に進んでいれば。と研究者達に惜しまれている。

『Golf Dom』の記事には、“いずれこの中から日本のハリー・ヴァードン(全英OP六勝)やチック・エヴァンズ(全米OP・Am同年勝者)が出るのもそう遠くは無いだろう”と報じられ、安田や浅見が大成し目的は果たされているが、駒澤に於けるキャディ競技はこの一度だけ。従来語られてきた。

しかし、1969年前後にゴルフマガジンに於いて連載されたゴルフ関係者訪問記『人物巡り歩き』に於ける、駒澤出身で日本OP勝者の中村兼吉(1911.6/18~1974.2/28、JPGA殿堂者)の回(1969年1月号)では彼の経歴として、地元の素封家の出で、学校(今の国士舘高校)に行きながら長期休暇中にキャディをしていたが、2~3度行われたキャディ競技で度々優勝した。という話が書かれている。
(注=中村はゴルフを始めたのが数えの18歳前後というが、満17歳になる前に地元開催となる1928年度日本OP参加資格を掛けた東京GCアシスタント競技に参加しているのと大会翌日の招待プロ競技で健闘しているので、キャリアの始まりに微妙にぶれが生じてはいる)

1925年の赤星六郎の帰朝および入会による彼の啓蒙活動から安田が明確なプロとなり、1928年までの間にアシスタントとして浅見(程ヶ谷CCヘッドプロ)や小杉広蔵(東京GC移転後駒澤のヘッドプロに成る)や瀬戸島達雄(武蔵野CC及び鷹之台CC初代プロ)、先の大木、平松勇(我孫子CC初代プロ)、中村(藤澤CC初代プロ)らがアシスタントとして働き、その下にも後にプロと成る有望な少年キャディたちがおり、駒澤は戦前関東のプロ一大産地・留学地となっているのだから、何らかしらの物が在ってしかるべきであろう。
そもそも最初のキャディ競技は『Golf Dom』に報じられた事から世に知られたのだから、紙面に残っていないからと云って『行われて居ない』と観るのは早計なのかもしれない。

                  


※『駒澤雀奇談』はネタ切れでは無いモノの、だんだん一つの話にアレもこれもと詰め込む気が出てきて、当初の軽い書き物から逸脱しかけている為、一旦休止し、研究モノや別の小話を書かせていただきます。
                         筆者

 

 

 

主な参考資料
・ゴルフ80年ただ一筋(第二版) 安田幸吉  ヤスダゴルフ 1991
・わが旅路のファウェイ安田幸吉ゴルフ回想記 井上勝純  廣済堂出版1991
・人間グリーンⅣ 小坂旦子・三好徳行   光風社書店 1978
・『東京ゴルフ倶楽部(会報)』2014年冬季号-100周年特集号
・『INAKA第五巻』11章『 Golf In Japan』 収録North-China-Daily News P.N Hindie
『Rokkosan A Thing of Beauty and a Joy for Ever』 1916
・『INAKA第十巻』掲載『Golf of Yedo』 1919
・『東京』1917年5月号 法学士くれがし『ゴルフ物語』
・『野球界』1919年12月号 鈴木寅之介 『ゴルフ遊戯に就いて』
・『婦人公論』1929年8月1日号 『東西婦人ゴルファ』より室町英二『東京の名流婦人とゴルフ』
・『東京朝日新聞』1922年12月20日朝刊五面
・『東京日日新聞』1928年5月29日
・『Golf Dom』1923年6~8月号『So This is Golf!(1)~(2)』
・『Golf Dom』1923年9月号、『東京より』
・『Golf Dom』1923年10月号『19Th HOLE.』
・『Golf Dom』1924年1月号『駒澤通信』内『キャデ井ーの競技』
・『Golf Dom』1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
・『Golf Dom』1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
・『Golf Dom』1943年10月号犬丸徹三『駒澤回顧』
・『Golf(目黒書店)』1931年11月号高木喜寛『ゴルフ発祥の時代』
・『Golf(目黒書店)』1933年2月号大谷光明『ゴルフ思出の記(二) 六甲から駒澤へ』
・『Golf(目黒書店)』1933年3月号大谷光明『ゴルフ思出の記(三) 駒澤をひらいた頃』
・『近代ゴルフ全集1』収録、田中善三郎『ゴルフむかし話』 中央公論社 1959
・『Golf(報知新聞)』1954年4月号 『ゴルフ鼎談』
・『ゴルフマガジン』1969年1月号 人物めぐり歩き 「中村(兼)ゴルフ商会」社長中村兼吉 元プロゴルファーがつくるクラブの味
・『週刊パーゴルフ』1979年11月13日号 小笠原勇八『真相日本のゴルフ史3』
・『夕刊フジ』 人間グリーン257 鍋島直泰12『古く懐かしきキャデー』
・『夕刊フジ』 人間グリーン263 鍋島直泰18『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(上)』
・『夕刊フジ』 人間グリーン264 鍋島直泰19『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(下)』
・『夕刊フジ』 人間グリーン271 鍋島直泰26『忘れえぬ人・大谷光明さん(上)』
以上資料はJGAミュージアム及び同本部資料室、国立国会図書館昭和館で閲覧他、筆者蔵書より
・『Omaha daily bee』 1920 年8月22 日『Sports and Auto』より『Nicoll to Japan』
・『New York tribune』 1921年 3月27日Ray McCarthy 『Tow Japanese Brothers Loom As Golf Stars Princeton Pair Regarded as Coming Championship on From in Florida Tourney』
以上資料はアメリカ議会図書館HP、Chronicling America Historic American News Papersより閲覧

・『Referee』1923年11月14日『GOLFING IN JAPAN David Hood Instructor to the Prince Regent』
以上資料はオーストラリア国立図書館HP、TROVEで閲覧


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)

 

ビビってる...(笑)

 

 

脈を測れば、不整脈ばっかりで「エラー」になって、4〜5回計り直さないと脈拍も血圧もわからない。
ちょっと動くと脈拍が一気に上がっておまけに乱れて、ついでに息も上がって、落ち着くまでには長い時間がかかる。

...これじゃあゴルフは出来ねえよなあ。
それどころか、歩くこともちょっとした運動もやれそうにない。

酒も350ml缶一本で不整脈だし、日本酒に旨い肴で一杯なんて今は遠い夢になっちまってる。

面白くない。

薬じゃもう抑えられないし、今やれるのは血栓が出来ないように血液サラサラの薬を飲み続ける事だけ。

面白くない。

そりゃあ心房細動による不整脈は、心室細動による不整脈のように直ちに心臓が止まったりはしないんだろうが、このまま「いつか血栓が出来て頭か心臓に影響が出る」のを待っているだけの様な生活は嫌だ。

絶対に面白くない。


今週中に決まっている検査と入院、来週の手術と退院...「それを乗り越えなくちゃ何も始まらない」ってのは分かっちゃいるんだが。
毛剃りだの、尿管挿入だの、心臓が熱くなる悪夢だの、病院食だの入院生活だの...前回「もうこれが最後にしたい」と思った事をまたしなくちゃいけないって事に、正直ビビってる。

まだ、入院までに片付けなきゃいけない仕事は残っているし、明日からドタバタの日々が続く。
「しょうがねえ」って言葉で頭を埋めて。

「早くこれからの10日間が過ぎないかなあ」なんてことばかり考えてる、梅雨に入った今日この頃(笑)。

(カテーテルアブレーションやったのに)不整脈が再発するってさ...

まず、あれから5年経ったんだから俺も5年歳とって...心臓だって老化したってことだ。
年齢は、自分で自分の歳にいつも驚く...これって、もう完全な「ジジー」の歳じゃないか!
それは当たり前に十分分かってるんだけどねえ...

カテーテルアブレーション手術で不整脈を完治させる!」ってのを信じて前回手術に踏み切った訳だから、「再手術」には「またかよ!」の思いが強くなるのはしょうがないだろう。
それに俺もね...正直酒はやめなかったし(量は減らしたさ)、血圧は下がんなかったし(降圧剤は何種類も飲んでるんだけどね)、体重も減らせなったし(幸せなことに飯が旨いんだ...生きてるってのは食う事だからね)...なんて十分俗物暮らしを堪能して生きて来た訳だから、薄々「もしかしたら、ヤバイかも」とは思っていたんだ。

しかし、ある日の朝「また発作か」なんて不整脈が、脈が普通に100を越え、何日経っても元に戻らない、なんてなるとちょっと焦って来る。
ネットで調べると「術後の再発」って言うのは割と普通にある事みたいだし、「2回あるいは3回のカテーテルアブレーションですっかり調子が良くなった」なんて記事も結構見かける。
そうかよ、カテーテルアブレーションってのは、1回で完治するものじゃなくて複数回やるものなんだ...(それで結果は、かなり良いみたいだけど)

そして、前回執刀してもらったN先生にメールして相談すると、すぐに先週土曜日に色々な検査...まあ、結果は(18ホールを無事にホールアウトするには)再手術しか無いって、覚悟していた通りに。


ほぼ前回と同じ流れでの、来週入院・手術・再来週退院のスケジュールを決めた。
先生は「これでもう、棺桶に入るまで再発はしませんよ」と笑う。


...問題は「いつ棺桶に入るか」なんだけどね(笑)。


てな訳で、今は入院の間の仕事を前倒しでやっている。
再手術までして治すんだから、人生もゴルフもまだまだ終わる訳にゃいかないんだ、ってね。


...若い頃ある程度真面目に運動をやっていた人は、自分が不整脈を持っているか調べたほうがいい。
鍛え上げて、スポーツに適した心臓になった選手達は、その運動をやめてあまり動かなくなった後に不整脈になりやすい。
例えば、俺のその辺の話を聞いた増田明美氏は、「長い期間走っていた長距離ランナーたちに不整脈に悩まされている人が多いので相談に乗って欲しい」、と言われた。
(確かに、かってのランナーたちの心臓は不整脈を起こしやすいだろう。)


ともかく、脳梗塞心筋梗塞を起こさないために、用心に越したことは無い。

カテーテルアブレーションの再手術...つまり、不整脈の再発だ

 

5年前に受けたカテーテルアブレーション手術によって、しばらくは不整脈を気にせずに生活し、仕事をし、ゴルフを楽しんで来れた訳だが...5月28日朝からの発作が回復せず、今月中に急遽カテーテルアブレーションの再手術を受けることにした。

俺の不整脈は心房細動による不整脈で、心室細動が原因の不整脈のようにすぐに死に直結する恐れはないが、不整脈が原因で血栓が出来てそれが心筋梗塞脳梗塞を引き起こすことは多いと言う。(長嶋監督や西城秀樹、それにうちの母親の脳梗塞もこの不整脈が原因の脳梗塞だった。)

5年前に手術を受ける際には「この手術が根治療法になる」と言われていたような気がするが、ネットで調べてみると5年後の再発率は10〜30パーセントはあるらしい。
人によってはそれ以上の確率で再発する、とかの意見もあるが...何れにしても、その場合は「再手術」をすれば不整脈を抑え込めるとの意見では一致している。

今の俺の状態は、普段53〜57くらいだった脈拍が90〜100になったままで、ちょっと動くと110〜120を越える。
そうなると気持ちが悪いのと息が切れるのとで、集中力が出ず仕事も運動もやる気が出難い。
この「不整脈状態」、俺は心臓周辺の違和感と気持ち悪さで不整脈が出たことがすぐわかるのだが、人によっては自分が不整脈を起こしていることが全く自覚できずに血栓を飛ばして、脳梗塞心筋梗塞を起こしてしまう人も多いらしい。
ひょっとすると脳梗塞心筋梗塞になった人の大多数は、「不整脈持ちだったのでは?」 ...自覚がなくても、みんなまめに脈のチェックはしたほうがいい。

ま、先週土曜日に検査したとこじゃ、心電図では先生曰く「不整脈が出っ放しだねえ」。
レントゲン・心臓エコー・血液検査でも俺が感じていたより結果が悪く、おまけに不整脈の発作が起きた時に飲むようにと言われていた「タンボコール」も全く効かず、「効かなくなっているからすぐに服用をやめましょう」。

秋のシーズンにボールを引っ叩きたいなら、その方法は再手術と再治療で不整脈を治す他は無く、あの小っ恥ずかしい毛剃りやら、尿意に苦しめられる尿管挿入やら味の無い病院食らに耐えて、来週には入院となる。

今年前半シーズンは、あの初ラウンド中にビリっと来た左足ふくらはぎの「肉離れ」で、全てが終わった気がする。
まだ十分筋肉の残っている俺自慢の「太い」ふくらはぎだが、何ヶ月も激烈な痛みで十分に歩く事も出来ず、今年は一本歯下駄をまだ一度も履いていない。


ちょうど季節は梅雨入りとなり、その後強烈な夏が来る。
元気でも太陽から逃げ回り、お休みする季節だ。
俺はまずアブレーション手術を乗り切って、体調を調整し、今年は秋のゴルフに全てをかける(笑)。

(次回から、入院までの合間に今回の不整脈の再発作の原因を考察してみる。)

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・17

 

1922年4月19日に駒澤で行われた摂政宮(以下昭和天皇)と英皇太子プリンス・オブ・ウェールズエドワード八世、以下英皇太子)との親善マッチは国内ゴルフ史に於いて一大トピックであった。
というのも、イベントから国内でゴルフというスポーツの存在が広く知らしめられ、『聖上がプレー遊ばされているスポーツ』として大正末~昭和初頭のスポーツ雑誌や年鑑・図鑑でもゴルフの事がきちんと記される切掛けとなっている。

何故駒澤が会場に成ったのかを考えればコースや設備が適していた。というだけでなく、昭和天皇がゴルフを始めるきっかけ及びその後のプレーに駒澤雀が関わっている為だろう。
心身育成のスポーツとしてゴルフを宮内省に提言したのが勧めたのが駒澤雀である西園寺八郎と森村開作(市左衛門)で、ゴルフ諸事の先生である義理の叔父大谷光明、来日プロのデヴィッド・フードとのエキシビションマッチを披露した赤星鉄馬らも駒澤雀、そして一緒にプレーをする侍従たちを始めとする宮内省職員も駒澤雀が少なからず居た事は注目すべきことで在り、
加えて昭和天皇新宿御苑を始めとするプライベートコース以外でプレーした国内コースは駒澤と仙石ゴルフ場そして軽井沢GCだけである事は(後者二つも駒澤雀が大きく関わっている)、このマッチと後に台賜された摂政杯共々東京GCが誇りとしている事柄である。

試合は昭和天皇と大谷光明組と、英皇太子と主席随員のライオネル・ハルゼー海軍中将による2ボールマッチを予定していた所、英皇太子の『沢山プレーをしたい』という要望で4ボール式に成った。
試合は英国側が1・3番を取り4番で日本側が取り返す、6番で再び英国側が2アップ、8番日本側の取返しという一進一退のマッチであったが、ドーミーホールである9番のハーヴにより英国側の1UPで終わった。が、これについて英皇太子も大谷光明も後年、相手方を慮りうまく打数を調節して僅差でマッチが終われてよかった。という趣旨を回想しているのはゴルファーとしての見栄なのか何であるか。

試合の状況について伊地知虎彦が『阪神ゴルフ』送ったレポートによると、物々しさを排除する為警察の代わりに会員一同が警護役として各地に配置されており、また当時関東在であった鳴尾GA創立者安部成嘉に家族に語った所によるとパットの際会員らがグリーン上の旗を持ったという。
一方従業員については当時キャディマスターの職に在った安田幸吉によると、当日は他の従業員と詰所に篭っていた事を回想していることから『下々の者は両殿下の目に触れないように云々』という日本の宜しくない伝統が発動したのか?

プレーに当たり昭和天皇には会員高木喜寛の息子秀寛、英皇太子には同じく会員西園寺八郎の息子公一が学習院の制服姿でキャディに当たり、ハルゼー中将は随行員の英国側の護衛官が付いており、護衛等の面から感心したという駒澤雀の回想を筆者は読んだことがある。一方大谷のキャディは誰がしていたか判らないが、特別な者達ではなかった様だ。

というのも2017年頃に古書市で偶然購入した写真雑誌の英皇太子来日特集号(確か『写真通信』なのだが、人に永く預け題名を思い出せなく成っている)に、英皇太子のティショットを見やる日英組とキャディその他の中に絣の着物に学帽姿の駒澤キャディらしき少年が写っているのだ。(国会図書館HPのデジタル資料で観れる、大阪毎日新聞編集『答礼使御来朝記念写真帖. 中巻』掲載の写真では、同じ場面を少し遅れて撮影した様なのだが駒澤キャディの子に帽子が無いのと、西園寺公一が写っていない)

この少年は何者であるか、大谷のキャディとしては安田幸吉が専属のような扱いであったといい、筆者がベテランジャーナリストの方にこの話題をした際『やはり安田ではないか?』と考察されていたが、本人が当日詰め所に居たと述べているので可能性は低い。
当時キャディであったプロ浅見緑蔵の伝記小説『起伏の男道』では彼が昭和天皇のキャディを務めたという話になっているが、明らかに違う。が、大谷のキャディを務めたとするならば辻褄はあう。
のだが、件の少年は、背丈は傍にいる男性の肩位で、年齢を考えると12~14歳位、風貌は頭の上辺が角ばって見えるが、顔は不鮮明で誰なのかは判らないのが残念である。

誰であれ、この一大イベントに駆り出された少年を取り巻く状況について、当時の価値観とすれば『日英両殿下のゴルフ勝負の御手伝いに行くなんて家の誉れだ』として出発前か帰宅後にお赤飯が炊かれたり、学校でも色々取りざたされたのは間違いなく、大谷などからは何らかしらの記念品が渡されていると考えるのが妥当であろうか。
日本ゴルフ史上の重要な出来事に居合わせながら、写真以外残らず消えていった少年について、彼の名前やこの時の事を振り返った手記が残っているならば筆者は読んでみたい。

 

 

 

主な参考資料
・ゴルフ80年ただ一筋(第二版) 安田幸吉  ヤスダゴルフ 1991
・わが旅路のファウェイ安田幸吉ゴルフ回想記 井上勝純  廣済堂出版1991
・人間グリーンⅣ 小坂旦子・三好徳行   光風社書店 1978
・『東京ゴルフ倶楽部(会報)』2014年冬季号-100周年特集号
・『INAKA第五巻』11章『 Golf In Japan』 収録North-China-Daily News P.N Hindie
『Rokkosan A Thing of Beauty and a Joy for Ever』 1916
・『INAKA第十巻』掲載『Golf of Yedo』 1919
・『東京』1917年5月号 法学士くれがし『ゴルフ物語』
・『野球界』1919年12月号 鈴木寅之介 『ゴルフ遊戯に就いて』
・『婦人公論』1929年8月1日号 『東西婦人ゴルファ』より室町英二『東京の名流婦人とゴルフ』
・『東京朝日新聞』1922年12月20日朝刊五面
・『東京日日新聞』1928年5月29日
・『Golf Dom』1923年6~8月号『So This is Golf!(1)~(2)』
・『Golf Dom』1923年9月号、『東京より』
・『Golf Dom』1923年10月号『19Th HOLE.』
・『Golf Dom』1924年1月号『駒澤通信』内『キャデ井ーの競技』
・『Golf Dom』1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
・『Golf Dom』1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
・『Golf Dom』1943年10月号犬丸徹三『駒澤回顧』
・『Golf(目黒書店)』1931年11月号高木喜寛『ゴルフ発祥の時代』
・『Golf(目黒書店)』1933年2月号大谷光明『ゴルフ思出の記(二) 六甲から駒澤へ』
・『Golf(目黒書店)』1933年3月号大谷光明『ゴルフ思出の記(三) 駒澤をひらいた頃』
・『近代ゴルフ全集1』収録、田中善三郎『ゴルフむかし話』 中央公論社 1959
・『Golf(報知新聞)』1954年4月号 『ゴルフ鼎談』
・『ゴルフマガジン』1969年1月号 人物めぐり歩き 「中村(兼)ゴルフ商会」社長中村兼吉 元プロゴルファーがつくるクラブの味
・『週刊パーゴルフ』1979年11月13日号 小笠原勇八『真相日本のゴルフ史3』
・『夕刊フジ』 人間グリーン257 鍋島直泰12『古く懐かしきキャデー』
・『夕刊フジ』 人間グリーン263 鍋島直泰18『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(上)』
・『夕刊フジ』 人間グリーン264 鍋島直泰19『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(下)』
・『夕刊フジ』 人間グリーン271 鍋島直泰26『忘れえぬ人・大谷光明さん(上)』
以上資料はJGAミュージアム及び同本部資料室、国立国会図書館昭和館で閲覧他、筆者蔵書より
・『Omaha daily bee』 1920 年8月22 日『Sports and Auto』より『Nicoll to Japan』
・『New York tribune』 1921年 3月27日Ray McCarthy 『Tow Japanese Brothers Loom As Golf Stars Princeton Pair Regarded as Coming Championship on From in Florida Tourney』
以上資料はアメリカ議会図書館HP、Chronicling America Historic American News Papersより閲覧

・『Referee』1923年11月14日『GOLFING IN JAPAN David Hood Instructor to the Prince Regent』
以上資料はオーストラリア国立図書館HP、TROVEで閲覧


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)