ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・1

 

東京GCの最初の活動の地であった駒澤に集まるゴルファーたちの逸話を書いたが、関西も初期から様々な逸話があるので記していこう。
この書き物においても実際の記述や回想を基にしているが会話などは『こんな感じであったのだろう』という風味付けをしている事を明記する。

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1903年5月24日に行われた日本最初のゴルフ倶楽部神戸GCの開場式で始球式を行ったのは時の兵庫県知事、服部一三であった。彼は倶楽部創立者のA.H・グルームとは公私親しい間柄で、在神外国人の名士であるグルームは服部の相談役的存在でもあったというから、その関係で開場式に服部をはじめとする県や神戸市の要職に就いている者達が出席をしたのだろう。

この始球式の際、服部は初めてクラブを持った為、グルームがすこし歩いてボールを拾った位にしか飛ばなかったという。
伝説ではグルームが『服部さんはドライバーでパットしました』と言った。とされているが、これは後年グルームの別荘に投宿した服部が神戸GCを訪れた際に、居合わせた大谷光明へ服部と同行していたグルームが会場当時の事を語った際の言が伝説化した様だ。
※『Golf(目黒書店)』1933年2月号、大谷光明『ゴルフ思出の記(二)』より
なおこの時期は大谷が六甲でプレーを始めた時期とグルームの没年を考えると1915~17年間の模様

大谷が雑誌で回想する2年前、1930年2月23日に行われた日本ゴルフパイオニア達の座談会で、開場式に出席した神戸税関長の桜井鉄太郎(後台湾ゴルフの創成に関わる)が、当時の自分はクラブの種類などは解らなかったと振り返りながらも
『その服部さんの打ったときの事を考えてみると、どうもドライバーで打たなかったように思う』と語っている。
ではそのクラブは何であったか?桜井曰く服部は誰か(桜井は失念)からゴールデンクラブなる物を渡され、『しっかりやるように』と言われていた。との事で、ますます何なのかが判らなくなる。
金色に塗られたクラブか?それともスポルディングのロングセラー『ゴールドメダル』モデルの事か。すべては歴史のかなたに去って行ってしまった。
因みにその後の昼食会で服部知事はスピーチの後グルームにクラブをプレゼントしている。しかし、自身はゴルフをしようとは考えていなかったというのはいかなる事か?

          
神戸GCの創立会員には7人の日本人がいて、名前を挙げると先の桜井鉄太郎に川崎銀行及び神戸大学創立者の川崎芳太郎。元勲松方正義を父に持つ松方幸次郎・正雄兄弟。
住友銀行創業者の住友吉左衛門、神戸の実業家の志立金弥、神戸裁判所通訳の小島・S(イニシャルのみ)だが、皆ペーパー会員であった。
とはいえ、先述の通り桜井は台湾ゴルフのパイオニアとして、松方幸次郎は後に舞子CC会長、川崎も舞子の会員になったそうで(鳴尾GAにも彼らしい名が在る)、後年活動をしている者達もいるが、桜井などは神戸GC会員達からクラブと教本をプレゼントされたのに結局やらず、始めるのは十数年後、赴任先の台湾から一時帰国した際に患った赤痢からの体力回復後に運動を。というのが動機で、他の面々も名義のみの登録で月日を過ごした。

しかし小島某は日本人の入会を勧誘する動きをしていた。彼に誘われ1904年に入会したのが横浜正金神戸支店長の青木鉄太郎と部下の安部成嘉(桜井は『開場式に彼も出席していたように思う』と語っている)。
シーズンが来てから小島に連れられて六甲に上がるも、安部はボールを全然打てないことに憤慨して、たった1日でゴルフをやめて仕舞った。(青木は不明)
この酷い目に遭った安部が英国勤務の際にゴルフにのめり込み、帰国後は横屋GAを経て鳴尾GA創立者の一人として関西ゴルフ界の礎を築くことに成るのだが、まだ先の話であり。またこの出来事から1935年頃この9ホール時代の神戸GCでプレーをした邦人ゴルファーの存在を巡り、西村貫一と伊藤長蔵という戦前本邦ゴルフ博士が張り合うことに成るのも別の話。
 

 

 

 

 


主な参考資料
日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂 1995(復刻第二版)
神戸ゴルフ倶楽部史 神戸ゴルフ倶楽部1965
神戸ゴルフ倶楽部100年の歩み 神戸ゴルフ倶楽部2003
茨木カンツリー倶楽部十周年記念誌 茨木カンツリー倶楽部 1934 
茨木カンツリー倶楽部40年史 茨木カンツリー倶楽部 1964
鳴尾ゴルフ倶楽部五十年史 鳴尾ゴルフ倶楽部 1970
Naruo Spirit    鳴尾ゴルフ倶楽部 2021
霧の中のささやき 編著・棚田眞輔、編集・神吉賢一、監修・松村好浩 交友プランニングセンター 1990
日本ゴルフ全集7人物評伝 井上勝純 三集出版 1991
私とゴルフと中国(上)鳴尾物語 上西荘三郎 1996
人間グリーンⅠ 光風社書店 1977
・大阪毎日新聞1927年9月8日~10月2日 ゴルフの人々
9月20日『村田省蔵氏』
10月2日『むすびの巻』
・『阪神ゴルフ』
1922年4~6月号 福井覚治『キャデーよりプロへ(1~3)』
・『Golf Dom』
1922年12月号『Nineteenth Hole』
1923年1月号『Nineteenth Hole』
1923年3月号『Nineteenth Hole』
1923年7~8月号So This is Golf!(1)~(2)
1926年6月号『關東對關西レデース競技』及び、舞子の一人『駒澤所感』
1927年4月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々』
1928年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(8)』
1929年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(14)』
1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
1930年3月号 福井覚治『始めを語る』
1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
1932年3月号 C. I. 生(伊藤長蔵)『彼れ氏のパター』
1940年5月号 丘人(伊藤長蔵)『宮本の修業時代(中)』
・『Golf(目黒書店)』
1932年9月号 大谷光明 『ベランダにて』
1933年2月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(二)六甲から駒澤へ』
1933年6月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(五)六甲はパットが苦手』
・『Golfing』 1937年2月号 『オールド・タイマア座談会ゴルフの今昔を語る』
・『ゴルフマガジン』
1970年7月号 『プロゴルファーの生活と意見 関西レッスン・プロの大長老 福井正一』
1975年3~4,6月号 柴田敏郎『日本プロゴルファー人脈探訪①~②,④』
・『アサヒゴルフ』
1978年8月号 宮本留吉『ゴルフ夜話73 サンド・グリーンの郷愁』
1981年4月号 宮本留吉『ゴルフ夜話 英国遠征の折、初めてネーム入りのセットクラブを注文』
・『歴史と神戸』1970年3月号 芦田章『神戸奇人伝(1)へちまくらぶの名物男 西村貫一』 神戸史学会
資料はJGA旧本部資料室及び同ミュージアム国立国会図書館所蔵及び筆者蔵書より閲覧

 


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)