ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・3

 

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神戸GC発足前、コース造成から関わっている貿易商W.J・ロビンソンは、コースが六甲山頂の為に冬季はプレーが出来ないことを残念に思い、平地にコースを造る事を思い立った。
その際に用地として神戸GCを興したA.H・グルームが1898年に日本国籍を持つ長男名義で友人らと購入した兵庫県魚崎村の東端、横屋の街道(現国道34号線)に面した海辺の農地(これは日米修好通商条約の改正で居留区が内地雑居となって、所属している神戸レガッタ&アスレチック倶楽部の敷地が使えなくなる場合を考え移転先として購入したが、移転せずに済んで塩漬けになっていた)を借り、1904年にサンドグリーンとサンドティの6ホールコース、横屋GAを創設した。

この造成に関わり、離れ座敷をクラブハウスとして提供したのが、敷地の北端に住む農家の福井藤太郎。その次男吉太郎はそれに関係してか地元の少年達同様キャディの仕事を行い、のちに日本最初のプロゴルファー福井覚治として活動をすることに成る。
吉太郎は横屋が出来る一年前からゴルフという異人さんの球遊びを知っていたのだが、その遊びについてトンデモない勘違いをしていた。

初めてのキャディの仕事をした際の事、吉太郎少年はプレーヤーがティショットを打ったら一目散に駆け出していき、それを拾ってプレーヤーの許に持ってきたのだ。
びっくりするプレーヤー、
『あーBallはドコにアリマス?』
『ハイっ、ここです』
『No, No、Ballドコにアリマスでしたか?』
『だからここにありますよ』
と押し問答が始まり、とうとうプレーヤーが怒り出して『Cam On Boy!!』と吉太郎少年の腕を引っ張って、ボールがあったと思しき場所まで連れて行った
 そう、吉太郎少年は『ゴルフというのは異人さんが打った球を拾って拾ってくるもの』と思い込んでいたのだ。
おそらく造成や何やらの前に、ロビンソンら有志がゴルフがどのようなものであるか説明をする為打ちっぱなしの類を行っていて(加えて40年前に列車の車窓から同地でのプレーを観た。という大谷光明の1933年の回想や、六甲と同時期乃至それ以前に行われていた。とする戦前のスポーツ書籍がある事から、ロビンソンや友人らはグルーム等が横屋の土地を購入した時から目星をつけてボールを打っていた可能性は大いにある)、彼はそれを見ていたのだろうと筆者は推察している。
この出来事は福井にとって強烈であったようで、亡くなる直前に『Golf Dom』へ寄稿した回想文でもプレーヤーに『Boy!』と怒鳴られた時の怖さは忘れられない。と記している

 福井による横屋の話では、ロビンソンの番頭の酒井何某も手伝うことがあったそうだが、ロビンソンから『コースに生えている雑草を燃やしておくれ』と英語で言われたのが、細かいニュアンスまで伝わらず
『コースの草を燃やす』
と解釈し火を附けたら芝はまる焼けで、ヨモギや月見草などの根の強い草だけ残ったという失敗談もあったそうだ。

倶楽部はロビンソンの友人達が入会していったが、神戸GC程に比べれば極々小さな集まりでむしろや11~3月のシーズンオフも欠かさずプレーがしたい熱心なゴルファー達の溜り場的存在であったのだろう(とはいえ神戸GCの主要人物であるグルームやH.E・ドーントもメンバーであり、1908年12月には神戸GCのドライビングコンテストにコースを貸しても居る)
1913年に帰国した横浜正金の安倍成嘉が26人目の会員となるが、それから暫くして秋を過ぎたころグルームが敷地をサミュエル・サミュエル商会(現ロイヤル・ダッチ・シェル石油の前身の一つ)に売却する話が上がり、コースは閉鎖、倶楽部は解散となった。
ロビンソンにしても、安部にしても不運な事であったが(後者は入会金の一部を返してもらっている)、この事が今に続く関西ゴルフの流れの始動となって居るのだ。

 

 

 

 


主な参考資料
日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂 1995(復刻第二版)
神戸ゴルフ倶楽部史 神戸ゴルフ倶楽部1965
神戸ゴルフ倶楽部100年の歩み 神戸ゴルフ倶楽部2003
茨木カンツリー倶楽部十周年記念誌 茨木カンツリー倶楽部 1934 
茨木カンツリー倶楽部40年史 茨木カンツリー倶楽部 1964
鳴尾ゴルフ倶楽部五十年史 鳴尾ゴルフ倶楽部 1970
Naruo Spirit    鳴尾ゴルフ倶楽部 2021
霧の中のささやき 編著・棚田眞輔、編集・神吉賢一、監修・松村好浩 交友プランニングセンター 1990
日本ゴルフ全集7人物評伝 井上勝純 三集出版 1991
私とゴルフと中国(上)鳴尾物語 上西荘三郎 1996
人間グリーンⅠ 光風社書店 1977
・大阪毎日新聞1927年9月8日~10月2日 ゴルフの人々
9月20日『村田省蔵氏』
10月2日『むすびの巻』
・『阪神ゴルフ』
1922年4~6月号 福井覚治『キャデーよりプロへ(1~3)』
・『Golf Dom』
1922年12月号『Nineteenth Hole』
1923年1月号『Nineteenth Hole』
1923年3月号『Nineteenth Hole』
1923年7~8月号So This is Golf!(1)~(2)
1926年6月号『關東對關西レデース競技』及び、舞子の一人『駒澤所感』
1927年4月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々』
1928年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(8)』
1929年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(14)』
1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
1930年3月号 福井覚治『始めを語る』
1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
1932年3月号 C. I. 生(伊藤長蔵)『彼れ氏のパター』
1940年5月号 丘人(伊藤長蔵)『宮本の修業時代(中)』
・『Golf(目黒書店)』
1932年9月号 大谷光明 『ベランダにて』
1933年2月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(二)六甲から駒澤へ』
1933年6月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(五)六甲はパットが苦手』
・『Golfing』 1937年2月号 『オールド・タイマア座談会ゴルフの今昔を語る』
・『ゴルフマガジン』
1970年7月号 『プロゴルファーの生活と意見 関西レッスン・プロの大長老 福井正一』
1975年3~4,6月号 柴田敏郎『日本プロゴルファー人脈探訪①~②,④』
・『アサヒゴルフ』
1978年8月号 宮本留吉『ゴルフ夜話73 サンド・グリーンの郷愁』
1981年4月号 宮本留吉『ゴルフ夜話 英国遠征の折、初めてネーム入りのセットクラブを注文』
・『歴史と神戸』1970年3月号 芦田章『神戸奇人伝(1)へちまくらぶの名物男 西村貫一』 神戸史学会
資料はJGA旧本部資料室及び同ミュージアム国立国会図書館所蔵及び筆者蔵書より閲覧

 


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)