ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・12

駒澤雀達のプレーの手助けをしていたキャディであるが、地元駒澤の少年らが務めており、『お小遣い稼ぎ』というよりもプレーヤー達の階級から、行儀見習いとしてコースにやってきていた。
小学生のころから父に連れられて出入りをしていた鍋島直泰(日本Am三勝)によると、プレーヤーごとに専属のような形でキャディがついていて(後のプロ安田幸吉は大谷光明のキャディを務めたという)、キャディたちも『旦那様』がやってくると『僕の出番だ!』と駆けだしたそうである。
とは言っても、優しい人は少数で、大抵は小僧呼びで名前通りの扱いであったともいう。

初期からの会員で後に東京病院(現慈恵医大病院)院長となった高木喜寛(高木兼寛の長男)は、病院では優しい先生と評判であったが、コースに出ると、プレーヤーやキャディの間違いに対してすぐ怒って叱り飛ばす喧し屋で、その甚だしさに会員達から
『高木さんはキャディに怒ってさえ居ればよい。と思っているのでは?』
と評されるわ、キャディ達も彼が駒澤に来ると
『おーい高木様が来たぞ!』
『兼二先生かキカン先生のどっち?』
『怒りんぼの方!』
『えっ、みんな逃げろ!』
と皆蜘蛛の子を散らす様にどこかへ隠れてしまい。不運な一人がキャディマスターに捕まったら他の者が安心して出てくる様な有様であったという。
高木自身もこの事を気にしていた様でプレー後『今日はたくさん怒ったから半ラウンド余計にやるよ』とキャディフィを上乗せしていたのだが、どやされる側としては堪ったモノではない。

この話は人品の確かな人でもそうなってしまうほどゴルフというのは儘ならない。とか、上流階級が多かった当時のゴルファーはその傲慢さからキャディにひどい扱いをしていたのだ。といった風に見做されるだろうが、高木本人が1930年にパイオニア達の座談会で語った所によると、
『入会二年目(注=1916年)から名誉会計に就き役員をしていたが、入会した直後からキャディ教育の担当をするようになった事などから、一時期、自身も困り果ててしまうほど凄い怒りっぽく成ってしまった。』
との事で、加えて他の会員からルールの説明やラフの刈り高等、様々な事柄で小言をしょっちゅう食らって、そちらでも困り果てていたという。

しかも彼に一番クレームを言っていた会員というのが、キャディに優しい事で知られた日本郵船の林民雄で、しょっちゅう高木に『アレはなんだ!コレはなんだ!』とクレームをつけていた。(高木によると、ゴルファーとして日の浅い自分が役員としてあれこれ言うのを生意気だと感じていたらしい。との事)
ある時、林が白石多士良(建築家、白石基礎工事創業者)と中上川勇五郎(創立会員中上川次郎吉の弟で競技に活躍)とのプレー中、ショートホールで後続の高木がティイング・グラウンド上で急かすような形で素振りをしているのに怒ってプレー後クラブハウスで高木を待ち構え
『アレはなんだ、後から追いかけて来てあんな事をするとは、ケシカランぞ!』
と怒鳴りつけた事もあったそうだ。
林の度重なるクレームは高木の腕が向上していくと無くなって行ったというが、もし、高木にとってこのストレスがキャディに当たってしまう要因の一つと成っていたならば、『親の因果が何とやら』的な何かを筆者は感じてしまう。

 

 

 

主な参考資料
日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂 1995(復刻第二版)
The Bunker 1915年12月号~1916年11月号
阪神ゴルフ合本(1922年4~6,9月号全四号)
・東京ゴルフ俱楽部50・75・100年史 1964,1991,2015 
・『東京ゴルフ倶楽部史料室だより№4 東京ゴルフ倶楽部朝霞コースの全て』2007
・『東京ゴルフ倶楽部(会報)』2014年冬季号-100周年特集号
・『INAKA第五巻』11章『 Golf In Japan』収録 North-China-Daily News Hindie筆
『Rokkosan A Thing of Beauty and a Joy for Ever』 1916
・『INAKA第十巻』掲載『Golf of Yedo』 1919
・『野球界』1919年12月号 鈴木寅之介 『ゴルフ遊戯に就いて』
・『婦人公論』1929年8月1日号 『東西婦人ゴルファ』より室町英二『東京の名流婦人とゴルフ』
・『東京朝日新聞』1922年12月20日朝刊五面
・『Golf Dom』1923年6~8月号『So This is Golf!(1)~(2)』
・『Golf Dom』1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
・『Golf Dom』1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
・『Golf Dom』1934年10月号 C記者『森村市左衛門氏にゴルフを訊く』
・『Golf Dom』1935年3月号『ゴルフ漫談 田中善三郎氏との一問一答』
・『Golf Dom』1937年8月号及び9月号『ゴルフ規則を訊く』
・『Golf(目黒書店)』1931年11月号高木喜寛『ゴルフ発祥の時代』
・『Golf(目黒書店)』1932年2月号及び3月号『ゴルフ座談会』
・『Golf(目黒書店)』1933年2月号大谷光明『ゴルフ思出の記(二) 六甲から駒澤へ』
・『Golf(目黒書店)』1933年3月号大谷光明『ゴルフ思出の記(三) 駒澤をひらいた頃』
・『近代ゴルフ全集1』収録、田中善三郎『ゴルフむかし話』 中央公論社 1959
・『夕刊フジ』 人間グリーン257 鍋島直泰12『古く懐かしきキャデー』
・『夕刊フジ』 人間グリーン263 鍋島直泰18『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(上)』
・『夕刊フジ』 人間グリーン264 鍋島直泰19『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(下)』
・『ゴルフ80年ただ一筋(第二版)』 安田幸吉  ヤスダゴルフ 1991
・『わが旅路のファウェイ安田幸吉ゴルフ回想記』 井上勝純  廣済堂出版1991
・『人間グリーンⅣ 小坂旦子・三好徳行』   光風社書店 1978
資料はJGAミュージアム及び同本部資料室、国立国会図書館昭和館図書室で閲覧他、筆者蔵書より

参考サイト(本文2の執筆で閲覧)
鹿島建設ホームページより 鹿島の軌跡~歴史の中から見えてくるものがある~ 第25回『東京ゴルフ倶楽部と朝霞コース―日本初の常緑芝のゴルフ場(2009年4月28日公開)』
・Sports Network Japanホームページより Sports Advantage Vol.708-1 (017年3月13日公開) 岡邦行『原発禍!「フクシマ」ルポ87』
・鹿島カントリー倶楽部ホームページより『鹿島カントリークラブの施設ご案内』

 

 


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)