
ウィキペディアの旧軽井沢ゴルフ倶楽部のページの概要の項目に
『軽井沢で最も古いゴルフ場であるが、宣教師アーサー・ロイドの著書によれば、1909年時でゴルフ場があると記されているため、以前から外国人が自分たち専用のゴルフ場を所持していた可能性が高い。』という記述がある。
それは脚注の項の2で、宣教師且つ教育者である件のアーサー・ロイド(Arthur Loyd )の著作『Every-Day Japan』の208ページからの情報である事が記されているが、この事を知ってから一年近くの間原著を所蔵している場所が見つけられない及び在る場所に行けない為に(一応Amazonでは復刻版が販売されては居たが)ヤキモキしていた所、2024年11月始めに知人のご厚意で同書を読むことができた。
この本は日本の文化・風俗・社会事情や東京の様子、そして、鎌倉・軽井沢・日光・箱根と云った外国人の旅行・避暑地として注目されている関東近郊の土地の紹介がされており(一方横浜や神戸と云った外国人居留地の在る街は省かれている)、
時間の関係で読んだのは避暑地の部分がメインであったが、問題のゴルフコースの記述は軽井沢の章(P205~209)内の、207ページ下端から始まる軽井沢におけるレクリエーション施設や宿泊所などの紹介の一節の中に在り、内容としてはこのような感じだ。
『~1906年夏には一千超の外国人が滞在した。平原に木造の小屋が点在し、サスカチュワンやアルバータの丘陵地の平原に新設された牧場のようだ。
そこには、二つの教会と簡素だが設備が整ったテニス倶楽部、ゴルフリンクス、馬の厩舎。そして二・三軒の大きなホテルがあり、素敵な宿泊施設を提供している。(先書P207-208)』
※以下原文
『It was estimated that during the summer of the year 1906 there were over a thousand foreigners sojourning in the place, and the plain is dotted all over with wooden shanties, which give the place somewhat the appearance of a newly-established ranching center on the foot-hill prairies of Saskatchewan or Alberta. There are two churches, simple, but well appointed, a tennis club, golf links, stables for horses, two or three large hotels, which give good accommodation. (P207-08)』
文中の“木造の小屋(Shanty)”というのはこの場合はログハウスの様な物であったか、或いは(西洋式の外観であろうが)下町の長屋様の建て方か。地名については共にカナダの州の事で、テニスクラブは現在の軽井沢テニスコートの模様、ホテル達は軽井沢ホテル・万平ホテル・三笠ホテルを指しているとみられる。
問題はこのゴルフリンクスがどの様なモノであったのか、そしてどこに在ったのかの記録が日本側に全く無い(或いはチョッとやそっとでは出てこない程埋もれている)事なのだ。
現在の軽井沢GCの創立と運営に多大な功績のあった田中実(森村組ニューヨーク支店時代の1902-03年頃にプレーを開始した人物で、東京GCの創立会員でもある)が1930年2月22日に行われた日本ゴルフのパイオニア達による座談会(雑誌『Golf Dom』で『ゴルフ座談会の記』として連載)で現地にコースを造るまでの事を述べているが、その部分を引用してみよう。
『実はあれが出来たのは大正九年に徳川慶久公が彼処に居られた時分に、私が盛り立てゝからに始めたのです。実は名古屋の練兵場や軽井沢のベース ボール グラウンドで球を打つてゐたが実に不愉快だから物色しましたら幸ひ地所を貸して呉れると云ふ事になつた。(『Golf Dom』1931年1月号P28 )』
更に彼は1932年に発行された軽井沢GC新コース及び付属の別荘地のパンフレット『公園軽井沢』7月号においても(以下『軽井沢ゴルフ倶楽部100年史』掲載=P27-30=より引用)
『軽井沢にゴルフリンクスの建設を思い立ったのは、大正八(1919)年の夏のことである。当時日本人が中心と成ってゴルフ倶楽部を設立せるものは、東京ゴルフ倶楽部の駒澤の九ホールだけであった。軽井沢は内外人士の避暑地として絶好の場所であるが、むしろ無聊に苦しむ感があったので、ゴルフコースの必要を痛切に感じ、(後略)』
と述べている事から、その時分には1909年に紹介されているコースはもう無くなって居る。という事になり、田中もそれが在った事も知らなかったと考えられる。
田中の帰国が1910年以前(人名鑑の記録などから1912年迄には戻っている模様)ならば、或いはこれを知って居れば『以前外国人によるリンクスが在ったのだが。』と述べている筈だ。
倶楽部史等によると、1919年の夏に、軽井沢に滞在する内外国人の間でゴルフ場を設置する事が俎上に挙がって動きが始まり、1920年8月11日にコース造成に関する会議が行われ、この時点を創立としている(参加メンバーは、徳川慶久・田中実・西邑清・ビショップ・ライフ-シュナイダー)
それから数回の会議を経て、用地探しが行われたがなかなか見つからず、当時軽井沢の別荘開発に力を入れていた野沢組の手助けで、9月に“水源地”と呼ばれた離山(はなれやま)下付近麓の長尾原の6万坪を15年契約(最初の五年は年100円、次の五年が年1000円、その次の5年が年2000円という変則的な契約であった)で借り入れる事となった。
この敷地は三方が山に囲まれた盆地で、イバラだらけの藪地で在ったがこれを切り開いて9ホールのコースを作ることになったのである。
とりあえず田中ら発起人は1920年10月23日に当時所属先のマニラから来日し、東京GCや関西の倶楽部に滞在していたSt.アンドリュース出身のアメリカプロ、トム・ニコルを出張費及び(時給5円・一日5~6時間位の計算で)日給30円程として軽井沢まで連れて行き、設計に取り掛からせたが、ニコルは1日半でレイアウトを済ましたという。
(なお、ニコルは世紀の変わり目にアメリカに渡り西海岸で活動をしていたが1917年にフィリピンに渡り、同地で多国籍のゴルファー達にレッスンをした事により“東洋ゴルフの父”の通り名を頂戴し、1922年に再び西海岸に戻り1956年=78歳=頃まで倶楽部プロとして過ごした人物だが、アメリカでのキャリアの始めの頃からゴルフコースの設計や改修を行っていて、英国の『Golfers Handbook』での紹介では“フィリピン・中国・日本でコースを造った人物”と記されている)
設計の内約は初日に用地を決める為に藪を掻き分け、翌日にティとグリーンを決める旗竿計18本を持って場所を選定して、東京へ帰郷。
費用は設計代100.00円と藪漕ぎで破けた服代として30.00円、田中曰く『これほど安く済んだのはレコードでしょう』と先のパイオニア座談会で述べている。
そして翌1921年4月11日に軽井沢GCの第一回総会が行われ委員の決定と会員募集
当初の造成計画ではこの年の7月までに9ホール完成を目指していたが、とりあえず6ホール且つサンドグリーンでコースが開場されプレーが始まった。
9ホールが完成した翌22年に1912年に刊行された軽井沢の紹介本『かるゐざわ』の改訂版『かるゐさは 再販』のP97~100に軽井沢GCに関する紹介とこの時に決まった英文の役員リスト(東京GC他NRCGA、神戸GC会員らで構成)及び会則が掲載されている。
この軽井沢GCの発足にあたり役員の大半は東京GC会員であるが、横浜NRCGAのG.G・ブレディ、そして神戸GCのH.E・ドーントも委員に加わっている。
ブレディは東京GCの名誉会員で初期の倶楽部発展に尽力した人物であった為に、ドーントは東京GCの面々と知己で在りもう一つの趣味である登山で長野遠征をすることも度々あったのでメンバーになったと思われる。
(※役員の一人W.R.・グッチについてはミドルネーム違いのW.E. Goochと云う腕のいいプレーヤーがNRCGAに居たが彼と同一かは不明。
ドーントについて倶楽部対抗戦等で度々訪問していた東京GCに入会していた、そこから誘われた可能性があるが=後発の程ヶ谷CCに入会しているので有力だと思う=、筆者は当時の会員リストを観る機会がないので断言ができない)。
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倶楽部発足に関して筆者も未だ解らない事として。軽井沢GCの設立の話題が出るのが1919年の夏頃なのだが、ベースボールマガジンの前身と云える雑誌『野球界』の同年12月号(つまりニコルの設計の前年)に於ける鈴木寅之助の『ゴルフ遊戯に就いて』で紹介されている全国のゴルフ場所在地に
『この遊戯が日本に入つて来たのは十数年前の事であつて、未だ普及せられてない、神戸在留外人が六甲山上に立派なコースを設けたのが始めであつて、今では
東京、府下駒澤、横浜、箱根(仙石原)、軽井沢(以上関東)六甲山、鳴尾、横屋(以上関西)長崎の温泉(以上九州)
等に立派なコースが出来た、(前出P5)』
と軽井沢が含まれているのだ。(※=文中の“長崎の温泉”とは雲仙の旧称)
軽井沢GCの60年史や100年史に記されたコース設置と倶楽部発足の年時は先述の通りなのだが=1920年の造成会議を創立年としている=この記事における記述については、田中たちがコースが出来る前に空き地や野球グラウンドでプレーしたり、別の所で数ホールの簡易コースを作って居たのをカウントしているのか、それとも倶楽部の結成が挙がって居る為にカウントしたか。同地はコースを造るまでの間に関して判らない事が多い。
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#2
ここ迄、『Every-Day Japan』に記された1909年時に存在していたゴルフ場の記述と、その約十年後から始動をした軽井沢GCの興りの概要に触れたが。問題は1909年時に在った同地最初のゴルフ場が何処に在っていつ消えたのか。という事である。
軽井沢は古代には放牧地として利用され、交通の要所であったことから後々碓氷峠を上がって長野へ入る・群馬へと降りる手前の、中山道の宿場町と成っていたが、明治に入ってからは参勤交代が無くなったことや新しい国道=碓氷新道=ができた事により寂れ切ってしまっていた所、明治中期(1885頃)に同地を訪れた宣教師のアレクサンダー・ショーによって在留外国人の保養地として注目されたのが保養地軽井沢の始まりだが、初期の頃の同地の風景というのは今の軽井沢と大分違っていた。
ありていに言うと現在の様な針葉樹の林が全くなく、冒頭の書籍でロイドが述べている様に草原の様な場所であったのだ。
軽井沢の周囲を山に囲まれた平地は、火山活動によって作られたというが、歌川広重の木曽街道六十九次の連作錦絵の軽井沢宿(国会図書館蔵デジタルコレクションで閲覧可)に於ても草原と細い木々が周囲を囲み、その中に家屋が並ぶという風景であり。Wikipediaの軽井沢のページにも掲載されている1884年頃の撮影である高地(現在の『軽井沢プリンスホテルスキー場』付近)から浅間山に向かって中山道の風景を撮影した写真(New York Public Library蔵)を見ると。本当に広い草原の様な、山の際まで行かないと木らしい木のない風景であり、更に時代が下った、鉄道が引かれた後の時代の駅周辺の写真絵葉書を見ても周囲に木が全然ないのだ。
これについては1991年に刊行の宮本安春著『軽井沢物語』の中で、写真館経営者で郷土史家の小林幸夫の言として、軽井沢は天明三年の浅間山大噴火以降同地では樹が育たなくなり、樅の木が点在する位で、それすら片っ端から薪にしていた。との記述がある。(P48)
その様な状況であったが明治前半から実業家の雨宮敬次郎や鳥居義処による開墾事業の一環で彼等の所有地にカラマツの植林が始まっていた。しかし、官僚で政治家であった関清英が1902年に長野県知事の任を拝命し東京から県庁の長野市へ列車で向かった際(それまで彼=佐賀出身=は“長野は山国だから黒々とした森に囲まれている”というイメージがあったのだという)に観た軽井沢の風景に就いて、八年後雑誌で次のように振り返っている。
『然るに軽井沢駅に着いて、ズツト遠近を見渡すと、幾んど何処にもこれと云ふほどの森林はない、一望際涯ない裸山なのには驚いた。(『大日本山林会報』第335号=1910年10月15日=P81)』
との事で、先述の面々が植林していたカラマツもそこ迄育っていなかったのか植林の範囲がまだ狭かったのであろうか、風景は旧来とあまり変わらなかった様だ。
2025年3月下旬、筆者は神保町の春の古本祭りに於いて、写真絵葉書の枚数売りをしている書店で偶然摂政宮=昭和天皇=がプレーをした際の撮影を含めた1924~25年ころの軽井沢GCと軽井沢風景を写した写真絵葉書一纏め(ゴルフ以外の全部は買い切れなかった)と、同じ版元から出たのとは別だが同時期の軽井沢の写真絵葉書の一部を入手でき、
その中には、駅の南東の現在のプリンスホテルのスキー場のあたりから軽井沢一円の風景を写したものと、駅の北西の離山の手前当たりの見晴台から、現在の旧軽井沢よりも南一円を撮影したものが含まれているのだが、それを見てもこの時代でも木は別荘地の一部を囲んでいる位で、そこ迄広がっていないのだ。


大正期の軽井沢の風景を写した写真絵葉書(共に筆者蔵)
関が『一望際涯ない裸山』と称した、茫漠とした草原が英国のムーアランドを髣髴とさせたのも同国人たちが集まる要因であったと云うが、そのムーアランド(ヒースランド)は英国でも内陸のゴルフ場用地としても使われているので、ゴルフをやりたい者達の心を刺激したのではなかろうか。
彼等軽井沢でボールを打ったゴルファー達は浅間や碓氷その周囲の山に囲まれた荒涼とした平野にリンクスを見出してコースを造ったかもしれないが、もしかしたら、神戸にはゴルフコースがあるのに横浜や東京にはない事にヤキモキし設置を訴えていた、後のNRCGA(二人制)会長J・ウィリアムソン=ジョーンズの様な手合いや、1898~99年間に横浜に滞在し、居留地でよく知られた存在であった(『The Japan Weekly Mail』1901年5月8日号にそう記述の在る)後のロイヤル香港GCの強豪T.S・フォレストや、1911年に日本Amを獲るE.G・フラッジェリー、横浜居留地の名物男であったG.G・ブレディといった後のゴルフ界で名前を残した手合いが我慢できなくなった、或いは極東及び東南アジアから保養の為に来日したゴルファー等が避暑の際の手すさびに、或いは『こんな良い場所でやらずにどうするのだ!』と始めたかもしれない。
(因みに、横浜の居留地の地形は田んぼと湿地を埋め立てた新開地=関内=とそれを取り囲んでいる切り立った丘陵=元町及び山手=で形成されているので、どうしてもボールを打ちたいゴルファーが遠出をせずに鬱憤を晴らせる場所がどれほどあったか。
三春台の練兵場跡やテニスコートの在った山手公園やクリケットグラウンドの在った今の横浜公園(ベイスターズスタジアムの所)でやろうにも幾ら距離が出ないガッティボールであっても(一応クリケットグラウンドなら長打者以外ならばドライバーを打てる長さと面積は在るが)行い辛かったであろうし、
後に日本レース倶楽部GAのコースが造られる根岸競馬場のトラック内は七十数人の地主の居る農地で、1901年に始まった日本レース倶楽部の買い上げの際にも首を縦に振らなかった十名の地主の説得の為に完遂に4年程かかっている様な状況であった)
そもそも日米修好通商条約締結により函館・新潟・東京・横浜・神戸・長崎が開港し外国人居留地が出来てから、A.H・グルームが友人らと六甲山上にゴルフコースを造る事を決めるまでの40年近くの間に来日したスコットランド人がゴルフをしなかった訳はないであろうし、実際に長崎では保養地であった雲仙の山あいの放牧場“池之原”=現在の雲仙GLの敷地=で彼らが行っていたのを目撃した地元老人らの伝承(その記述の在る『雲仙ゴルフ場沿革』が記された1930年から数えて“数十年前”と云うから1870~1890年頃か)も残っている。
※また『The Japan Weekly Chronicle』1907年12月26日号P826の神戸GCの記事に、今シーズン最後の倶楽部競技に優勝した横浜のH. Sykes Thompsonが“間もなく下関に向かい、街の裏手の丘に18ホールのゴルフコースを設計の予定と報じられている”という興味深い記述があるが、造られなかったか軽井沢のように記録には残らなかったかは不明。
なので、先述のように目立った木のない一面の草原地である軽井沢でゴルフが行われていても全くおかしくは無い。
1909年に在った“それ”がどの様なコースであったかについては、記録の残らなさ加減から、恐らく草原の広い場所か牧場、或いは個人の別荘の直ぐ傍の用地の芝を刈り込んでホールを開けた3~9ホール位の(ショートコース含む)簡素なモノであったのでは無いかと筆者は推測した。
しかし、それが何処であったのかは判らない、当初今の浅間牧場の近く等を想像したが、上記の前者二つの場合、少なくとも各位の別荘から少し足を伸ばすくらいの所で行われたと考えるのが妥当であろう。
当時の英字新聞に何か記述があるのではと思うのだが、神戸の『The Japan Weekly Chronicle』では神戸GCが開場した1903年から数度、横浜でゴルフコースを造る計画が在る事が報じられ、神戸GCのイベントの際にも述べられているが(1903.11/25.P534、1905. 6/1, P655等)、軽井沢については触れていないので、発行元の神戸居留外国人達には知られていなかったか、或いは規模がとても小さいので無視されていたのか。あるいは国内外のちょっとしたスポーツ情報を報じる『Sports East and West』のコーナーや、数行程度の地域のニュースの短文たちを纏めたコーナーに埋もれている可能性もある。
また、横浜で発行されていた『The Japan Gazette』、『The Japan Weekly Mail』、『The Japan Herald』のゴルフ記事を(NRCGA関係から)調査しているが、軽井沢に関しての物及び軽井沢に関するレポートでゴルフについて書かれた物に筆者は未だ出会えていない。
この幻のゴルフ場に関して本腰を入れて探すには長野県立図書館や軽井沢町立図書館に出向かなければならないとのアドヴァイスを知人の史学研究員氏に頂いたが、その軽井沢町立図書館ホームページのデジタルライブラリーには軽井沢に関する古い写真や書籍・地図などが公開されているので渡りに船と資料閲覧をした。
アップされている写真の中に『愛宕山より軽井沢を望む』という題の年代不明(写っている女性の髪形や着物から明治期?)のものが在るが、場所は旧軽井沢奥の愛宕山から麓の別荘や住居の周りの林・背の低い木々を除くと向こうの山裾まで、筆者所有の葉書同様ほぼ草原という風景であった事が確認できる。
(筆者所蔵の写真絵葉書にも同所から麓の別荘地と軽井沢駅の方の通りを写したものも在るが、それでは別荘地は成長した木々の中に建物が点在している状況であるので1920年代半ば以降の物と思われる)
しかし残念なことに筆者がコースの記載があるかと目星をつけていた1906~10年の地図はない(公開されていない?)。それよりも前の1901年に描かれた『信州軽井沢之全景』という、地図とイラストの中間の図に、記載されている別荘居住者の補足や解説を入れた復刻版(1998)が公開されているが、そこにはゴルフコースらしいものは書かれていない。
またどの地図も(筆者が所蔵している1932年の五万分の一図も同様)駅の南側の地区(南軽井沢)は区外で、駅の北側からの図に成って居るので、『Every-Day Japan』の記述から考えれば北側とみるのが妥当であろうが、もしコースが(後の軽井沢GCの移転先である)その南軽井沢地区にあったとしたらもう判らなくなってしまう。
筆者は袋に(確か)昭和17年と記載された南軽井沢の風景を写した写真絵葉書セットを古書即売会で見た事が有るが(コンディションと値段がかみ合わず購入を見送った)、北側と同じように山裾に針葉樹の林の在る菅・萱・薄類の繁る草原であったので、そちら側に造られたとしておかしくはないが、湿原があったというので、その場合は線路・街道近くになるだろうか。
北側の軽井沢地区にあったとしたら、駅から今の旧軽井沢へと向かう大通りを挟んだ東西のどこかで、東側ならば駅と別荘地の間の“南”側の草原か(のちに外国人向けの野球グラウンドが作られている)、東側の別荘地や諏訪神社の周辺、
西だと別山の南側の、のちに早稲田のグラウンドになったあたりか北側の軽井沢GC(現旧軽井沢GCの敷地)が出来た辺りで行われたと推測している。
#3
このコースが『Every Days Japan』に在る9文字“golf links”だけの記述を残して歴史から全く消え去ってしまった事に関して、筆者が考察しているのは1910年8月に東日本を襲った豪雨災害“関東大水害”の影響だ。
それは梅雨前線に二つの台風がぶつかって起きたというが(先日同様の事が起きそうになったのは記憶に新しい)、軽井沢でも8月9日の大雨から商店街のあった旧中山道の通りと、それを取り巻いていた別荘地の東側を流れている矢ヶ崎川が氾濫して、これ等の地区が大きく浸水し、さらに碓氷峠で土砂崩れが発生し、西の沓掛でも湯川が氾濫する等して死者も出る甚大な被害をもたらした。
残っている当時の写真や写真絵葉書等を観ると旧街道が川のように成って居たり、水が引いた後土砂や石が堆積し、まるで掘り散らかしたような有様と成っていた。
この被害状況を考えるとコースは水没した地区の傍に在って、埋まるなり流されるなどして壊滅したのではなかろうか。
(そのような事例としては1938年の阪神大水害で、住吉川上流で発生し二手に分かれた土石流の片割れが東廻りで甲南GC(旧横屋GA・GC)の敷地を直撃して海へ突き抜け、コースが水没及び土砂で完全に埋まってしまい、1904年以降関西のゴルファー養成所であった横屋のコースが終焉を迎えて仕舞った出来事が挙げられる)
若しくはこの出来事(洪水)は後の軽井沢の開発に大きな転機をもたらしている事から、その際の複数の別荘の移転(旧街道寄りから愛宕山の南斜面へ)や復興を兼ねた軽井沢の開発計画でコースとして使っていた場所が別荘地と成ってしまったか、或いは同時進行していた土壌流出を防ぐための植林事業で林や並木道に成って復活することが無かったのでは。と考察するが、全然史料の無い中での筆者の筆なので、そのつもりでお読みいただきたい。
とはいえ、ゴルフの正史から外れるがこの日本で4番目(或いは5番目)に古いと云えるのに、“ゴルフ場”を示すたった9文字の単語の記述だけしかない“それ”について、『Every-Day Japan』のみしか記述がないというのはあり得ない話だ。
当時の軽井沢には外国人だけでも同書文中にあるだけの人数が来訪しており、現地民を始め日本人も相当数いたのだから『何らかしらは残っている、しかし表には出てこない』と考える方が妥当であろう
その為筆者は、明治42年以前の地図や書籍、或いは海外の軽井沢を紹介する記述の中からひょっこりこのコースの全容が出てくるかもしれない事を期待し、“その時”を待って史料探しを続けている。
―了―
2024年12月8日~2026年6月20日記
2026年7月29日編集
主な参考資料
・『Every-Day Japan』 Arthur Lloyd 1909
※知人の御好意による
・『軽井沢物語』 宮原安春 講談社 1991
・『Golf Dom』1931年1月号P27-30 『ゴルフ座談会の記(6)』
・『野球界』1919年12月号P5-6 鈴木寅之助 『ゴルフ遊戯に就いて』
・『大日本山林会報』大日本山林会事務所 第335号=1910年10月15日P81
・『軽井沢ゴルフ倶楽部60年史』 軽井沢ゴルフ倶楽部 1983
・『軽井沢ゴルフ倶楽部100年史』軽井沢ゴルフ倶楽部 2021
・『かるゐざわ』 佐藤孝一 教文館 1912
・『かるゐさは 再販』 佐藤孝一 丸善 1922
・『木曽海道六拾九次之内軽井沢』 歌川広重(錦絵)
※以上JGA旧本部資料室及び現本部書架、国会図書館にて閲覧
・『町誌 軽井沢』泉喜太郎編 軽井沢町誌編纂会1953
・『信州軽井沢之全景 Map of Karuizawa』青山豊太郎 精行社石板部 1901 ※ 小山定平蔵版 軽井沢りんどう文庫復刻 1998
・『愛宕山より軽井沢を望む』※写真資料
※以上軽井沢町立図書館ホームページ 軽井沢町立図書館デジタルアーカイブHYPERLINK "https://adeac.jp/karuizawalibrary-archive/top/"https://adeac.jp/karuizawalibrary-archive/top/
の書籍-地図(資料グループ)HYPERLINK "https://adeac.jp/karuizawalibrary-archive/catalog-list/list0009"https://adeac.jp/karuizawalibrary-archive/catalog-list/list0009
書籍-町誌、歴史書(資料グループ)
HYPERLINK "https://adeac.jp/karuizawalibrary-archive/catalog-list/list0004"https://adeac.jp/karuizawalibrary-archive/catalog-list/list0004
及び写真(資料グループ) HYPERLINK "https://adeac.jp/karuizawalibrary-archive/catalog-list/list0002"https://adeac.jp/karuizawalibrary-archive/catalog-list/list0002
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(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)