ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・11

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六甲の神戸GCでは1933年までサンドグリーンが使われていた。
このサンドグリーンとは『水はけ等を考慮した砂地のグリーン』ではなく、土の土台に砂を撒いてローラーを掛けて固め、更にホール回りに細かい砂を掛けるという。良い芝が得られなかった初期の新世界のゴルフ場で(経費も安く上がる事もあり)採用されていた工法のモノであった。
しかも六甲の物はスープ皿の様にフチが付いていて、余分な砂の貯蔵と排水を兼ねた浅い溝がぐるりと囲んでいるという形状で、斜面を崩して造っているものが多い為、禿山に芝草と笹だけ生えている様な初期のコース写真を見ると、白い大きなバンカーに向かって打っている様な風景と成っている。
その為六甲のキャディ達はグリーンにボールが届いたら『乗った』ではなく『入った』と述べていた

サンドグリーンと云うのは土台が硬い為ダイレクトに落とすとボールが弾き飛ばされる事が多いようで、若き日のジーン・サラゼンが失敗したり、St.アンドリュースからメキシコの高地まであらゆるタイプのグリーンで良いパットをした全米OP勝者ウィリー・スミスが1901年にUSGA機関誌でもあった月刊誌『Golf』3月号で攻略法を語った所によると『一番良いアプローチの仕方はショートピッチ、ロングロールである』との事だが、六甲の場合は更に毛色が違ったらしい。

カーヌスティ出身の名手A.T“タイニー”・ホワイトは、このグリーンを含めて六甲のコースをヴァードン、ブレード、テイラーら三巨人がプレーしたらどうなるか?という問いに『多分一週間でアタマが爆ぜる』と称し、上海の名手バレット大尉(1916年日本Am勝者)は『砕石舗装の地獄の産物』とまで言い切り、“六甲のヌシ”H.E・ドーントまで東洋で一番良いとされた駒澤のグリーンを六甲と比べて『これぞ本当のグリーンであって、砕石舗装の地獄の産物ではないのだ‼』とバレット大尉の言葉を引き合いに出し、1920年初頭のゴルフ界を席巻したロングヒッターC.G・オズボーンも日本を去る前に寄稿した日本ゴルフ評で『運とビリヤードのコース』としているのはいかなる事か? 

というのも、そう評されてしまう大きな理由があった。
六甲山上にコースが在る為、風などの天候によって砂が偏ったり無くなったりしてグリーンが非常に速くなり、更にここでゴルフを覚えた宮本留吉曰く、もカップのフチは表面ギリギリのところに在るので、中央から入れるパットをしなければ成らなかったというのだから可也の難物であり、六甲での日本アマチュアに日本人として初めて勝った(1922)大谷光明は、1933年に雑誌『Golf』6月号で同地のグリーンについて回想しているが、
『草の上で練習した者には言語道断の難しさです』
と断じ、続けて
『3パットどころか(表面の)砂の無い時は10パットなんて記録も有る。舗装道路の上でパットするような物で、1尺のパットも駒澤の5尺位の慎重さが必要で、七寸のパットも幾度外したか知れません』
と振り返り、強風時に打った所に戻って来る珍現象もあり、その為プレーヤーは打つと同時に駆け寄っていき、止まったらすぐ打つような事もあった。と紹介している。

この大谷の言から可也の難物であったようで、生え抜きの宮本もちょっと下りの50㎝のパットも入らなければ3~4mは転がる。と振り返り、リアルタイムではN氏(第一銀行役員の野口彌三)の24パットと云う記録が『Golf Dom』1926年8月号で報じられているが、彼の頭は爆ぜたのか。それとも“こんなことはないぞ”と笑っていられたか。

そんなゴルファーを苦しめていたサンドグリーンであるが、宮本は『サンドグリーンはパッティングが上手くなる』と六甲の起伏と傾斜がアプローチ技術をもたらした事共々、数度回想している。
ただ、六甲以外の国内コースのサンドグリーンの難易度についての記述が非常に少ない事が気に成るが…六甲山上という特殊な環境も相まってその難易度になったのか?

※神戸GCは当時を偲んでサンドグリーンを造る計画を立てられ、2020年4月に六畳ほどの広さで土台にコンクリートを使い、植木鉢をカップとしたものを練習グリーン側に完成された。
2020年11月の日本ヒッコリーOPの際に、参加した筆者も同グリーンでパットをしてみたが、砂の厚ぼったい所はバンカーの様であったが、薄い所では、現在のグリーンより良くパットが入り(2018~19年大会の行われた芽吹き時と違いグリーンがとても速くなっていた)、当時の支配人池戸氏に感心されたが、砂が無くなり土台が出てきている個所では1mほどのパットが土台から顔を見せていた小砂利の粒に蹴られて外れてしまったのには頭を抱えた。

 

 

 

主な参考資料
日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂 1995(復刻第二版)
神戸ゴルフ倶楽部史 神戸ゴルフ倶楽部1965
神戸ゴルフ倶楽部100年の歩み 神戸ゴルフ倶楽部2003
茨木カンツリー倶楽部十周年記念誌 茨木カンツリー倶楽部 1934 
茨木カンツリー倶楽部40年史 茨木カンツリー倶楽部 1964
鳴尾ゴルフ倶楽部五十年史 鳴尾ゴルフ倶楽部 1970
Naruo Spirit    鳴尾ゴルフ倶楽部 2021
Tarumi Golf Club 100th Anniversary倶楽部の歩みと記録 垂水ゴルフ倶楽部 2020
霧の中のささやき 編著・棚田眞輔、編集・神吉賢一、監修・松村好浩 交友プランニングセンター 1990
日本ゴルフ全集7人物評伝 井上勝純 三集出版 1991
私とゴルフと中国(上)鳴尾物語 上西荘三郎 1996
人間グリーンⅠ 光風社書店 1977
・大阪毎日新聞1927年9月8日~10月2日 ゴルフの人々
9月20日『村田省蔵氏』
10月2日『むすびの巻』
・『阪神ゴルフ』
1922年4~6月号 福井覚治『キャデーよりプロへ(1~3)』
・『Golf Dom』
1922年12月号『Nineteenth Hole』
1923年1月号『Nineteenth Hole』
1923年3月号『Nineteenth Hole』
1923年7~8月号So This is Golf!(1)~(2)
1923年4月号P24-25『舞子便り』
1924年9月号『鳴尾通信』より『18 hole Links開き』
1923年8月号『ムーンライトゴルフ』
1925年2月号P26-27『舞子通信』
1926年6月号『關東對關西レデース競技』及び、舞子の一人『駒澤所感』
1927年4月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々』
1928年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(8)』
1929年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(14)』
1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
1930年3月号 福井覚治『始めを語る』
1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
1932年3月号 C. I. 生(伊藤長蔵)『彼れ氏のパター』
1940年5月号 丘人(伊藤長蔵)『宮本の修業時代(中)』
・『Golf(目黒書店)』
1932年9月号 大谷光明 『ベランダにて』
1933年2月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(二)六甲から駒澤へ』
1933年6月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(五)六甲はパットが苦手』
・『Golfing』 1937年2月号 『オールド・タイマア座談会ゴルフの今昔を語る』
・『ゴルフマガジン』
1970年7月号 『プロゴルファーの生活と意見 関西レッスン・プロの大長老 福井正一』
1975年3~4,6月号 柴田敏郎『日本プロゴルファー人脈探訪①~②,④』
・『アサヒゴルフ』
1978年8月号 宮本留吉『ゴルフ夜話73 サンド・グリーンの郷愁』
1981年4月号 宮本留吉『ゴルフ夜話 英国遠征の折、初めてネーム入りのセットクラブを注文』
・『歴史と神戸』1970年3月号 芦田章『神戸奇人伝(1)へちまくらぶの名物男 西村貫一』 神戸史学会
資料はJGA旧本部資料室及び同ミュージアム国立国会図書館所蔵及び筆者蔵書より閲覧

 

 

 

 

 

 

 


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)