ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『駒澤雀奇談』・・・3

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初期の駒澤のコースのヤーデージは、9ホールに成った頃で2000~2300yd、1916年時で300yd越えのホールが3つ、中間の距離(210~250yd位か)のホールが3つ、マッシーショットのホールが3つ(今のパー3)、(『The Bunker』1月号より)。
1918年秋で
361・135・553・366・321・182・152・283・210=2563yd
Par   435,443,343=33
Bogey 536,543,344=37
と短いヤーデージであったが、松や杉の林を切り開いて造られたためか、木立に取り囲まれたホールや、フェアウェイ幅が一番広い所でも40ydを切るホールも在ってなかなかハードなレイアウトであった。

その一例として、駒澤で初めて日本アマチュアが行われた1918年大会では、16年度チャンピオンで強豪として知られた上海のE.I.M・バレット大尉が、第一ラウンドでティから林を通り抜ける1番ホールでいきなり9を打って早々と脱落し、そのことを触れた中国の英字新聞『North China Daily News』がココを『ゴルファーにとっての悪夢』の様なホールとして、上海の江湾競馬場内にある上海GCの広々とした『天使のような』一番ホールと比べている記事がある(『INAKA』第十巻に掲載)。
※この記事を紹介した『六甲の主』H.E・ドーントも、大会中3番ホールでティから数ヤード前方のフェアウェイをチョッと外れた所にポツンと立つ小さな木にティショットをぶつける喜悲劇を味わっている。

 トッププレーヤーでもその様な目に逢うのだから一般ゴルファーやダッファーではどうなるか。当時は林に打ち込んでもOBに成らなかったというので(『INAKA第十巻』の駒澤紹介記事には、ローカルルールでティショットが木からクラブ三本分の距離内にあった場合、ペナルティ無しでボールを移動できる事が紹介されては居るが)、出すまでに奮闘をせねばならなかった。

奮戦の一例として1916~17年頃の事、7番ホールで創立会員の浅野良三(浅野セメント役員、程ヶ谷CC創立に尽力)がティショットを曲げて森の様になっている所に打ち込んだ話を挙げよう。
森の中から浅野はグリーンを狙って打ったが、ボールはキンコンカンと音はすれども行方知れず。
『見えたかい?』と彼の横で見ていた中上川次郎吉(創立会員の実業家)やキャディに尋ねるが皆見えなかった。と云う。
『浅野君、音が幾つも聞こえたから、そこまで遠くには行ってないんじゃないかな?』
『だろうねぇ』
と浅野・中上川両人はキャディ共々木立の中を探し回るもボールは見つからない。
『遠くに行ったかな?』と考え込む中上川に浅野は
『木に当たって音がした時に、左の脇腹に当たった様な気がするんだ』と云う。
だからそこまで遠くにはないはずだ。と探す中、浅野はふと着ているジャケットの左脇ポケットに手を突っ込んでみると、先ほど行方不明となっていたボールと対面し、一同『これじゃぁ見つからないはずだよ』と大笑いした。という話が残っている。

また会員の高木兼二が日本最初のゴルフ雑誌『The Bunker』1916年1月号のインタビューで、倶楽部がプレー中のポケットナイフ所持を禁止している事に触れており、
『それを許したらコースから木が無くなってしまうでしょうね。』
と評していることから、この林について忌々しく思う会員たちが少なからず居たと思われる。

 そんな最初期のころ、8番ホールはティから100yd地点辺りまでフェアウェイ幅が20yd程で、両サイドが杉林というレイアウトであったが、この右サイドの林に皆スライスボールを打ち込み、難儀してしまうで一同相談の上切り開いて空間を作ってしまった。
それから少しして、コースの設計者で何かと世話になっているG.G・ブレディが横浜からやって来てその光景を観た。
在るべきものが無い状況に、純情生一本ゆえ凄い癇癪持ちとしても知られた彼は『なんて事をしてくれたんだ‼』と物凄く怒り出してしまった。

駒澤の面々は彼がなぜそんなに怒っているのか判らず呆気に取られてしまう。落ち着きを取り戻したブレディはこう語った。
『皆さん、この箇所は打ち損ねた球を罰する所なので、そこに空地を造ってしまうと悪いショットを助ける事になってしまうんです』と。
これにより会員達は初めてコースに於ける戦略について知り、一同を説得したブレディは切り開いた場所にまた杉の苗を植えた。その後木の高さに差の有る林は初期のゴルファーの腕前とゴルフに対する考えを物語る記念碑となった。とはその頃に入会した大谷光明の回想。

 

 


主な参考資料
日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂 1995(復刻第二版)
The Bunker 1915年12月号~1916年11月号
阪神ゴルフ合本(1922年4~6,9月号全四号)
・東京ゴルフ俱楽部50・75・100年史 1964,1991,2015 
・『東京ゴルフ倶楽部史料室だより№4 東京ゴルフ倶楽部朝霞コースの全て』2007
・『東京ゴルフ倶楽部(会報)』2014年冬季号-100周年特集号
・『INAKA第五巻』11章『 Golf In Japan』収録 North-China-Daily News Hindie筆
『Rokkosan A Thing of Beauty and a Joy for Ever』 1916
・『INAKA第十巻』掲載『Golf of Yedo』 1919
・『野球界』1919年12月号 鈴木寅之介 『ゴルフ遊戯に就いて』
・『婦人公論』1929年8月1日号 『東西婦人ゴルファ』より室町英二『東京の名流婦人とゴルフ』
・『東京朝日新聞』1922年12月20日朝刊五面
・『Golf Dom』1923年6~8月号『So This is Golf!(1)~(2)』
・『Golf Dom』1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
・『Golf Dom』1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
・『Golf Dom』1934年10月号 C記者『森村市左衛門氏にゴルフを訊く』
・『Golf Dom』1935年3月号『ゴルフ漫談 田中善三郎氏との一問一答』
・『Golf Dom』1937年8月号及び9月号『ゴルフ規則を訊く』
・『Golf(目黒書店)』1931年11月号高木喜寛『ゴルフ発祥の時代』
・『Golf(目黒書店)』1932年2月号及び3月号『ゴルフ座談会』
・『Golf(目黒書店)』1933年2月号大谷光明『ゴルフ思出の記(二) 六甲から駒澤へ』
・『Golf(目黒書店)』1933年3月号大谷光明『ゴルフ思出の記(三) 駒澤をひらいた頃』
・『近代ゴルフ全集1』収録、田中善三郎『ゴルフむかし話』 中央公論社 1959
・『夕刊フジ』 人間グリーン257 鍋島直泰12『古く懐かしきキャデー』
・『夕刊フジ』 人間グリーン263 鍋島直泰18『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(上)』
・『夕刊フジ』 人間グリーン264 鍋島直泰19『忘れえぬ人・相馬孟胤さん(下)』
・『ゴルフ80年ただ一筋(第二版)』 安田幸吉  ヤスダゴルフ 1991
・『わが旅路のファウェイ安田幸吉ゴルフ回想記』 井上勝純  廣済堂出版1991
・『人間グリーンⅣ 小坂旦子・三好徳行』   光風社書店 1978
資料はJGAミュージアム及び同本部資料室、国立国会図書館昭和館図書室で閲覧他、筆者蔵書より

参考サイト(本文2の執筆で閲覧)
鹿島建設ホームページより 鹿島の軌跡~歴史の中から見えてくるものがある~ 第25回『東京ゴルフ倶楽部と朝霞コース―日本初の常緑芝のゴルフ場(2009年4月28日公開)』
・Sports Network Japanホームページより Sports Advantage Vol.708-1 (017年3月13日公開) 岡邦行『原発禍!「フクシマ」ルポ87』
・鹿島カントリー倶楽部ホームページより『鹿島カントリークラブの施設ご案内』

 


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)