ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・17

 

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関西のゴルフは神戸で始まり、第一次大戦後から大阪でも火が付きだしていたが、1924年頃には古都京都でもゴルフの火が廻って来た。これは大阪の実業家らによって茨木CCを造る機運が出たのに触発されての事で、当初は室内練習場で福井覚治や研修中の宮本留吉が曜日を決めてレッスンに来ていたが、やはり自前のコースを求める声があがり、翌年1月
大谷光明・尊由兄弟をトップに京都CCが設立、ほぼ同時に用地も用意しており、光明と関東大震災後京都に定住していた元駒澤雀の中上川勇五郎らによって山科盆地の中央部、山科村東野に購入した竹林と雑木林、水田のある里山に6ホールのコースが造られ(後に9ホールに増設)、翌年1926年6月1日に大谷尊由の始球式で開場された。

中上川がコースが完成する前の『Golf Dom』1925年8月号に寄稿した文では
『山科にゴルフリンクスが出来るのが“おそかりし”でと一番残念がる人は大石良雄でしょう。今頃地下で悔やんで曰く“あの山科閑居の折、近所にゴルフリンクスがあったら随分と朝夕と練習も出来て老いたりといえどやつがれのドライブも林さん位は延びたであろう………。
”ついご近所の御坊に居られたチャンピオン大谷さんのご先祖をつかまえてよい‘鴨’にしたものを………。
“連日連夜祇園一力のかくれんぼよりも、七段目は’山科ゴルフ場‘にしたかった………。(現代仮名・漢字及び英文訳』
忠臣蔵と大谷光明が西本願寺門主の家の出である事を引き合いに駄句っているが
(注=大石内蔵助の頃だと、ご先祖とは十五世宗主となる住如上人こと大谷光澄だろうか)

場所柄“山科”と呼ばれたこのコースは、少し後に9ホールに増設され、短く狭いが風景の良い土地に造られたコース、そして“ナルどん”で知られた関西の名手成宮喜兵衛(日本Am二勝)を生んだ地として知られた。
成宮曰く、距離の有るパー3が多かった事が(ロングアイアンの名手で知られた)自身の技術を鍛えたといい、同じようにショートコース出身で大成した戸田藤一郎と自身の経験を引き合いに、1935年に『Golf(目黒書店)』で短いコースの有用性を記している。

あと、注目すべきは創立会員の一人に摂津茂和の兄で、京都に養子に行っていた岩室憲六郎が居た事だ。彼は倶楽部創立前後に遊びに来ていた摂津に、『練習場が出来たから行ってみよう』と誘っており。英国でゴルフを知ったが日本ではプレーの機会が得られなかった摂津が再びゴルフに触れる事に成り、以降時々兄の許を訪れた際にゴルフに触れていたらしく(摂津は文筆家に成る前と本格的にプレーを始める前の情報が殆ど出てこないのだ!)、後年雑誌のインタビューでも、当時中々プレーが出来ない時期に、京都に行った際には憂さを晴らせた事をうかがわせる話を述べている。

なお、所属プロは開場3~4ヶ月後の頃、程ヶ谷CCを退職し京城GCへ出張していた六甲出身の中上数一が着任し3年程在籍していた。中上が去った後に舞子出身で廣野GCのプロとなる柏木健一が出張していたそうで、1932年頃には宮本留吉の一番弟子の巽実が所属し、その後彼の下に生え抜きの萩原泉次郎、増田延次郎が就いて居た。

成宮だけでなく関西を代表するプレーヤーを輩出・在籍しており、1936年10月末日には日本OP・プロに参加した関東のトッププロ7名を招いてレッスンとエキシビション競技が行われても居るが、太平洋戦争の戦局悪化により1944年11月に閉鎖となり倶楽部も解散した。

京都のゴルファーの憩い位の場であった山科だが、問題が一つあった。コース敷地西側に壁を隔て京都刑務所の仮収容所(コース開場半年後に京都刑務所が移転)が隣り合っていたのだ。
柏木健一によると練習・レッスンの場として使われても居た3番ホールではスライスを打つと刑務所の壁を越えて敷地にボールが入ってしまう事があったと云うが、問題はそこではなく、受刑者たちが野外作業をしている際にその傍でゴルフをしている状況がある。という点であった。

自らが招いた事とは言え、法によって行動を制限されている者達を尻目に自由にレクリエーションを愉しむ。という事は倶楽部の会長で宗教家でもある大谷尊由にとって気がかりで有った様で。ある時彼は刑務所を訪れ、所長に
『刑に服している人たちにゴルファー達が愉しんでいるのを見せつけてしまっている事について、誠にお気の毒であります』
と伝える事があった。
すると所長さん曰く、『その後懸念には及びません』との返答。
『それはまた何故でしょう?』と訊いてみると
『受刑者たちは“良い歳した連中が何が面白くて、ご苦労様にも一日中歩き廻ってんだろう”とかえって冷笑しているのです』と説明を受けた。

ゴルフの知識がなければ、だだっ広い土地を、靴下止めの付いた半ズボンを履いたオッサン・爺さんらが、アチコチ歩き廻って棒を振り回しては一喜一憂しているのだから『何やってんだか』と馬鹿らしく見えるのは至当なのかもしれない。
これもゴルフが一般に縁のないスポーツであった時代のこぼれ話だろう。

 

 


主な参考資料
日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂 1995(復刻第二版)
神戸ゴルフ倶楽部史 神戸ゴルフ倶楽部1965
神戸ゴルフ倶楽部100年の歩み 神戸ゴルフ倶楽部2003
茨木カンツリー倶楽部十周年記念誌 茨木カンツリー倶楽部 1934 
茨木カンツリー倶楽部40年史 茨木カンツリー倶楽部 1964
鳴尾ゴルフ倶楽部五十年史 鳴尾ゴルフ倶楽部 1970
Naruo Spirit    鳴尾ゴルフ倶楽部 2021
Tarumi Golf Club 100th Anniversary倶楽部の歩みと記録 垂水ゴルフ倶楽部 2020
霧の中のささやき 編著・棚田眞輔、編集・神吉賢一、監修・松村好浩 交友プランニングセンター 1990
新版日本ゴルフ60年史 摂津茂和 ベースボールマガジン社 1979
日本ゴルフ全集7人物評伝 井上勝純 三集出版 1991
私とゴルフと中国(上)鳴尾物語 上西荘三郎 1996
人間グリーンⅠ 光風社書店 1977
・大阪毎日新聞1927年9月8日~10月2日 ゴルフの人々
9月20日『村田省蔵氏』
10月2日『むすびの巻』
・『阪神ゴルフ』
1922年4~6月号 福井覚治『キャデーよりプロへ(1~3)』
・『Golf Dom』
1922年12月号『Nineteenth Hole』
1923年1月号『Nineteenth Hole』
1923年3月号『Nineteenth Hole』
1923年7~8月号So This is Golf!(1)~(2)
1923年4月号P24-25『舞子便り』
1924年9月号『鳴尾通信』より『18 hole Links開き』及び『19th Hole』
1923年8月号『ムーンライトゴルフ』
1925年2月号P26-27『舞子通信』
1925年4月号『19Th Hole』
1926年6月号『關東對關西レデース競技』及び、舞子の一人『駒澤所感』
1926年9月号『19Th Hole』
1927年4月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々』
1928年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(8)』
1929年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(14)』
1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
1930年3月号 福井覚治『始めを語る』
1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
1932年3月号 C. I. 生(伊藤長蔵)『彼れ氏のパター』
1940年5月号 丘人(伊藤長蔵)『宮本の修業時代(中)』
・『Golf(目黒書店)』
1932年9月号 大谷光明 『ベランダにて』
1933年2月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(二)六甲から駒澤へ』
1933年6月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(五)六甲はパットが苦手』
・『Nippon Golfer』1936年4月号 『七周忌に當り未亡人に聴く 我が國最初のプロ故福井覺次氏 個人とその周辺の人々』ほか
・『Golfing』 1937年2月号 『オールド・タイマア座談会ゴルフの今昔を語る』
・『ゴルフマガジン』
1970年7月号 『プロゴルファーの生活と意見 関西レッスン・プロの大長老 福井正一』
1975年3~4,6月号 柴田敏郎『日本プロゴルファー人脈探訪①~②,④』
・『アサヒゴルフ』
1978年8月号 宮本留吉『ゴルフ夜話73 サンド・グリーンの郷愁』
1981年4月号 宮本留吉『ゴルフ夜話 英国遠征の折、初めてネーム入りのセットクラブを注文』
・『ゴルフマネジメント』年月号 井上勝純『ゴルフ倶楽部を考える 第51回 大谷尊由の始球式で京都CC山科コース開場』
・『歴史と神戸』1970年3月号 芦田章『神戸奇人伝(1)へちまくらぶの名物男 西村貫一』 神戸史学会
資料はJGA旧本部資料室及び同ミュージアム国立国会図書館所蔵及び筆者蔵書より閲覧

 

 

 

 


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)