ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

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掘っくり返し屋のノート『デヴィッド・フードの補足』・3



『3:ニュージーランドに来て間もないデヴィッド・フードの動静と同国のプロゴルフ事情』
 
デヴィッド・フードはアーチ-・ベアード氏の調査では、1904年にニュージーランドオークランドに渡ったといい、先話で挙げた『Referee』1921年11月9日付では1905年とあるが、前話の最後に紹介した新聞記事から1903年6月4日とみるべきだ。
また、オークランドでアシスタントに、という記述は要請通りフレッドの職場オークランドGCがあるので彼の下に就いたとみてよいだろう。
 ※なおダグラス・シートン氏の研究では(『Referee』の記事からか)1905年にニュージーランドに渡り、同じイーストロジアン出身のジャック・マクラーレンの働く南島のオタゴGCに就職した。とNorth Berwick org上で述べており(マクラーレンに関する記述では1906年と記)、時期と職場にブレがあるが、これは後述する。

ニュージーランド時代のデヴィッドの活動について書くにあたり同国のプロゴルフ創成期の事情に触れなければ成らない
1871年にC.R・ハウデンやデイヴィー伯父さんらがダニーデンGCを興した頃はゴルフ用具の購入や修理はスコットランドへ注文せねばならず(新世界のゴルフ創成期は何処も同様の事例があった)、この年の9月28日及び29日付の『Evening Star』に倶楽部の名誉会計D.F・メインの署名で『クラブ及びボールを製造できる大工その他業者求む』という広告を出しているのが、専門家を求める最初の記述ではなかろうか。

これがどうなったかは判らないが、会員のR.D・スミスが1870年代からクラブ造りを始め、孫の代まで行っていた事が、ニュージーランドGA発行の『Golf In New Zealand』や2012年にサザビーズに出品された『ニュージーランドで最初期に造られた』とされるクラブ達のミステリーを書いた『Otago Daily Times』の記事(同年5月2日付)に出てくるので、問題が解決したか。あるいは職業ゴルファーの家の出で、ゴルフ商であったというデイヴィー伯父さんが何とかしていたのかもしれない(兄弟のトムSr.がクラブメーカーである事から彼もノウハウを持っていた可能性はある)。

同国でゴルフの火が大きくなった1890年代に入ってもプロの記述は中々出てこず、筆者が確認できたのは1896年のプロの所得についての特集記事(純粋に仕事内容の記述)と、前話で述べたアマチュア選手権後の会合におけるプロの定義についての議論の際の記述、そして1897年に北島ネイピアのP.S・マクレーンと云う人物が北島で働くプロを探すためスコットランドへの問い合わせに同意した。とする記事があり(『Evening Post』1897年7月10日「Local and General.」)、翌98年にはスコットランドの新聞大手『The Scotsman』に勤務していたヘンリー・アーノットがプロとしてネイピアGCに居た事は確認できたが(メンバーから転向した模様だ)、プロゴルファーの記述が殆ど出てこない。

しかし1899年頃アーノットが短期滞在した南島北部のネルソンGCの年次総会でプロを呼ぶ話が取沙汰された事から『我が国には二十程の倶楽部が存在する事からプロを雇う事が重要に成ってくるだろう』という言説が新聞に載るなどして、オーストラリアで働いているプロを呼ぼうとするなど、専門家を求める需要が高まってきた。

そして1900年代に入るとフード兄弟や、ニュージーランドと隣のオーストラリアを行き来した先述のジャック・マクラーレンの様にマッスルバラやノースベリックと云ったイーストロジアン地区のプロや、ジョン・カスバートや全英OP勝者サンディ・ハードの従弟のジェームス・ハードなどのSt.アンドリュース出身者がニュージーランドを訪れている。

が、1900年代後半までプロの数が一桁くらいの上に、腰を据える者や自国生まれの者が登場する1910年前後までは短期契約の者が多かったのか(先のアーノットも1902年頃にはAMP Limitedの前身の金融会社々員になりプロを廃業した模様)、出入りが結構あるのに加え、同じ時期に国内にプロが一定数纏まって居る事が少なかった。
この為、前話で書いたように同国のプロ達は所属倶楽部の業務だけでなく、プロが居ない俱楽部の要請で出張をするなど多忙を極めており、この話の主人公であるデヴィッドも、1904年に同じ北島のワンガヌイGCやニュープリマスGCへの出張を皮切りに、これまでのフレッド同様に南北両島の彼方此方の倶楽部に出張をしている事を知らせる新聞記事が幾つも残っている。
(アーチー・ベアード氏の話ではオーストラリアの有名なコース(倶楽部)の殆どでレッスンをした。と云うが、残念なことに筆者は新聞記事で確認できていない)

競技について、ニュージーランドでは1893年からアマチュア選手権が行われているが、プロ殆ど居ないためか、一貫した競技というものが無いのでアマチュア選手権などのイベントに付属する形でエキシビションマッチや特別な競技の類(1898年のネイピアGCのオープン競技に所属プロのアーノットが参加(2位)しているのが最初期の記録で、1904年の大晦日に行われたプロアマ混合競技(18Hアンダーハンディ)、翌年正月二日のプロ4ボール、1906年1月3日のプロ3人による72Hメダル競技等、同国のプロやオーストラリアからの訪問プロ参加のOP選手権やプロ選手権のはしりの様な物が数度行われている)に招待されるか。或いは隣のオーストラリアに遠征をするか。という状況に置かれていた。

そのオーストラリアではアマチュア選手権はニュージーランドに一年遅れた1894年に開催されていたが、同国は1890年代半ばにはプロが居り、1900年代初頭には数が増えてきて、1903年ニューサウスウェールズAmの予選をプロも参加させた競技として行い(同年10月7日付の『The Sydney Mail and New South Wales Advertiser』には『オーストラレイシアで最初のオープン競技』と報じられている)、参加プロ7人の内5人が2~6位を占める好成績を出し(1位で、続くアマチュア選手権にも優勝したカーヌスティの労働者ゴルファーのダン・ソーターも後にプロ転向)、これが機運と成って1904年にオープン選手権と、付属する形でプロ選手権(公式は1929年大会からだという)が始まっている。

デヴィッドの兄フレッド・フードはこの第一回オーストラリアOP及びプロ選手権に遠征の先鞭を付けており(OP6位、プロ一回戦敗退)。デヴィッド自身も1906年にフレッドと共にオーストラリアに遠征し、同国OP10位タイ(前半36Hで4位に着けていたがスコアを伸ばせなかった)。続くニューサウスウェールズ州在籍プロチームと他の地区在籍プロチームの対抗戦にもフレッドと共に参加した(前者の勝利)。
プロ選手権では初戦でオーストラリアプロゴルフの父、カーネギー・クラークに敗れたが、本戦敗退者らによるコンソレーション競技でノースベリック出身のアレックス・マクラーレン(ジャック・マクラーレンの双子の兄弟で第一回プロ選手権2位)を3打抑え優勝している。
※なおフレッドはOPで3位、プロ選手権では決勝に進み、豪州OPプロAm三冠の名手ダン・ソーターと当たり、荒れ気味のソーターを慎重なプレーで抑えて午前のラウンドで3UPをしていたが、午後のラウンドでパットが滅茶苦茶になってしまい、精度を取り戻したソーターに4&3で逆転負けの2位となって居る。

また、これらの大会の際か、オーストラリアのプロ13名とフード兄弟が一緒にクラブハウスのテラスで撮った集合写真が10月24日付の同国の新聞『The Sydney Mail and New South Wales Advertiser』に掲載されている。
※10月17日付の同紙における各選手権出場者のグラビアにも『フード、オークランドのプロ』というキャプションの写真があるが、不鮮明の為デヴィッドかフレッド(髭を蓄えていた)かは判別がつかず。

デヴィッドがオーストラリア遠征からニュージーランドに戻る際に仕事場の移籍と云う出来事があった。
ニュージーランドの地元紙『Otago Daily Times』11~12月間の3つの記事から読み取るに、1906年10月にオーストラリアのヴィクトリア州で働いていたジャック・マクラーレンが以前勤めていたオタゴGCに戻り、その際にフード家の弟であるデヴィッドをクラブ造りのアシスタントとして引き抜いた。との事であった。
これがダグラス・シートン氏の書いたデヴィッド・フード1905乃至06年ニュージーランド渡航説の真相だろう。事実1907年2月27日付の地元紙『Otago Witness』に『オタゴGCのアシスタントプロ、D・フード』のクリークショットやミッドアイアンショットの写真、フードとマクラーレン、よく知られたアマチュアC・ケトルの三人がクラブハウスのテラスの上がり框に並んでる不鮮明な写真が掲載されているのが確認できる。

そしてこの年はニュージーランドのゴルフ史における転換期と成るのだが次話で紹介したい。
                              ―続―

 


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)