ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・18

 

                  18

1920年代の関西のゴルファーには銀行家が多かった。
もちろん東京GCの発起人である井上準之助、名手川崎肇なども銀行家で在り、他にも幾人も居るのだが、関西は不思議と目について居る。

このシリーズの第一~二話で紹介した安部成嘉、星野行則は銀行の支店長や役員であったし(前者横浜正金、後者加島銀行)、茨木CC創立のキーパーソンである廣岡久右衛門は、本人は保険会社の社長であったが加島銀行を運営していた加島屋の10代目であり。同じく貢献者の湯川寛吉を始め会員たちに銀行家が多かった。

また、最近知ったことだが、最初の転向プロ村上伝二も実家は銀行(広島の村上銀行)を経営しており。彼も定説になっている商船会社勤務の前、兵役満了時に在籍していた東京の保険会社を退社して、兄?が頭取に就任した際に入社し、(名義のみの可能性もあるが)貸付部門及び出張所主任として、熊本の毛利氏への営業権譲渡までの4年程の間働いているのだ。

この銀行家ゴルファー達については当時も注目されていたようで、1927年9月8日から10月2日にかけて大阪毎日新聞で連載された関西のゴルファー紹介記事『ゴルフの人々』の第一話「はしがき」にも
『わけても一番熱心なのは銀行家、今や「ゴルファーにあらずんばバンカーにあらず」の猛烈な大流行に、それだけゴルフ狂を以て呼ばるゝ人々もこの方面に一番多く(原文ママ)』
とあるくらいだ。

六甲山に集まった銀行界長老格のゴルフ愛好家達の社交倶楽部『晩霞楼倶楽部』、これは山荘のバンガローと銀行家(Banker)に掛けて居るのだという。
『Golf Dom』1923年8月号掲載の『六甲山顚のゴルフ』内の紹介では、当時のメンバーは三菱銀行常務の乙部融。住友銀行常務取締役の湯川寛吉(のち住友壮理事)、取締役の八代則彦と加納友之介に加賀覚次郎。第一銀行常務取締役兼大阪支店支配人の野口彌三。加島銀行常務の星野行則、山口銀行常務取締役の佐々木駒之助の八名士であった。

関西の大御所銀行家のプライベート倶楽部だからさぞかし贅沢な。と思われるだろうが(実際市井の人たちにそう視られていたらしい)、その実、先述の星野が5番ホール脇(『Golf Domの記事では7番ティ近くとある)にあった外国人所有の山荘一棟を買い取ってクラブハウスとして寄付したそれは、『ゴルフの人々』の1927年9月11日掲載『山上のクラブ』や13日掲載の『山室宗文氏』の記事によると、名前の通り小屋同様の建物で、調度品は木を削り出したようなソファーや椅子。出る飲み物も渋茶で、肩書も遠慮もなく皆書生時代の気分で、無邪気に愉しむことが金科玉条であったといい、日々の煩雑さや疲労を山でリフレッシュするために、若き日のような簡易生活の形になったのだろう。との事で、
1923年時の紹介にも『メンバーはほとんど同じハンディのため一種の面白みが有るとともに熱中の度合いは誰が兄か弟か、と決めがたく、また其々ユーモアに富んで興味深い。
おそらく世界に最も面白く小さいクラブは此処であろう。』と報じられているので純粋に山上での生活とゴルフを愉しむ集まりであったようだ。

普段の彼ら銀行マンゴルファーの話題も、新聞や『Golf Dom』に掲載された話から拾ってみよう。原文ではイニシャルや苗字のみの表示だが、勤務地等から調べるとほぼ『晩霞楼倶楽部』の面々の話ばかりだったのは、彼らの熱中ぶりを表す証左か。

第一銀行の野口彌三は毎朝出勤の時にステッキを逆手に持ってスウィングの練習をしながら駅に向かい、道中手頃な小石が在ったら必ず立ち止まり、キチンとスタンスを取ってその小石を打ち飛ばしていく十年一日のごとしと評されている。(『Golf Dom』1923年8月『Nineteenth Hole』)
彼は『ゴルフの人々』の紹介記事によると、先述の山口銀行の佐々木駒之助らの勧めでゴルフを始めたが、すぐにコースに出ず、人知れず一年練習を積んでからコースに出て、先にせっせとプレーしていた佐々木(記事には五十の手習いで7年目にハンディ12とある)と互角のプレーができた。とあることから、このステッキでの練習もそういった事の一環であろうが。もし彼が、英国で安息日杖(Sunday Stick)と呼ばれていた、握りが小ぶりなクラブヘッド(主にウッド)となっているステッキの存在を知っていたら喜んで購入していただろうと筆者は思えてならない。

似たような話では住友のK.Yさんこと湯川寛吉。汽車を待つ間プラットホームで洋傘をクラブ替わりにスウィングをしたらすっぽ抜けて飛んでいき、“しまったしまった”と拾いに行くのを見られて、『あれっ!湯川さんではないか』と一時話のタネ・噂の主役になったそうだが、1923年春先の時分彼は東京に出かけたのだが、陽気も悪くないのに旅館の部屋に閉じこもって出てこない。
仲居さんが“如何したのかしら?”と思っていると部屋から“ガッチャン!”と派手な音が聞こえて来た。
慌てて飛び込むとそこには湯川がクラブをもって頭を抱えていたというから。駒澤や程ヶ谷に行けばよいのに(或いは行く前のチェックで?)部屋の中で素振りして調度品か照明の傘を壊すという、漫画絵の様な一コマをやらかしたようだ。
この件について掲載された『Golf Dom』1923年3月号で『この病気はチョッと治らぬ』と〆られているが、このクラブを手にするとツイどこでも振りたくなるという症状(筆者も軽~中度の感染者だ)は不思議なものである。

コースにいない時の所作にもゴルフが関わってくるのはゴルフ病の様だが、それを仕事に結びつけるものも居た様だ。
住友銀行支配人の加納友之介は重役室で面倒な話を持ち掛けられると、決まって手をグリップの形に組んで前に出してリストの運動を始め、話す相手に“ふーん、ふーん”と諾づくので、それは自分の話を訊いているのか、それともスナップの調子の息遣いか判らず、大抵の場合は相手の張り合いが抜けて話を止めてしまったそうで、これを報じた『Golf Dom』では『巧い一挙両得の術である。』
と書かれているが(『Golf Dom』1923年7月号『19th Hole』)、今なら炎上案件であろうか??。

この様な何かに使う出来事もあれど、日々の職務に追われているとき、やはりゴルフは彼らにとって潤いになったのだろう。ましてや大トラブルに於いておや。
1922年秋から年末にかけて全国に波及した銀行取り付け騒ぎの最中、加納と同じ住友のN.Y.氏こと八代則彦は連日多数の来客に聊か閉口していたのだが、ふと何かの要件で執務机の引き出しを開けてみた所、中からゴルフボールが一つコロリと出てきた。
それを見た八代は。まるで久しく会っていない友達と出逢った様に嬉しくなり、『おぉー』と我を忘れてそれを取り上げた。という話が“door閉めてclub振りたき師走哉”という句と共に騒動が収着した時分の『Golf Dom』1923年1月号に紹介されている。

一方、1927年春の銀行取り付け騒ぎ、所謂昭和金融恐慌が起きた際の出来事は、1922年の八代の話と比べるとチョッと毛色が違ってくる。
この話が掲載された『ゴルフの人々』の第一話には残念な事に登場人物の名指しはされていないが、話はこの騒動が勃発した間もないある日の午後、某社重役がこの問題に血相を変えて、とある銀行の支店長に面会を求めて飛び込んだ際の事。
案内されて支店長室のドアを開けてみたら驚いた、件の支店長殿は外の騒ぎも何処へやら、絨毯にボールを置いてせっせと練習をしていたのだ。
重役殿はその呑気かつ真剣な様を見ては怒るどころか、自身も熱心なゴルファーで有ることから、それに釣り込まれて当初の目的である金策の相談も、外の騒ぎも、この不安なる状況もスッカリ忘れて後の時間を丸々ゴルフ談義で過ごしたのだという。

果たして二人はこの恐慌を無事に乗り切ることが出来たのか。記事は騒動の収拾が着いた4カ月ほど後に書かれているのだから、彼らはゴルフが傍に在るという精神的余裕で乗り切ったのは間違いなさそうだ。

 


主な参考資料
日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂 1995(復刻第二版)
神戸ゴルフ倶楽部史 神戸ゴルフ倶楽部1965
神戸ゴルフ倶楽部100年の歩み 神戸ゴルフ倶楽部2003
茨木カンツリー倶楽部十周年記念誌 茨木カンツリー倶楽部 1934 
茨木カンツリー倶楽部40年史 茨木カンツリー倶楽部 1964
鳴尾ゴルフ倶楽部五十年史 鳴尾ゴルフ倶楽部 1970
Naruo Spirit    鳴尾ゴルフ倶楽部 2021
Tarumi Golf Club 100th Anniversary倶楽部の歩みと記録 垂水ゴルフ倶楽部 2020
霧の中のささやき 編著・棚田眞輔、編集・神吉賢一、監修・松村好浩 交友プランニングセンター 1990
新版日本ゴルフ60年史 摂津茂和 ベースボールマガジン社 1979
日本ゴルフ全集7人物評伝 井上勝純 三集出版 1991
私とゴルフと中国(上)鳴尾物語 上西荘三郎 1996
人間グリーンⅠ 光風社書店 1977
・大阪毎日新聞1927年9月8日~10月2日 ゴルフの人々
9月8日『はしがき』
9月11日『山上のクラブ』
9月13日『山室宗文氏』
9月16日『佐々木氏と野口氏』
9月20日『村田省蔵氏』
10月2日『むすびの巻』
・『阪神ゴルフ』
1922年4~6月号 福井覚治『キャデーよりプロへ(1~3)』
・『Golf Dom』
1922年12月号『Nineteenth Hole』
1923年1月号『Nineteenth Hole』
1923年3月号『Nineteenth Hole』
1923年4月号P24-25『舞子便り』
1923年7~8月号『So This is Golf!(1)~(2)』
1923年7月号『19th Hole』
1923年8月号C. I.生(伊藤長蔵)『六甲山顚のゴルフ』及び『Nineteenth Hole』
1924年9月号『鳴尾通信』より『18 hole Links開き』及び『19th Hole』
1923年8月号『ムーンライトゴルフ』
1925年2月号P26-27『舞子通信』
1925年4月号『19Th Hole』
1926年6月号『關東對關西レデース競技』及び、舞子の一人『駒澤所感』
1926年9月号『19Th Hole』
1927年4月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々』
1928年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(8)』
1929年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(14)』
1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
1930年3月号 福井覚治『始めを語る』
1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
1932年3月号 C. I. 生(伊藤長蔵)『彼れ氏のパター』
1940年5月号 丘人(伊藤長蔵)『宮本の修業時代(中)』
・『Golf(目黒書店)』
1932年9月号 大谷光明 『ベランダにて』
1933年2月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(二)六甲から駒澤へ』
1933年6月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(五)六甲はパットが苦手』
・『Nippon Golfer』1936年4月号 『七周忌に當り未亡人に聴く 我が國最初のプロ故福井覺次氏 個人とその周辺の人々』ほか
・『Golfing』 1937年2月号 『オールド・タイマア座談会ゴルフの今昔を語る』
・『ゴルフマガジン』
1970年7月号 『プロゴルファーの生活と意見 関西レッスン・プロの大長老 福井正一』
1975年3~4,6月号 柴田敏郎『日本プロゴルファー人脈探訪①~②,④』
・『アサヒゴルフ』
1978年8月号 宮本留吉『ゴルフ夜話73 サンド・グリーンの郷愁』
1981年4月号 宮本留吉『ゴルフ夜話 英国遠征の折、初めてネーム入りのセットクラブを注文』
・『ゴルフマネジメント』1990年7月11日号 井上勝純『ゴルフ倶楽部を考える 第51回 大谷尊由の始球式で京都CC山科コース開場』
・『歴史と神戸』1970年3月号 芦田章『神戸奇人伝(1)へちまくらぶの名物男 西村貫一』 神戸史学会
資料はJGA旧本部資料室及び同ミュージアム国立国会図書館所蔵及び筆者蔵書より閲覧

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)