ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

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掘っくり返し屋のノート『デヴィッド・フードの補足』・6

『6:日本でのデヴィッド・フードの活動の補足-最初の来日時』

さて、次はデヴィッド・フードの来日について紹介していきたい。
これ迄国内のゴルフ史書に於いてデヴィッドが来日したのは1921年であるとされ、筆者も2019年迄そう思っていた。
これは『日本のゴルフ史』著者、西村貫一が同書の来日プロの項で、デヴィッドの来日の世話をした三井物産マニラ支店社員であった船津完一への取材に於いて、彼が述べた『1921年に茨木CC設計の為に招聘した』という話を掲載(P552-53)した所から始まり。 
1940年に『Golf Dom』創始者伊藤長蔵が丘人の名で連載した宮本留吉の半生記の中では、1921年に東京GCがデヴィッド・フードをオーストラリアから招聘した。と記し(4月号『宮本の修業時代(上)』より)、これらが戦後摂津茂和の『日本ゴルフ60年史』で纏められ固定化したのであろう。
(摂津はフィリピンの邦人ゴルファーがマニラ支店に多く在籍していた三井物産に勤務していた日本Am勝者の井上信や、日本ゴルフ界のキーパーソンである大谷光明が関わっているともしているが、これは後述する1923年の再来日時の事の様だ)

しかし、先話で記したデヴィッドがマニラGCと契約し渡航したのが1921年10月下旬で、途中オーストラリアに寄っている事から(新聞では11月第一週前後の様だ)フィリピン到着は早くても11月中旬以降で、12月中旬にオーストラリアの新聞でマニラでのことが報じられているのを鑑みれば、もし船津や伊藤が述べている様に初来日が1921年ならば年末に何とか到着という状況だろう。
この日本に来た時期については先年、筆者が国会図書館で各新聞のデジタルアーカイヴからゴルフ記事を調べていたら、東京朝日新聞大正11年(1922)9月9日夕刊2面に四段抜きで彼の写真入り記事が掲載されているのを偶然発見した。(これは以前書いた『戦前来日プロ芳名帳』の参考資料となっている)

題は『来て見てびッくり 新婚旅行のゴルフの先生 宮内省でも教習の交渉の手紙』
これは帝国ホテル滞在中のデヴィッド・フードにインタビューをしたもので、記事によると彼はこの年の6月にマニラで結婚をし(配偶者の氏名及び情報不明)、その新婚旅行で来日。(先話で紹介した1923年11月14日付のオーストラリアの新聞『Referee』では7月としている)
神戸に着くが早いか各ゴルフ倶楽部の招待を受けて多忙であること、東京には昨晩(9/8)着いたが、(東京GCの)相馬(孟胤)子爵、川崎肇氏ともよく知っているので東京を去るまでに(11月半ばまで滞在予定)各方面のゴルフ場を訪れ、親しく紳士諸君のゴルフぶりを見たい。と語っている。

 記者の『摂政宮(昭和天皇)が昨年の英国訪問から帰朝して以来ゴルフに非常に熱心なので宮内省の方から何か交渉があったのではないか』とする問にデヴィッドは驚きながら
 『まだそのような交渉は受けてはいないが、阪神地方のゴルフクラブで教授をしている時に一度相馬子爵から日本を去る前に両三回程ゴルフ講義を宮内省でやってくれないかという意味の交渉を手紙で受けていることは事実です。』
と語り。さらに
『ゴルフが日本で流行し出してから3~4年しか経たないと聞くが来てみて驚いた、進歩の著しさと各地の設備に驚いたのではなく日本人がゴルフの神髄を早くも了解し、その上非常に熱心なのに驚いたのです。』
 と続けている。

神戸では忙しかった話を裏付けるものとして、『阪神ゴルフ』1922年9月号P5にG・Hood表記ではあるが、彼が舞子CC有志の嘱託に応じて9月1~6日の間舞子CCと横屋GC(11月頃に甲南GCとなる)でレッスンを行い、6日の最終日の夜に当時の関西ゴルファー達の社交倶楽部、阪神ゴルファース倶楽部で彼の慰労晩餐会を行い、その際に倶楽部併設の福井ゴルフ教習所でプレーについての注意点を講演したことが、概要と共に報じられている。
(この日程を考えると恐らく晩餐会翌日の昼乃至午後の列車に乗って夜行で東京に向かったのだろう)

また、この新聞記事を発見した際その写真から先章で述べた1913年ニュージーランド同年のプロ選手権の参加者集合写真にいるD. Hood(『Golf In New Zealand』にも掲載)が彼であることが確定できた。

 ベアード氏が、デヴィッド・フードが大谷光明の通訳で当時の摂政宮にレッスンをした事を紹介しているが、これは『昭和天皇実録 第三 巻九』1922年10月12日の項に午後二時に新宿御苑に行啓しデヴィッドと赤星鉄馬の競技(エキシビションマッチ)を観覧した際、フードと大谷らのレッスンを受け練習をし、その様子が活動写真(映画フィルム)で撮影された旨が記されている。
なお大谷光明は昭和天皇の母方の義理の叔父(叔母の夫)にあたり、かつゴルフ全般の先生で、昭和天皇実録を読むと一緒にプレーや用具手入れ・整理をしたり、ゴルフ関連の集まりによく招かれ、それらの返礼でフロックコート地を下賜されるなどしている。

アーチー・ベアード氏によるとデヴィッドはこの時の事について
『陛下は最初のレッスンの時からゴルフに多大な興味を持たれた・極めてお人柄よく、覚えの早い生徒でいらした。すべてのレッスンがフィルムに収められ、陛下と同様ゴルフを愛された皇族方が毎日それをご覧になった。(原文ママ)』
と回想していることを『Choice』2016年新春号の『三分間教養(書籍化)』で紹介しているが、この時のことについて、先述の『Referee』1923年11月14日付けの記事にも内容が書かれている。何しろ『GOLFING IN JAPAN David Hood Instructor to the Prince Regent』
という題名で在るのだから。

この記事はオーストラリア国立図書館のデジタル資料検索システムTROVEで検索をした際に見つけたが(ニュージーランドでも同年12月1日付の『Taranaki Daily News』(P13)と『Evening Post』(P19)のゴルフ記事に掲載された)、それによるとデヴィッドは摂政宮だけでなく他の皇族方にもレッスンをしており、摂政宮と婚約中である良子女王(香淳皇后)の父久邇宮邦彦王朝香宮鳩彦王も教え子である。と報じられ(ベアード氏も同じことを記している)、彼は日本語が出来ないのでレッスンは公式の通訳(大谷や宮内省職員の事だろう)を介して行われ、その謝礼としてデヴィッドへ皇室・皇族に相応しい歓待と物品の下賜が為された。と記されている。
また再来日前『Golf Dom』 1923年2月号掲載の大谷光明らしき人物の寄稿文に『今度新宿御苑のコースで殆ど初心者の宮内間官に四五度レッスンを與へたのを視まして』という記述がある事から東京朝日新聞の記事通りに事が運んだとみられる。

また『昭和天皇実録~』にはデヴィッドがレッスンをした10月12日の練習の模様が活動写真(映画フィルム)撮影がされ、27日にご覧になったとある。
筆者がデヴィッド・フードについて最初の書き物で、彼が新宿御苑での宮内省職員らへの何回かのレッスンの中で映画フィルムに撮られた自分のフォームを観てダウンスウィングでの体重移動の欠点に気付いた話を書いたが。彼はいつの時のフィルムをどの場所で観たのか、それが昭和天皇にお手本のショットをしている際の物で、皇族方との上映会で在ったならば面白いが真相は如何に。

これらの記事について筆者が気に成る点として、東京朝日新聞に於いてデヴィッド・フードが『知っている』と述べている二人の内、川崎肇はアメリカやスコットランド、カナダ等。仕事の関係で洋行した際に各地でプレーをして『巧い日本人』として噂になったり『The American Golfer』でも数度写真が載った様な人物なので(この年も訪米しており、友人となる名アマチュア、チック・エヴァンスともプレーをした様だ)デヴィッドが聞き及んでいる乃至川崎がマニラに商用で訪れていた可能性が在るのは理解できる。

しかし、『駒澤雀奇談』でも紹介した相馬孟胤は、本人曰く“新宿御苑でデヴィッド・フードの手引きでゴルフを始めた“と云うので、この件はどう考えるべきか。当時同地で働いていた相馬は彼に教わる前から多少はゴルフに触れていたという事か?あるいは1921年にデヴィッドは最初の来日をしているのか、しかし、それではフィリピンに渡ってすぐという事になる。
(また茨木CCの設計については次話で述べたいが、同地の最終的な用地検分がされたのが1923年2月なので時系列が合わない)
この事についてはマニラに着いて間もない時に船津を介して日本行の予定を立てていた。という事ならば納得は出来るが。デヴィッド・フード1921年来日説の決定打は無い。


この他、デヴィッドの初来日時の活動で特筆すべき事は10月15日の程ヶ谷CCのアウト9ホール開場イベントに招待をされ37・37=74のレコードを出している点で、いつマニラに戻っているのか明確な日時は見つけられなかったが年内に戻っている様で、デヴィッド・フードの来日は彼自身と日本のゴルファー双方に大きな利益をもたらしたと観て良いであろう。

マニラに戻った後のデヴィッドの記録としては翌1923年3月にマニラGCで自身が持っていたコースレコード68を1打縮める67を出し『Manila Times』に各ホールのスコアが報じられ(『Golf Dom』4月号に転載)、同月23日にも前年のフィリピンOP勝者ウォルター・スミスとのマッチで大接戦の末2&1で勝ち、スミスの69に対し先の67を1打縮める66のレコードを出して(両者ともスコアがキチンと記録されている事からコンシードはしなかった様だ)3月25日付『Manila Times』で各ホール毎のプレーの詳細が報じられ、その訳文が『Golf Dom』5月号で紹介されている。(これら記事のコースヤーデージとパー数を見ると市営コースでのプレーの様なのだ)

フィリピンの情報が日本のゴルフ雑誌に載るという事は運営者の伊藤長蔵を始めとする『Golf Dom』刊行会の面々がデヴィッドの事を注目していたのは間違いないだろう。
そして関東のゴルファー達が再来日を求めて打診をしていたらしく、デヴィッド・フードは再び熱心者の集う国に向けて出発をしている。

                              ―続―

 

(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)