ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート-埋もれた競技記録-

『赤星四郎の1921年フロリダ冬季選手権第二フライト優勝に関する補筆』

2018年に筆者が大叩き氏のブログをお借りしての書き物を再開した際に書いた『ミステリー①』は1921年のSt.オーガスチンで行われたフロリダ冬季選手権の第二フライト(マッチプレー競技などで本戦予選をカットされた者達の上位の一定数を対象に行われ、参加数によっては第五、第六と更に存在する。戦前の関東プロ選手権でも一時採用された)に赤星四郎が優勝した事と、何故この事が戦前・戦後のゴルフ界に話題に上がらなかったのか、という話題を考察と共に書いたが、『American Golfer1921年4月9日号や1922年版『Spalding Golf Guide』の小さな記事しか確認出来ない状況で書いたため穴だらけであった。
先年の春、アメリカ議会図書館のデジタルアーカイヴの新聞検索システムで、来日プロのトム・ニコルやデヴィッド・フードのフィリピン時代の記録(当時同地は米領)がないか調べていた際に、赤星兄弟の記録も在るのでは。と思い立ち探した所『New York tribune』紙をメインにこの大会記事が幾つかヒットし、読んでみると意外な事が分かった。

勿論新聞記事は誤報や誤植(酷い物だと1907年のニュージーランドOPで選手権のスコアが同時開催のアマチュアトーナメントと併用されて居た為、すべてのアマチュア選手の記録がそちらの競技のモノとされ、3位の“ベストプロ”が優勝者と全国各紙で報じられた事例がある)もあるが、
今のところ『New York tribune』3月22,24~27日付の大会記事および赤星兄弟の特集記事がこの出来事の詳しい記録であろうことから、これを基に書いていきたい。

先ず試合について書いていこう。
筆者にとって驚きであったのは、この大会に赤星四郎だけでなく弟の六郎も参加していた。という事であり、両者ともプリンストン大学在籍となって居る。
従来四郎はペンシルヴェニア大学で学んだ。とされている事から、前回の書き物で筆者は『記者の間違い』・『六郎と間違えた』・『学業の終盤プリンストンに居た』の三説を挙げたが、3月27日付の兄弟の特集記事には四郎がペンシルヴェニアのウォートン・スクール(同大学が設立したアメリカで最初のビジネススクール)を卒業し、プリンストンの大学院課程に在籍している。と紹介されているので3番の仮説が正しかったようだ。

開場のSt.オーガスチンGCは戦略的で難しいコースとされており、参加者は避寒でニューイングランド地区や中西部からやってきたプレーヤーと、南部のプレーヤーの混合で、その中に加わった赤星兄弟はかなりの注目を集めたという。
予選は18ホールのストロークプレーで上位16人が本戦。17~32位が第二フライトに振り分けられ、各部門18ホールのマッチプレーを戦っていく形に成っていた。

予選では六郎が87でメダリストのジョージ・モース(エクワノックGC)に3打差の2位タイで本戦に進み、四郎は体調不良からカットラインに1打足りない97で17位タイとなり、第二フライトに振り分けられた。
3月22日付『New York tribune』及び『New York Herald』では、兄弟はAkahoskiという誤植で報じられているが、記事には時代を表すかのような表現がされている。
というのも、R. A. Akahoskiこと赤星六郎に対して『プリンストン大学のプレーヤーである小っこいジャップの星』という様に書かれ、以降大会記事で兄弟が『小さい』扱いをされているのは、黄禍論が渦巻き、排日移民法が取りざたされた時期故か。それとも二人とも5ft7in(170㎝強)位だと報じられた体格故か(六郎は体重が155lb.(70㎏強)とある)。しかし実際には彼らは(後年に比べてずっとスリムだったが)もう少し背丈が大きいので、やはり“そういったモノ”なのか?

24日の記事では、兄弟が第一フライトに進んでいるリロイとF.V.カルバー兄弟(父親はニューヨークの医師でクレー射撃チャンピオンとして名を馳せたD.L・カルバー)とのベストボールマッチを行い、82と84の拮抗したスコアの勝負で、最終ホールで勝った囲み記事が出てくるが、マッチが有った23日は二回戦が行われているので、試合後のモノとみられる。
二回戦を報じる大会記事では六郎の名が無く、27日の記事によると、一回戦とみられるマッチで、12位通過のH.M・クレーン(22日の記事ではピッピングロック所属とあるがナッソーCCのベテランとの事)に3&2で敗れたそうで。
勝者であるクレーンは『自分は勝ったけれども、それは彼自身が自滅した為です』と述べ、六郎のプレーについては“ウッドやアイアンのショットは素晴らしいけれども、アプローチ等のグリーン周りが駄目で、彼が巧いやり方を学んだら素晴らしいプレーヤーになるだろう”という趣旨の批評をしている。
一方四郎は前日の97を払拭する様なプレーをし、一回戦を86で廻ってマッチに勝ったそうだ。

24日の記事に戻るが、第二フライトでは『小っちゃなジャップの星』赤星四郎が奮戦をしている事が取り上げられ、彼が延長19ホール目でノースカロライナのH.L・ドースを破った事が報じられており。第二フライトの記述はこれだけである事から四郎のプレーは周囲の注目を集め出していたようだ。

翌24日の試合が報じられている25日付記事では準決勝でハリウッド(カリフォルニア州では無くニュージャージー州のハリウッドGCか)のF.R・バレットを2&1で破り『驚き』と報じられながら決勝に進出、シカゴのW.P・ケントと当たることが報じられた。

そして25日の決勝戦、本戦ではコロンビアGCのジョージ・ジェイムスがこの大会に数度優勝している左利きのベテランJ.L・ホプキンスを寄せ付けないプレーをして7アップ(『The American Golfer』4月9日号では5&4とある)でタイトルを獲っているのだが、その記事と同じくらいの文量で第二フライトについて、
『この国で今一番幸福を味わっているゴルファーはプリンストン大学の小っちゃなジャップ赤星四郎だろう。』という切り出しで、彼がこの日初出場のトーナメントで受賞(優勝)した事と、会場のSt.オーガスチンGCのクラブ職人ディック・ビーティの下で数日前から造っていたドライバーが完成した事が競技のスコアと共に記されている。

“アカホシはシッカリとしたプレーをし。いくつかのホールでブレが出たものの、総合的には見事なラウンドであった”
と書かれた試合の経緯は、四郎が前半を43で廻って対戦相手の45に対して2UPを取っており、巧いティショットと一貫性のあるパットをしていたが、ショートゲームが荒れ気味であった。位しか書かれていないのだが、決勝のスコアを観ると(〇×は筆者が付けた)接戦で、ご覧の通り18ホールを終わってオールスクエアのままなので、誤植か決着がエキストラホールでついたのか、先の『The American Golfer』の記事にもマージンについて書かれていないのが残念だ。

赤星  655636453=43 565357444=43=86
    〇×-×-×〇-〇    ×-×〇〇×-〇-
ケント 745535554=45 464466454=43=88  

四郎の勝利は第二フライトとは言え堂々たる記録で在るのだが、本人が全く語らなかったのは、やはり第二フライトであった事に加え、弟が本戦に進んでいた事も関係しているのだろう(六郎もこの事について殆ど触れていない)。
しかし、正史にこの大会の事はキチンと記すと共に、当時の彼ら兄弟のゴルフにつ

いて興味深い記述があったので、次話で紹介したい。

 

 

 

                  2
1921年の冬季フロリダ選手権は赤星四郎・六郎兄弟二人の参加であり、大会の全容も『New York tribune』の記事から判明したが。その記事の著者レイ・マッカーシーは赤星兄弟に興味を持ったのか、大会期間中に独自の記事を書いており、大会後の3月26日付『New York tribune』に『Tow Japanese Brothers Loom As Golf Stars Princeton Pair Regarded as Coming Championship on From in Florida Tourney』という24日署名の記事が掲載されている。

そこには、日本人が様々なスポーツに取り組み活躍を始めている事や、世界的な邦人テニスプレーヤー熊谷一弥の活躍の様に『数年以内に日本のスター選手のチームがチーム戦や全米Amの栄誉を求めてやってくる。というニュースが在ってもおかしくない』という切り出しで冬季フロリダ選手権における赤星兄弟の活躍について書き出されている。

それによると、彼らが3月19日に会場を訪れ、エントリーをしたその時はさして興味を惹かれる事は無かったのだが、いざコースに出ると、果てしない可能性を感じさせるプレーと綺麗なフォームから周囲の注目を集め、観戦したマッカーシーも『この二人がゴルフ界のスターへの道に向かっている事を一目で解した』と記しており。
たまたまトーナメントの観戦をしていた著名な作家ジョージ・エイド(コラムや寓話を得意とした人物で、当時はゴルフに熱中しオーナーである倶楽部でのトーナメントの企画もしていた)も赤星兄弟のプレーに感銘を受けた事にも(と云っても『彼等もほかの面々と同じ事ができるだろう。彼等は観戦に耐えうるよ』と、プレーにはそこまでは驚かなかったのだという)記事の終盤で触れている。

マッカーシーの記事における赤星兄弟の経歴について、四郎はゴルフ歴3年、六郎は1年であったと書かれているが、六郎は高校時代にはゴルフを始めていたという話もあるので、どうなのかは不明だが、ここでは新聞記事を基に進めていく。
兄弟は会員であるシャクマックソンCCでピーターとパトリック“パット”のオハラ兄弟から習い、特にパットとは先生で在り友人でもある関係で、シーズンオフにはニューヨークのリッチモンド・カウンティCCで過ごしパットから更に教わっている。とある。
※『American Golfer』1922年2月12日号では“パット・オハラは来シーズンからリッチモンドCCで働くことになった”と報じられているが、同一俱楽部か?

従来の説ではボビー・クルックシャンクが倶楽部の所属で、六郎などは彼から教わった。とされていたが(前者が述べている)、クルックシャンクはこの年の4月に、前年移住した幼馴染のトミー・アーマーを追うようにアメリカに渡り、アマチュアでトーナメントに出ていたが途中でプロ転向をし、シャクマックソンに勤務するのは翌1922年からなので、まだ同地には居ない。つまりオハラ兄弟が四郎のアメリカでの先生であり六郎の初期の先生であったというわけだ。

因みにオハラ兄弟と云うのはアイルランド出身のプロで、当時ニューイングランド地区を代表するプレーヤーとして活動をしており、兄のピーターは1916年度フィラデルフィアOP2位T、21年ノース&サウスOP4位、弟のパットは1919年のアイリッシュPGA勝者で(1913-14二位)、アメリカではこの年のメトロポリタンOP2位とフィラデルフィアOP3位、翌22年にはノース&サウスOP勝者に成っており、アイルランドに帰国後1926年にPGA2位、翌年に2勝目を挙げている優れたプレーヤーであった。

なぜ彼らが遥々フロリダへ遠征したのかは新聞記事には書かれていないが、1921年版『Spalding Golf Guide』や『American Golfer』2月12日号にはパット・オハラが他のプロたち同様フロリダに訪れており、会場となるSt.オーガスチンGC で2月に4ラウンド72・73・72・70=287の5アンダーという好記録を出した事や、同月8日に1908年全米OP勝者フレディ・マクロードと組んで、マイク・ブレディ(全米OP2位二回、勝負強いゴルフで知られた)とジム・バーンズ相手のマッチを行っている記述(2&1で惜敗)や、ドナルド・クラークと組んでマクロード、トム・ムーア組とのマッチで73・70というプレーをして5&4勝利した記事があるので、
赤星兄弟は彼と一緒に冬季のバカンスで出かけていたか、オハラが東部に帰ってきた際乃至現地からの手紙で『3月に大会があるからおいでよ』と出場を勧めた可能性は大いにある。

そして会場のSt.オーガスチンGCは先述のフレディ・マクロードの冬季勤務地であったが、赤星兄弟は彼ともパット・オハラ同様仲良くなり、ゴルフ全般を徹底的に学ぼうとした兄弟は、マクロードからレッスンを取っての1時間の練習と、その後のプレーの他に、彼のアシスタントでクラブ職人のディック・ビーティの下でクラブの修理製作の手伝いをする事にしたのだ。

記事によると、几帳面かつ熱心でユーモラスなスコットランド人のビーティは普段こういった提案を断る事は無いが、日本人青年らが『クラブ造りを教えて呉れ』と云った際に冗談だと思って、衝動的にニブリックを掴んで追い払ってから
『ついに俺の所にも黄禍がやって来たのか』
と考えてしまうも、すぐに彼ら兄弟“特にいつもにこやかな四郎が真剣に取り組んでいる様子を見て”の熱意に感化され。間もなくショップでの作業を手伝わせるようになり、赤星兄弟は修理やグリップ巻き、シャフト削りなどで忙しく立ち回っていた旨が書かれているが、
この作業について、おそらく試合の前や後に作業場に行って、仕事の手伝いや前話で触れたドライバー造りを教わっていたのだろうが、手をケガしなくて本当に良かった。と筆者は云いたい。
(というのも作業工程にはシャフトを削るカンナを始め、ウッドのソールにエッヂガードをはめ込むスリットや鉛を流し込むバックフェース溝の形成にはノミを使うし、溶かした鉛を流し込むのには注意を要さねばならなかった‼)

記事の末尾には、“四郎は6月に日本に戻るが、『再訪米の際はゴルフチームを連れて対抗戦をしたい』と語り、六郎は卒業までプリンストンに在籍するのでその間にゴルフの腕前も上げ、活躍することを望む。”と書かれており。前者は実現をしなかったが、後者は1924年4月のパインハーストの春季選手権でそれが現実に成っている。

海外の新聞記事を観ていると、第一次大戦が終わったのを待っていたかのようにアジア人及び日本人のゴルフが注目され始め、1920年には1912年ストックホルムオリンピック日本代表であった三島弥彦が英国のノースフォーランドC(現ノースフォーランドGC?)で行われた“平和”カップと云うチョッとした規模の競技(ヘーグ元帥夫妻も参加したという)に出場して準決勝で惜敗し、日本でも英字新聞の『The Japan Advertiser』で報じられている。

来日プロのトム・ニコルも(当時米領の)フィリピンに戻った際に日本人のゴルフのポテンシャルや在比邦人・華僑ゴルファーについて新聞で語り。
赤星の奮戦の頃、ハワイで中国系のチャーリー・チャンが競技で活躍し始め(後にハワイアンAmを獲りプロに転向、1929年ハワイアンOPでは宮本・安田両プロと同じフィールドにいた)、1922,25年には与り知らぬところでヘーゲン、カークウッドや英国のプロ達が日本を含めた極東オセアニアツアーを計画する話が出てきたり、
1922年の川崎肇のアメリカ訪問と選手権に参加予定を断念した話や、摂政宮(昭和天皇)と英皇太子(エドワード八世)とのロイヤルマッチは開催の前から報じられ、その後も色々触れられているのだ。

この1921年のSt.オーガチンでの競技を筆頭に、1924年のパインハーストに於ける赤星六郎の春季大会挑戦以前にも日本人のゴルフが注目されて居た事は、正史の裏側に隠れていたとしても、世界と日本のゴルフが繋がっていた証として記さなければ成らない。

                               ―了―
                           2022年9月29日記
                           2023年2月26日修正

 

主な参考資料
・New York tribune
1921年3月22日付P12 『Vermont Golfer Leads In Florida Tourney』
1921年3月24日付P14 『Japanese Brothers Defert Calver Boys At Golf in Florida』及び『Third Medalist Beaten in Match At St. Augustine Morse, Favorite for Florida Golf Title, Easy Victim in Second Round』
1921年3月25日付P14  Ray McCarthy筆 『Hopkins Meets James To-day For Golf Tile of Florida Chicagoan and His Rival Victims in Semi-Final Round by Sam Score』
1921年3月26日付P11  Ray McCarthy筆 『Washington Golfer Leads by 7Up for Florida Titles; Jap Star Wins』
1921年3月27日付P?21  Ray McCarthy筆 『Tow Japanese Brothers Loom As Golf Stars Princeton Pair Regarded as Coming Championship on From in Florida Tourney』
・New York Herald 
1921年3月22日付P14 『George Morse’s 84 Best Medal Score Ekwanok Golfer Takes Prize in Qualifying Round at St. Augustine.』 
・Grand Forks Herald
1920 年9月29日付image8 『Plan Golf Organization』
以上アメリカ議会図書館ホームページ、Chronicling America Historic American News Papersより閲覧

New Zealand Herald
1922年6月24日付P22『Golf in Japan』
1922年4月22日付P9『World‘s Golf Tour』
・Auckland Star
1922年2月10日付P5 『Princes of East And West』
以上ニュージーランド国立図書館デジタル資料検索システムPapers Pastより閲覧

・Observer 
1921年12月17日付P31『Golf.』より Hazard筆 『Municipal Golf.』
以上オーストラリア国立図書館デジタル資料検索システムTROVEより閲覧

・The Japan Advertiser
1920年9月12日付14面 Sports The World Over. より
『A Japanese Golfer’s Success In London- Mr. Mishima in Semi-Final of the Great Peace Tournament. –』
以上国立国会図書館にて閲覧

・『American Golfer
1921年2月12日号『Late News From Resort Links』
1921年4月9日号『Mrs. Hurd Retains Title』
以上LA84Foundationホームページ Digital Library Collectionsより閲覧

・『1921 Spalding Golf Guide』
・『1925  Spalding Golf Guide』
以上JGA旧本部資料室にて閲覧

 

 

 

 

 

 

 

(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)