ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

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掘っくり返し屋のノート-埋もれた競技記録- 『自己申告~1909年日本アマチュア優勝者失格事件~

メジャーや一国の名前を冠した選手権で優勝者が失格になる・なりかねない事例と云うのはそうそうない。

1876年年大会でデヴィッド・ストラスがグリーンへのショットが飛びすぎて先行組およびギャラリーに打ち込んだ事が問題となり、それがルールに反するか否か処分を棚上げになったままプレーオフ参加が求められたため、『もし勝っても先の件が違反となれば失格になるのだからプレーの意味がない』と拒否した事件。

1888年の全英OPで3人のプレーオフが行われそうになった時、その中の一人ジャック・バーンズのスコアが過大申告であることが指摘され、訂正されて優勝した事例が在ったり。
(過大申告はスコア提出時点で固定されるルールが出来たのはこれがきっかけであった)

1957年の全米女子OPでハワイのジャッキー・パンが優勝していながら、スコア誤記により失格となり(涙目でトロフィ受け渡しの場面を見ている表彰式の写真がある)、彼女を不憫に思った有志一同が募金をし、優勝賞金の1.7倍近い額が彼女に贈られた話。

1968年のマスターズでアルゼンチンの名手、ロベルト・デ・ビセンゾがプレーオフに残るはずが過大申告をしてしまい、その機会を失ってしまった事件。

我が国では1960年の日本OPで陳清波が二連勝を達成した。と思われた際、集計で彼のスコアラーであった小野光一が誤記をしていた箇所に気付かず署名をしてしまった事が判明し、過少申告で失格となってしまった事件が有名だ。
陳は自身の失格に対する潔い態度が評価されたが、小野は自責の念に苛まれ、繰り上げ優勝に成った小針春芳も自身の勝利にスッキリとしない。その為二人は大先輩の陳清水に相談して賞金の何割かを彼に預け、それでスーツを仕立てて貰い陳にプレゼントすることにした話が残っている。

そしてもう一つ優勝者失格の事例がある。1909年の日本Amに於いての事で、西村貫一の『日本のゴルフ史』や、『日本ゴルフ協会七十年史』の競技記録集でもその旨が記されているが。今回は、この事件の顛末と真相に触れてみたい。


筆者は昨年10月から外国人時代の日本Amの記録を求めて、当時の英字新聞を調査している。これは、105年間詳細不明になって居た1917年大会の記録を再発見したのがきっかけであった。マイクロフィルムを回し続けるのは大変だが、従来の定説を崩す様な記述が色々出ているので中々愉しいモノでもある。

その中で、1909年大会の記事を調べて居たら失格に至る流れが(原因については正しいのだが)従来の記述と違う事に気が付いた。

この年の大会は9月25日に六甲の神戸GCで開催された。そして渦中の人物はA・スタンレー・クラーク。
彼は1907年に神戸GCに入会した若いプレーヤーで、当初のハンディは26であったと云うが、この年のキャプテンカップ(6回行われるアンダーハンディ競技の各優勝者がシーズンオフにアンダーハンディ式の決勝戦を行う)の決勝戦では8になっており、一打差の二位(ベストグロスを出した)と急速に腕を上げ、翌08年の日本Amで12位、神戸GCのダンピィカップにハンディ7で優勝。
1909年に入るとハンディが3というトッププレーヤーとして、キャプテンカップの決勝者となり。そこから日本Amを挟んでスクラッチとなっており、クラブ選手権に優勝したほか、対香港対抗戦やインターポートマッチの代表として勝ち星を挙げている。

この大会は、日本アマチュアに於いて初めて海外からの参加者が在り、後に同大会を獲る上海GCのE.I.M・バレット大尉と、香港選手権勝者のモニフィス中尉が海を渡っている。

大会当日、天候は午前中霧と北西からの強風が強く。週間版『Japan Chronicle』の大会記事を読むと、“午後は霧が晴れたのでスコアが低くなるかと思われたが、一部のホールでは相変わらずの強風で、グリーンが非常に難しくなった”と報じられている。
(注=当時の六甲はサンドグリーンのため、撒いてある砂が飛んだり偏ってカチカチの土台がむき出しになったり、ローカルルールでラインを手で均せるとはいえ、バンカーのような砂溜りになる為、強風下のプレーは難易度が増した)

そんな中クラークは前半を81で廻り、判明している次点者に6打差をつけてトップに躍り出た。
午後のラウンドも地形上風の吹き曝しになる後半、それも14~18番で難儀したようだが(15番でOBを打ったという)86でまとめて167。二位のJ.L・クロカットに12打という圧倒的な大差で優勝している。
この選手権では、合計190を切れたのが7位タイまで、170台もクロカットしか出せていないので、如何に当日が悪コンディションであったかお解りいただけるだろうか。

以下上位8名のスコアを記す。
1: A. S・クラーク 神戸GC 
午前 6 4 5, 4 3 3,5 4 4=38  5 5 6 ,4 4 5 ,4 4 6=43 Total81
午後 4 3 6, 5 4 3,5 5 5=40  4 5 5, 4 6 5 ,5 5 7=46 Total86 All Total 167
2: J. L・クロカット   神戸GC 89+89=178
3: G. G・ブレディ   NRCGA   89+91=180
4: P.E・コルチェスター NRCGA  88+95=183
5: E.I. M・バレット   上海GC  100+85=185
6: K・ハンドマン    NRCGA  90+97=187
7: J. F・ラビット     神戸GC 87+102=189
7: E. C・ジェフェリー  NRCGA  89+100=189

優勝カップの手渡しは、翌26日の対抗戦後のお茶会の際に倶楽部会長のソニクラフト医師の手によって行われ、クラークは優勝スピーチで他の参加者たちに(おそらく横浜・上海・香港の面々宛だろう)コースの性質とトリッキーさについて詫びるとともに、参列してくれたご婦人連の健康を祝して起立しての乾杯を呼び掛けている。

大会後もクラークはキャプテンカップ勝戦などの俱楽部競技に参加し(ベストグロスであったが3位)、良いプレーをしていたのだが、日本Amでの自身のプレーを振り返り、重大な間違いに気が付いた彼は、大会を運営した神戸GCの委員会に
『去る9月25日の日本アマチュア選手権の際、第二ラウンド15番ホールでOBに関するローカルルール第7条を無意識のうちに誤って居ました。このため私はチャンピオンで在るべきでは無いと思うのです』
という手紙を送った。

当時の神戸GCのローカルルールがどのようなモノであったか、現在クラブハウスに当時のコースレコードとして飾られている、この大会の十数年後、二十数年後のスコアカードの裏面に記されて居るやも知れないが、筆者には確認が出来ていない。

兎も角、これを受けた委員会は緊急会議を開いて鳩首議論を始めたのだが、審議の結果クラークを失格として二位のJ.L・クロカットを繰り上げ優勝とする事、カップとその複製を渡す事が決定した。と週刊版『Japan Chronicle』10月21日号に報じられている。

 本来ゴルフ競技は、集計が終わって大会運営委員から結果が発表されて順位が決定し、すべてが終わった後で瑕疵が判明してもそれは動かしようがなく、また問題があった際の裁定をその場のジャッジで決めることも出来る。

例としては、優勝者のマイケル・スコット卿(レディ・マーガレット・スコットの弟で1933年全英Am勝者)が第三ラウンド12番ホールのティマーカーの外からプレーをしていた事が判明したが、開催倶楽部の判断で不問となった(R&Aは失格が妥当と後日問い合わせに回答)1907年度オーストラリアOPと、優勝者のアイヴォ・ウィットンが最終ラウンド14番で木立に打ち込んだボールをアンプレイアブルしてもブラインドショットとなるので、良い処置を訊ねた際に、委員が提示した容認されない(失格となってしまう)処置に従いプレーをしてしまい。それを知ったプロを始め各位が抗議をするも不問となった同1912年大会。

優勝したボビー・ロックがプレー後失神してしまう程の緊張から同伴競技者のパットの為にずらしたマークの位置から戻さず、最終パットをした事が大会後二位になったピーター・トムソンを始めとするテレビ観戦者らから指摘され、自身の処分を問い合わせた彼に、
『あの状況下では難易度等が変わらないため貴方が優勝者であり、提出されたスコアも変わりません』とR&Aが手紙を送った1957年度全英OP等の記録がある。

これ等の裁定は救済でもあり、禍根を残してしまう事もある。
前者の1907年大会では2位のダン・ソーター(オーストラリアのOP・プロ・Am三冠)が後年迄『ロイヤルメルボルンの連中はSt.アンドリュースのルールを捻じ曲げやがった!』と憤慨していたと彼の娘が語り残しており(もう一つの12年大会も同じコースでソーターが2位であった!)、後者でも仲の良かったロックとトムソンの関係がおかしくなってしまったという。

話は戻るがA.スタンレー・クラークの事例は当時としても異例と云え、この事件の真相をJGAミュージアム委員参与の武井辰一氏に伝えた所、『基本は大会終了以降の事後発覚では結果は覆らないが、当時はこのような事がある事はあった様だ』と云われていた。

この事件と渦中の人物たちのその後については、繰り上げ優勝となったクロカットは翌年の根岸大会でコースレコードタイの73を出す(午前か午後か不明)プレーをして、横浜の名物男G.G・ブレディに五打差をつけ優勝。前年の棚ぼた式の優勝ではなく。キチンと選手権に優勝者たり得る実力の有ることを周囲に見せつけた。

※後に英国に帰国、1928年に彼の紹介でSt.ジョージヒルGCに仮入会した慶応大学ゴルフ部創立メンバー、範多龍平によると、(“横浜のクロケット氏”の表現だが)同地の会員でハンディ12だが無造作に良いスコアを作っていくので驚く。とのレポートが『Golf Dom』3月号に寄稿されている。
が、不思議なことに彼は日本での活動時代から範多のレポートまでの間、ミドルネームのイニシャルや、戦積まで間違えられているのだ⁉)


一方クラークについては、失格事件以降新聞記事などを調べても日本Amや対抗戦だけでなく神戸GCの競技においてその名前が見当たらない。
仕事等で日本を離れた為か、それとも失格事件の責任を取って競技ゴルフ或いはゴルフ自体を止めてしまったのか。
安直な結論はつけたくないが、彼がゴルフをその後も楽しまれていたことを願ってならない。
                                ―了―
                             2023年5月25日記
                                6月2日改訂
                          6月22日誤記箇所訂正及び

                                                                                                                 改訂

 

主な参考資料
・日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂 1995(復刻第二版)
・霧の中のささやき 編著・棚田眞輔、編集・神吉賢一、監修・松村好浩 交友プランニングセンター 1990
日本ゴルフ協会七十年史 日本ゴルフ協会 1994
・The Champions and The Courses they Played. Terry Smith著 Australia Golf Union 2004
・The Japan Weekly Chronicle (Japan Chronicle 週刊版)
1907年8月15日号P218『Kobe Golf Club.-Captain’s Cup-Fouth Nomination.』
1907年10月10日号P462『Golf on Rokkosan.』
1909年9月23日号 P572 『Kobe Golf Club.』
1909年10月7日号 P652 『Kobe Golf Club. – The Week-end Matches. - The Amateur Golf Championship of Japan.』
1909年10月14日号P700『Kobe Golf Club-Captain’s Cup, Final.』
1909年10月21日号P740『Kobe Golf Club- The Amateur Golf Championship of Japan.』
1912年7月25日 P145『Local And General.』
・Golf Dom 1928年3月号P22 R. H.生(範多龍平)『英国通信』
以上JGA本部資料室、国立国会図書館で閲覧及び、筆者蔵書より
Golf Illustrated(英国)1910年11月4日号
以上、クリストフ・メイスター氏(Mr. Christoph Meister)のご厚意による

 

 

 


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)