ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

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掘っくり返し屋のノート『デヴィッド・フードの補足』・8

 

『8:デヴィッド・フードと茨木CC設計の概要』

 

デヴィッド・フードの日本に於ける最大の功績と云われているのが茨木CCの設計であるが、これは彼を始め関係者一同苦闘の場でもあった。
この書き物はデヴィッドの来歴と活動を辿ることがメインであり茨木CCの倶楽部史ではない為、概要に留めるのをご容赦頂きたい。

デヴィッド・フードが1923年晩秋にコースの設計図を書き上げてから、倶楽部委員会は同年12月に程ヶ谷CCから予てより要請していた同コースの造成に関わっているグリーンキーパーの峰太刀造に造成作業員の纏め役として赴任してもらい、峰は同月5日にデヴィッドの描いた設計図面を受け取り、18日から年末にかけて測量を行った。
翌24年1月4日から始まった造成では倶楽部のグリーン委員会がデヴィッドと峰の監督指揮にあたり、国内各コースの実地検分を事前に行い英語が堪能であった長谷川銈五郎(泉尾土地社長、銅精錬や肥料開発でも活躍)が委員長を務めてデヴィッドを激励し、委員の野田吉兵衛(富士製紙社長、夫人は関西女子ゴルフのパイオニア)もデヴィッドと共に現場へ日参し、インコースから造成は進んでいくのだが、前話で触れた『Golf Dom』12月号の対話式コラム『價値轉換―ある貧しきゴルファーの會話―』(12/16の署名在り)。これは垂水(舞子CC)の行く末の話題がメインなのだが、その中で造成直前の茨木CCについて

『A-それにしても茨木だって完成には日時もかかるし、又出来上がって見なければ果たしていいコースかどうか知れたものでない。如何にプランがよくたって施行者に理解が無ければ設計者の意図は現れぬからナ。一般の建築と同じ事サ。(常用漢字及び仮名遣い変換、英文翻訳)』
『B-無論サ・然し其辺は茨木だってぬかりあるまい。フードが工事の監督をすればいいではないか。僕はフードのプランを見てそして其思惑をきいて、其通り出来上がれば大変なものになると思った。(中略、常用漢字及び仮名遣い変換、英文翻訳)』
という、その後の造成における展開を予言している様な記述が出てくる。

というのも造成をしていく中で、用地確保の際に取った方法“別働組織の茨木ゴルフ土地組合が購入した用地をコース用地の他、上水道・電気付住宅地として分譲販売(抽選式)という形で出資会員に高値で購入してもらい、その差益をコース造成とクラブハウス建設の資金として、造成後茨木CCに寄付する”というのが裏目に出て、当時18ホールのコースには二十万坪の用地が必要とされるなか、住宅地六万三千坪を差し引いたコース用地の十一万七千坪に18ホールを詰め込むような形に成ってしまい。(然し、住宅分譲地はコースに使い難い所も多く、建物を建築したのは広岡久右衛門だけで“クラブのチェンバーとして戦後一時期使用”、彼を始めとする役員連はとても住宅を建てるに適さない用地が当たったのだという)

加えて、寄付された十五万円以上の造成費は、測量費、デヴィッドへ支払う設計代、クラブハウス建設や道普請に使ってもそれなりに残ったが、芝の費用という大きな問題が出てきた。
当時は需要が少なかった為か高麗芝が一坪1.15~1.20円、富士山麓産の野芝で70~80銭と高価で(1934年時には高麗の上等品が3分の1位で入手できたというから大事である)、数万坪を張らねばならなくなるのだからその費用は造成費の大部分を占めることに成ってしまう。
まだアウトコースが残っているのに資金が無くなりかねないので茨木CC会長の湯川寛吉(住友銀行会長)が頭を悩ます中、グリーン委員会でも芝張りを巡って議論が起き、野田は“全て高麗芝とするべき”という理想論を挙げ、長谷川は“グリーンは高麗でフェアウェイは野芝を自然に生え揃わせよう”というコスト削減の現実論を唱えた為衝突してしまった。
この状況下で海外のコースを見聞して来た加賀正太郎が帰朝したので、彼が新知識を得ている事に加え長谷川と仲が良い事からことから問題を解決できるだろう。と新たにグリーン委員に選ばれたのだが、予想外の展開をもたらした。

加賀がデヴィッドと現場に向かうと、狭い土地にコースを詰め込んでいる事に驚くと共に悲観し、ほぼ造成の完了しているインコースについて、“球が逸れたら直ぐOBになる幅の狭さではプレーを愉しめないのでは”とデヴィッドをなじった所、彼は怒るどころか“その通りなのだ”と喜んで、
“当初は長谷川さんの意見に従ってフェアウェイ幅を50ydとして伐採・杭打ちをして、更に両端に15ydずつラフ乃至も森を残して設計したのだが、土地が不足するという事でフェアウェイから直ぐOBになり、更にその両側に住宅が並ぶことに成るというので自分も設計者の技術的責任上極度に悲観しているのだ”と告白をしてきた。
それも尤もだ。とデヴィッドに共鳴した加賀は次のグリーン委員会の席上で『クラブハウスは掘っ立て小屋で良い、ターフの問題は二の次でコースも開場が1年遅れてもいいから土地を買い足して、完成しかかっているインコースなんかは全てやり直すべきだ』という『コース第一主義によるやり直し論』を開陳して議場は紛糾してしまった。

加賀の劇案は、先立つものが無いのだから改修は一先ず出来上がってから考えよう。という倶楽部会長である湯川寛吉の言で一段落し、芝張りはグリーンを高麗、フェアウェイは購入した野芝を貼り付ける事が決定。アウトコースの造成費は社債を募って確保しすることに成り、加賀はグリーン委員を退任して後の出番を待つことに成った。のだが。
この出来事から残った長谷川、野田ら関係者一同は情熱を喪ってしまい、二人は現場に来る頻度がガクンと減ったのに加え、デヴィッドも面白くなくなり、コースの残りを峰太刀造が一人設計図を基にレイアウトしたようなものに成ったといい。加えて1924年夏の旱魃インコースフェアウェイの野芝が枯死してしまい、“隙間が在っても高麗芝を使うべきだ”という加賀の嘆願でアウトは半切りにした高麗芝を隙間を開けて貼る様な対策を取る苦闘ぶりで、
“六十数万円という多額の資金を掛けて造った一大ゴルフコース”
と国内外に喧伝される中、乏しい造成費用(9ホールで芝代含め3万円そこそこであったという)と土地の問題により、1925年5月10日のインコース完成(3027yd、アウトは芝張りの問題でまだ使えなかった)による開場式の際来場者が観たのは、
里山の棚田に沿って造成したような段差のあるホールや、芝が市松模様の様に飛び飛びに張られ目土の白砂のほうが目立ち、逸れると直ぐOBという狭いフェアウェイ。グリーンも田んぼに土を被せて芝張りをした様な物が幾つもあり(デヴィッドによってモグラ対策は念入りにされていたモノの、排水設備がなく再構築の際には稲株がゴロゴロ出てきたという)。加えて前々日の大雨の影響を受け、泥田の様なコースでお目見え。という関係者一同不本意な結果となってしまった。

しかし、これに就いて『Golf Dom』1925年5月号掲載の開場と競技を報じる記事では
『草の生えて居ないのと雨上りの泥との為に大分不足を訴えた人もあった様であるが、それは不足を云う方が無理で、寧ろ短時日の間に是までやり遂げた委員諸氏の努力と工事担当者の熱心とを称賛すべきである。今後両一年の間に立派なコースになる事は疑いはない。コンディションさえよくなれば程ヶ谷リンクスと比例して、日本のチャンピオンシップコースとなり得るであろう。(常用漢字・現代仮名遣いに変換、英文訳)』

という好意的な見方がされており、そして開場直後から新生グリーン委員会が『Golf Dom』にある様に日本を代表するコースにする為数年間手弁当で奮闘し、有言実行とするのだが、その中心人物であった加賀正太郎も『茨木カンツリー倶楽部十周年記念誌』で造成当時について。
『僅々十一万余坪の地積にあれだけ変化の多いコースを嵌め込んだ事は悪口を云うよりは称賛に値する事と私は思います。実際現在の進歩した技術をもってしても誰がやっても恐らく大同小異だろうと思います(現代語訳)』
と述べ、デヴィッドがレイアウトにおいて谷や小山のある地形とホールの繋ぎを上手に行ったことを評価している。

広岡久右衛門も同誌で創立当時の工事の方法について『一般にゴルフの知識の乏しかった当時あの財政でもって、兎も角にも十八ホールスを見事完成させたということは譬え今日グリーンの専門家的立場から見て多数の欠点があろうとも宜しき之を寛恕し長谷川さんの偉大なる功績に対し深く感謝するところがなければならないと思うのであります(現代語訳)』
と当時故人となって居た初代グリーン委員長、長谷川銈五郎の監督指揮等の功績を賞している事を鑑みれば、関わった者一同『とにかくやり遂げたぞ』という気持ちが強かったのは間違いない。

                              ―続―

 


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)