ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

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掘っくり返し屋のノート『デヴィッド・フードの補足』・7


『7:日本に於けるデヴィッド・フードの補足-再来日と関東大震災からの関西移籍』

再来日後のデヴィッド・フードの動静に関しては、翌1924年1月5日に駒澤で行われたキャディ競技の記事に、彼らのスウィングに影響を与えたという記述が見受けられることから、前年同様に出入りをしていたと見受けられる。が、何故か当時キャディマスターをしていた安田幸吉は“1921年頃駒澤に数日滞在をしたがレッスンをしなかったので得るものは無かった”と自伝で回想しているが、アーチー・ベアード氏の調査では(再来日時の)デヴィッドは横浜に居住していたというから、単純に安田と余り接点が無かった為にそういった回想に成っているのかもしれない。

恐らく駒澤の他に近所である根岸のNRCGAや程ヶ谷CCにも出入りをしていた事と推察されるが、彼には大きなビジネスが関西で待っていた、茨木カンツリー倶楽部の設計依頼が持ち掛けられたのだ。

茨木CCは1922年夏、大阪の社交クラブ『大阪倶楽部』の会員達の間にゴルフ熱が上がり、年末に大阪の梅田に室内練習場が開設され、翌1923年にはゴルフ場に出てみたいというビギナー連と、関西の既存のコースが不完全かつ交通に時間を取られる事に不満を感じている既にゴルファーの会員達によって、誰に言うと無く『大阪近郊に完全なる18ホールコースを持とうではないか』というゴルフ倶楽部発足の機運が高まった事によりコース用地を探す動きが始まり、中心人物であった銀行家広岡久右衛門も前年秋頃から独自にゴルフ場の用地探しを始め、同年暮れに茨木の春日神社近郊の里山を同地支店長の知らせで見つけている事。
翌年春二回にわたる用地検分により茨木を最終候補地として、倶楽部の発足委員会と土地購入の別働組合が組まれ、同地の用地購入及びコース造成が決定した。

茨木CCの発起人でもあった広岡は『茨木カンツリー倶楽部十周年記念誌』の中で大谷光明・井上信両氏に用地検分をして貰った際にデヴィッド・フードを設計者として招聘することに成った旨を記している。これに就いては彼が大谷や井上に来日を希望していたのも関係していたというが、東京方面のゴルファーもデヴィッドのレッスンを所望していたのでその折衝と彼への賃金確約で契約は無事済んだという。
(広岡は同書と『茨木CC40年史』でデヴィッドがマニラから直接茨木に来た記述をしているが、後者の本文では東京にいたデヴィッドに設計を委託した。とある。
リアルタイムの記事である『Golf Dom』でも2~3月号掲載の、超ロングヒッターの駒澤雀C.Gオズボーンとのマッチなど最初の来日時の出来事と思しき記述の他は、12月号掲載の対話式コラムと巻末コラムの赤星鉄馬との駒澤でのマッチの話まで彼の記述が出てこないが、国外に残っている『横浜居住』の記述から関東で活動はしていたのは間違いない)

デヴィッドが最初に関西に来たのが1923年7月中旬の頃で、16日に用地の検分。翌月8月3日には委員会との会談をしているのだが、横浜に戻って少し経ってから彼は大変な目に遭っている、そう関東大震災だ。
ベアード氏の話ではこの震災でデヴィッドは政府高官連中から贈られたゴルフクラブをはじめ家財を失ったというが、そんな生易しい物ではなく。先話で紹介したオーストラリアの『Referee』紙1923年11月14日付記事に、横浜で妻子共々命からがら難を逃れ、ニュージーランドへ向かった『The Japan Advertiser』 の広報部長で在ったマイケル・シャティンが語る『フードから訊いた話』として、デヴィッドはすぐ傍の人達が崩れた柱の下敷きになっていく様な惨状を無傷で潜り抜けたという。

関東大震災は東京の被害にスポットが大きく当たるが、相豆各地区の被害も相当な物で、特に横浜は地割れ・土砂崩れや大火災に見舞われて中心部は壊滅しており、上の記述からデヴィッドはこの時程ヶ谷や根岸のコースでなく市内中央や山の手の住宅地に居たのだろう。
蓬莱町生まれの生粋の濱っ子で、この日恐ろしい目に遭っている父方の祖父(当時17歳、市内の銀行に出かけ被災)が居る筆者としては、彼があの場所に居て死線と戦ったという事に感慨深さがある。

デヴィッド・フードが被災した。という点について、以前JGAミュージアム委員の武井振一氏が、筆者やコース造成家のベンジャミン・ウォレン氏と彼の話題を語った際に、
“被災し困っている(或いは関西に避難した)デヴィッドを関西の有志が招いて、茨木カンツリー倶楽部の設計にあたらせた。そして倶楽部創立とコース改修に関っている加賀正太郎がサントリーの前身の寿屋と繋がりがあるため、彼の世話役として同社にいた醸造家竹鶴正孝とリタ夫人(後者はゴルファーであった)が関わっているのでは。”
という説を開陳されていたが、先述の通り被災よりも先にデヴィッド・フードは茨木CC設計の為関西へ打ち合わせに向かっており、加賀も1923年の3月24日から母親の急逝でその年の暮れ頃に急遽帰国するまでの間コース探訪を含めた欧米外遊をしているので、どこまでが合っているか否か。

筆者の見解としては武居氏の見解は部分的に正しく、震災後の定住の際には茨木CCを始めとする関西の有志一同が何らかしらの援助をしていたと考えられるのではなかろうか。
(竹鶴夫妻との接点が出来たとすれば加賀の帰国以降だろう)
事実、茨木CCの年史には1924年1月12日にデヴィッドの滞在費用調達の為青木(後述)でレッスン会を開いた話があり。『Golf Dom』1924年1月号にも、デヴィッド・フードによる横屋(甲南GC)でのレッスンが始まる事からレッスンを受けるかい?と聞くAと、福井覚治に教わって纏まり出しているのに先生を変えたらフォームが崩れると心配するBとの問答的コラムが掲載されている。
それによると、デヴィッドは五カ月の滞在予定である事や、甲南GCの委員が関わっている事を伺わせる記述が出てくる。
この他福井もデヴィッドが滞在する五カ月の間に彼の良い処をスッカリ取る(吸収する)だろう。という展望や、レッスンは時間制で希望の回数(時間)で予約が出来た事が記されている。
※なお、青木は魚崎村東端の海辺横屋にある甲南GCのコースと小川を挟んだ本庄村の西端の地名で、福井覚治はそちらに住居兼店舗を構えていた。その為福井の家にあったという練習所でレッスンが行われたのか、また最寄り駅が青木なのでコースをそう呼んでいる記述もあり、最初から『Golf Dom』にある様に甲南GCで行った可能性も大いにある。

話が先行してしまったが先の1923年11月14日付『Referee』における記事の冒頭に、執筆記者が体験したとみられる
“先月、神戸のオリエンタルホテルでのお別れの夕食会で、帰る私は良く知られたゴルファーのフードから『オーストラリアに居る全ての友人にキアオラ(筆者注=マオリ語の挨拶)を』と託けを貰った”
と云う趣旨の文が在るので、デヴィッドは一部の関東のゴルファー同様被災後すぐに関西へ向かったのは間違いなく。関西サイドの招きや援助が在ったと観て良いだろう。

記事の最後には茨木CCの設計が完了したら直ぐ北米に行く予定で在る。と報じられている事から(が、残る記録の通りそのまま日本に滞在した)筆者の考察は間違っていない様である。
その設計については上記の記事と『茨木カンツリー倶楽部十周年記念誌』で広岡久右衛門が述べている『晩秋に完成』という記述から、震災で避難してきた10~11月の間に行ったとみられる。

筆者が気に成る事としては同書の中で、コース完成後グリーン委員として改修に奮闘することに成る加賀正太郎が、デヴィッド・フードが設計した経緯について『~アメリカのプロで、カリフォルニアで二三のコース施工に参興した事が在ると本人が云うだけの事で~』という趣旨を述べている点だ。

来日プロの中でカリフォルニアにコースを造っていた経験があるのはSt.アンドリュース出身のトム・ニコル(軽井沢GC旧コース設計)であり、関わった倶楽部に所属しても居る。西海岸北部では程ヶ谷CC旧コース設計をした元プロのウォルター・フォバーグが幾つか造成と改修を行っており、彼もニコルの様にその内の一つグレイズハーバーCCに所属し、後に会長を務めている。
加賀はデヴィッドをこの二人と混同している様に想われるが、デヴィッド自身の活動についてはニュージーランド時代の1915年末乃至16年4月以前にニューブライトンGCの拡張工事で12ホールを設計した事を報じる同国の新聞記事が存在している。
(なお同国に於いてこの他にコース設計や改修をしている“Hood”の記事は殆どが兄のフレッド・フードの様だ)

                              ―続―

 

(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)