ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・6

                 6
鳴尾から芝を持ち出せなかった為もあろうが舞子CCのコースは1920年10月3日に開場した時も芝付きが悪くボコボコであったといい。それから数年間『ティとグリーンだけのコース』と呼ばれる状態でプレーがされ、当初の9ホールから12ホールに増設したモノの再び9ホールに縮小している。
また、起伏が激しいという地形も災いして、狭い尾根や谷間を抜ける様なフェアウェイというレイアウトになり、そのフェアウェイさえも石ころが多くてクラブヘッドが直ぐ傷だらけになるので、悪いライに対応する為にソールがササラの様になったマッシーニブリックを持って行ったというような話も残っている。
※筆者愛用のトム・スチュアートのアイアンセットは、入手時エッヂやソールがガジガジに成っていた事と、兵庫からの出品であったので恐らく舞子のプレーヤーが使った物だろうが、そうであるのならば如何にコースがすごい状態だったか。
入手当初の写真を撮っていないことと、今はソールやエッヂを成形し直しているので、読者諸兄に同意を求められないことが無念だ。

この為東京GCとの対抗戦で駒澤に同行したキャディの“ケンタン”こと後の廣野GCヘッドプロ、柏木健一がコースの芝付きの良さと整備の見事さにビックリして
『まるでお座敷みたいですね!』と対抗戦メンバー共々感嘆の声を上げたという話も残っている。(1923年度の模様)

『Golfing』1937年2月号に掲載された関西ゴルフのパイオニア達の座談会で、当時はロンドン在で在った高畑誠一(帰国後舞子の改造を相談されるが、遣り様がないと断っている)が『近隣には他にも良い場所があったのに何故あそこにしたのか?』と当時の知識の乏しかったゴルファー達が六甲のようなコースを是とした話を引き合いに疑問を投げかけているが、鈴木岩蔵(帝人初代社長)や星野行則といった当事者達からは“当時は今よりも土地が高く、交通の便等を考えるとあそこにするしか無かったのだ”と苦衷を察して欲しさの滲む返答がされている。

それでも集まる者達は皆この不完全なコースを愛したのだ。『用地選定を間違えた』とか『ティとグリーンだけのコース』と評される一方、地形の変化に富み飽きの来ない、たとえ酷い目にあっても次こそは。と思える不思議さがある。とも看做されていた。
そんな舞子へ阪神間から行くにあたり、プレー時間に都合の良い列車のダイヤは一つしかなく、みな同じ列車に乗り込んでコース最寄りの垂水駅までゴルフ談義。プレーを愉しんで帰りの列車まで一時間程しかないのに、もう一度廻ろうと12ホールを駆け足でボールを打ち続け列車に飛び乗った。なんてことが行われていたのだ。
クラブハウスが『都会のごみごみした様な所から離れた感じの良い別荘のよう』と評されている事や(残念ながら1959年2月の火災で焼失)、倶楽部内でも威張る人の居ない、皆が平等に愉しむ倶楽部として運営がされていたのも、ある種の魅力を持ったコース共々ゴルファーが集まった要因であったのだろう。

筆者が『Golf Dom』を調べてみたところ、舞子CCは当時の国内ゴルフ倶楽部の中で一番多くの競技をしており、会員達も関西ゴルフ界の主要人物が大半を占め、日本人女性初のゴルフ団体日本レディスゴルフ倶楽部(後活動範囲から関西婦人ゴルフ倶楽部に改名)が興されるなど関西ゴルフの中心地として1920年代のゴルフ界に貢献し、他の倶楽部の発展に合わせる様に役目を終え、倶楽部は廣野GCへと新規発足し、残ったコースはパブリックとして運営され、戦時中の閉鎖を経て戦後垂水GCとして復活し現在に至っている。

 

 

 

 


主な参考資料
日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂 1995(復刻第二版)
神戸ゴルフ倶楽部史 神戸ゴルフ倶楽部1965
神戸ゴルフ倶楽部100年の歩み 神戸ゴルフ倶楽部2003
茨木カンツリー倶楽部十周年記念誌 茨木カンツリー倶楽部 1934 
茨木カンツリー倶楽部40年史 茨木カンツリー倶楽部 1964
鳴尾ゴルフ倶楽部五十年史 鳴尾ゴルフ倶楽部 1970
Naruo Spirit    鳴尾ゴルフ倶楽部 2021
Tarumi Golf Club 100th Anniversary倶楽部の歩みと記録 垂水ゴルフ倶楽部 2020
霧の中のささやき 編著・棚田眞輔、編集・神吉賢一、監修・松村好浩 交友プランニングセンター 1990
日本ゴルフ全集7人物評伝 井上勝純 三集出版 1991
私とゴルフと中国(上)鳴尾物語 上西荘三郎 1996
人間グリーンⅠ 光風社書店 1977
・大阪毎日新聞1927年9月8日~10月2日 ゴルフの人々
9月20日『村田省蔵氏』
10月2日『むすびの巻』
・『阪神ゴルフ』
1922年4~6月号 福井覚治『キャデーよりプロへ(1~3)』
・『Golf Dom』
1922年12月号『Nineteenth Hole』
1923年1月号『Nineteenth Hole』
1923年3月号『Nineteenth Hole』
1923年7~8月号So This is Golf!(1)~(2)
1923年4月号P24-25『舞子便り』
1924年9月号『鳴尾通信』より『18 hole Links開き』
1923年8月号『ムーンライトゴルフ』
1925年2月号P26-27『舞子通信』
1926年6月号『關東對關西レデース競技』及び、舞子の一人『駒澤所感』
1927年4月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々』
1928年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(8)』
1929年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(14)』
1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
1930年3月号 福井覚治『始めを語る』
1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
1932年3月号 C. I. 生(伊藤長蔵)『彼れ氏のパター』
1940年5月号 丘人(伊藤長蔵)『宮本の修業時代(中)』
・『Golf(目黒書店)』
1932年9月号 大谷光明 『ベランダにて』
1933年2月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(二)六甲から駒澤へ』
1933年6月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(五)六甲はパットが苦手』
・『Golfing』 1937年2月号 『オールド・タイマア座談会ゴルフの今昔を語る』
・『ゴルフマガジン』
1970年7月号 『プロゴルファーの生活と意見 関西レッスン・プロの大長老 福井正一』
1975年3~4,6月号 柴田敏郎『日本プロゴルファー人脈探訪①~②,④』
・『アサヒゴルフ』
1978年8月号 宮本留吉『ゴルフ夜話73 サンド・グリーンの郷愁』
1981年4月号 宮本留吉『ゴルフ夜話 英国遠征の折、初めてネーム入りのセットクラブを注文』
・『歴史と神戸』1970年3月号 芦田章『神戸奇人伝(1)へちまくらぶの名物男 西村貫一』 神戸史学会
資料はJGA旧本部資料室及び同ミュージアム国立国会図書館所蔵及び筆者蔵書より閲覧

 

 

 

 

 

 

 


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)