ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・4

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関西のコースでは芝にまつわる話は(東京ベントの始まりも大概だが)関東のそれに比べて激しめの話が残っている。
 1913年晩秋?の横屋の閉鎖によって創立者のW.J・ロビンソンと最後の入会者及び最初の日本人会員であった安部成嘉が新天地として武庫川と鳴尾川の間の海辺の原っぱと廃棄されていた速歩競馬場跡を所有者の鈴木商店らから借りて鳴尾GAを興すが、翌年の1月4日から始まった造成の際、競馬場跡地に埋まっていたコンクリート基礎をどかしたら蛇がウジャウジャ出てきたという話も残っている。

倶楽部は9ホールができてからの開場ではなく、有志達が造成の手伝いをしていた農家の岡田家から預けている工具を持ち出し、造成をしながら出来上がったホールでプレーをしていたらしく(岡田家と付き合いのあった鳴尾GC猪名川コース生え抜きの上西荘三郎の回想)、開場日もはっきりしていない。
これは発起人の一人であるロビンソンが『倶楽部を創る為合資で行っても上手く行かない、それだったら自分がお金を出して、少しずつでもコースを造り時間がかかっても構わない、プレーをしていれば皆が集まってくるだろう』という理念でやっていた為である。

少ないお金(ロビンソン曰く四千円“現在の3200~4000万円位”を出したという)で諸事を進めていたので、鳴尾のコースは立派なものではなく、雑草を刈って窪地は田んぼの土を埋めて均し、北西の打出の山産出の壁土を用いてサンドグリーンとサンドティを造った簡単で平坦な砂原のコースであった。
それも二年目の年末にはロビンソンらの尽力もあり芝付きも良くなったと1915年の『The Bunker』12月号で報じられているが、こんな話が残っている。

1917~18年頃、実業家で登山家でもあった加賀正太郎が某氏(安部成嘉らしい)にゴルフに誘われ、その新しいスポーツをやってみようと思い立ち、彼と一緒に鳴尾GAへ行く日取りも決まったのだが、その前に東京GCと鳴尾の会員である伊地知虎彦にばったり会い、
『今度鳴尾でゴルフというのをやることに成ったんです』
と話したところ
『ナニ、鳴尾かい?あそこはね、腰に鎌を差して出かけて、ボールを探すのに忍耐を要して、更にショットの前に球の周囲一間四方は草を刈らなければならなくてねぇ、ゴルフにはそれ位の覚悟が必要だよ?』
と脅し?を掛けてきた。 
園芸が趣味で、のちには洋蘭の育成にも名を残している加賀だが、『一日中草刈りをせねばならんのですか…!』と怖気づいてプレーをキャンセルしてしまい、再び興味を持つのは4年程後に大阪の社交倶楽部会員達によってゴルフコース(茨木CC)を造ろう。と動きが始まった頃であった。

 その加賀も発足に関わった茨木CCでは資金及び土地不足で不本意な開場となったコースを理想的なチャンピオンシップコースにするため、グリーン委員として低予算の中、程ヶ谷CC出身のグリーンキーパー峰太刀造と二人で数年がかりで改造を成し遂げているが、その打ち込みっぷりに、他の会員達は休日に来る度に改修状態でプレーに支障が出る有様に『これじゃ茨木カンツリー俱楽部でなくて茨木マイイング・カンパニーだよ!』と加賀への憤懣と排斥の声を上げる程の熱心さで行い。彼曰く
『庭を造り草を育てることは、本来私の趣味とするところで、皆様のお陰であの雄大なる大庭園で無邪気な人たちを相手にして多年自分の大好きなことを官費でやらせていただいたことは、私の一生を通じて最も愉快な仕事の一つであった』
と述べている

それならば鳴尾でも怖気づかなければ、後に鳴尾GCと成ってからも芝よりも砂が多かった様なコンディションを好転させることを成し遂げていたかもしれないのだが、まだゴルフが如何なるものかを知らなかった加賀に要求することは酷だろう。また本人も鳴尾GAでのプレーをキャンセルしたことを後悔している事から色々と思う事があったとみられる。

 

 

 


主な参考資料
日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂 1995(復刻第二版)
神戸ゴルフ倶楽部史 神戸ゴルフ倶楽部1965
神戸ゴルフ倶楽部100年の歩み 神戸ゴルフ倶楽部2003
茨木カンツリー倶楽部十周年記念誌 茨木カンツリー倶楽部 1934 
茨木カンツリー倶楽部40年史 茨木カンツリー倶楽部 1964
鳴尾ゴルフ倶楽部五十年史 鳴尾ゴルフ倶楽部 1970
Naruo Spirit    鳴尾ゴルフ倶楽部 2021
霧の中のささやき 編著・棚田眞輔、編集・神吉賢一、監修・松村好浩 交友プランニングセンター 1990
日本ゴルフ全集7人物評伝 井上勝純 三集出版 1991
私とゴルフと中国(上)鳴尾物語 上西荘三郎 1996
人間グリーンⅠ 光風社書店 1977
・大阪毎日新聞1927年9月8日~10月2日 ゴルフの人々
9月20日『村田省蔵氏』
10月2日『むすびの巻』
・『阪神ゴルフ』
1922年4~6月号 福井覚治『キャデーよりプロへ(1~3)』
・『Golf Dom』
1922年12月号『Nineteenth Hole』
1923年1月号『Nineteenth Hole』
1923年3月号『Nineteenth Hole』
1923年7~8月号So This is Golf!(1)~(2)
1926年6月号『關東對關西レデース競技』及び、舞子の一人『駒澤所感』
1927年4月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々』
1928年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(8)』
1929年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(14)』
1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
1930年3月号 福井覚治『始めを語る』
1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
1932年3月号 C. I. 生(伊藤長蔵)『彼れ氏のパター』
1940年5月号 丘人(伊藤長蔵)『宮本の修業時代(中)』
・『Golf(目黒書店)』
1932年9月号 大谷光明 『ベランダにて』
1933年2月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(二)六甲から駒澤へ』
1933年6月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(五)六甲はパットが苦手』
・『Golfing』 1937年2月号 『オールド・タイマア座談会ゴルフの今昔を語る』
・『ゴルフマガジン』
1970年7月号 『プロゴルファーの生活と意見 関西レッスン・プロの大長老 福井正一』
1975年3~4,6月号 柴田敏郎『日本プロゴルファー人脈探訪①~②,④』
・『アサヒゴルフ』
1978年8月号 宮本留吉『ゴルフ夜話73 サンド・グリーンの郷愁』
1981年4月号 宮本留吉『ゴルフ夜話 英国遠征の折、初めてネーム入りのセットクラブを注文』
・『歴史と神戸』1970年3月号 芦田章『神戸奇人伝(1)へちまくらぶの名物男 西村貫一』 神戸史学会
資料はJGA旧本部資料室及び同ミュージアム国立国会図書館所蔵及び筆者蔵書より閲覧

 


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)