ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・14

                14
St.アンドリュースでプレーをした最初期の邦人ゴルファーである久保正助(神戸ガス重役)は、関西の邦人ゴルファーとしてもパイオニアで、鳴尾GAが出来た頃、発起人の一人である安部成嘉の勧めでゴルフを始めた人物であった。
その際の事として、秋の良く晴れた日に福井覚治のレッスンを受け、安部から借りたアイアンクラブでボールを打っていたが、二三発目に150yd程のショットが出て『こんな心地よく面白い物はないぞ』と熱心者と化した事を1923年に『Golf Dom』のアンケートで振り返っている。

教えた福井も1922年に『Golf Dom』の前身『阪神ゴルフ』に寄稿した回想記で、久保ら鳴尾GAの邦人ゴルファー一期生に同地の4番ティでレッスンをした話を挙げているが、曰く、教えようにも上手い言葉が見つからず言語障害を負った様で、自分をモデルにこうしてみたらどうか、ああしてみたらどうか。という事しか出来ない中。久保がマッシーで突然30~40yd飛ばしたときに嬉しくなって思わず『それです!それです!』と叫んだ。と記しているが、どちらが正しいのか!?
以前筆者が書いた『ゴルファーのプライド二態』で挙げた、久保が天津のショップで良いウッドを求めていた際に、『クラブより腕だよ、貴方のハンディは?』と問うたハンディ6の番頭に対し、舞子でのハンディが7の為かとっさにショートコースである横屋でのハンディ3を答えた位なのだから、彼には見栄坊の気が在ったのやもしれない。

この鳴尾GA時代の久保は熱心さからトンでもない事もしている。
先覚者の伊地知虎彦が同地でプレーした時の事。あるホールで基準打数のボギーで上がると、キャディが『やった、やった』と喜んでいる。自分の事の様に喜んでいるので感心だなと思うも、何か様子がおかしい
『おいおい、お前は何でそんなに我が事のように喜んでくれて居るんだい?』
『はい!だってボギーが出ると五銭貰えるんやもの、旦那さん下さいな♪』
『⁉、そんな決まりはないぞ』
『でも貰っとる子がいるんよ…』
『誰がそんなことをしてるんだ?』
『久保さんがボギーを出すとキャディしてる子に必ず五銭くれるんや』
『それは毎回か?』
『うん、毎回』
『………』
何でも久保はボギーが出せる嬉しさから、出すたびにキャディにチップとして五銭を上げていたのだ。と伊地知の東京GCの仲間である川崎肇が彼から聞いた話として1930年2月のパイオニア座談会で語っている。

この話は久保が巧く成ろうと奮闘していた1910年代半ばの事だろうが、当時演歌師がバイオリンを弾き弾き唄っていた流行り唄にも、大きな銅貨である二銭玉を思わず拾ってしまうハイカラ紳士が出てくる歌詞が有るような時代で、同時期に東京GCでキャディをしていた後のプロ安田幸吉は回想記でキャディフィの十銭(二回目の9H分でチケット払い)を大変なお小遣いだったと語っている。
その半分の五銭というと白銅で造られ、今の300~400円位の価値があり、素うどんやかけ蕎麦が食べられたのだ。
当時の鳴尾はチケット制の東京GCと違い現金払いであったというが、久保の行為が『キャディの風紀を乱す』として他の会員達からとっちめられたか否か、また当時の久保がボギーを出す頻度が悪影響を及ぼしてしまう程だったのか?

西村コレクションとして残っている1916年3月11日とみられるハンディ26時代の久保のスコアカードを観ると、ボギーが4つにバーディを1つの45を出しているが、2回目の9ホールでは出だしの2ホールでボギーとバーディを出すも、後は6から8の数字ばかりの55であったので、そこまで影響がなかったか。と考えたが、同年10月16日付の会員表では手書きでハンディが16から14、9?にしようとしての10。という数字が段階的に記されているので、この問題は案外早めに終わっているかもしれない。

 

 

 

主な参考資料
日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂 1995(復刻第二版)
神戸ゴルフ倶楽部史 神戸ゴルフ倶楽部1965
神戸ゴルフ倶楽部100年の歩み 神戸ゴルフ倶楽部2003
茨木カンツリー倶楽部十周年記念誌 茨木カンツリー倶楽部 1934 
茨木カンツリー倶楽部40年史 茨木カンツリー倶楽部 1964
鳴尾ゴルフ倶楽部五十年史 鳴尾ゴルフ倶楽部 1970
Naruo Spirit    鳴尾ゴルフ倶楽部 2021
Tarumi Golf Club 100th Anniversary倶楽部の歩みと記録 垂水ゴルフ倶楽部 2020
霧の中のささやき 編著・棚田眞輔、編集・神吉賢一、監修・松村好浩 交友プランニングセンター 1990
日本ゴルフ全集7人物評伝 井上勝純 三集出版 1991
私とゴルフと中国(上)鳴尾物語 上西荘三郎 1996
人間グリーンⅠ 光風社書店 1977
・大阪毎日新聞1927年9月8日~10月2日 ゴルフの人々
9月20日『村田省蔵氏』
10月2日『むすびの巻』
・『阪神ゴルフ』
1922年4~6月号 福井覚治『キャデーよりプロへ(1~3)』
・『Golf Dom』
1922年12月号『Nineteenth Hole』
1923年1月号『Nineteenth Hole』
1923年3月号『Nineteenth Hole』
1923年7~8月号So This is Golf!(1)~(2)
1923年4月号P24-25『舞子便り』
1924年9月号『鳴尾通信』より『18 hole Links開き』
1923年8月号『ムーンライトゴルフ』
1925年2月号P26-27『舞子通信』
1926年6月号『關東對關西レデース競技』及び、舞子の一人『駒澤所感』
1927年4月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々』
1928年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(8)』
1929年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(14)』
1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
1930年3月号 福井覚治『始めを語る』
1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
1932年3月号 C. I. 生(伊藤長蔵)『彼れ氏のパター』
1940年5月号 丘人(伊藤長蔵)『宮本の修業時代(中)』
・『Golf(目黒書店)』
1932年9月号 大谷光明 『ベランダにて』
1933年2月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(二)六甲から駒澤へ』
1933年6月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(五)六甲はパットが苦手』
・『Golfing』 1937年2月号 『オールド・タイマア座談会ゴルフの今昔を語る』
・『ゴルフマガジン』
1970年7月号 『プロゴルファーの生活と意見 関西レッスン・プロの大長老 福井正一』
1975年3~4,6月号 柴田敏郎『日本プロゴルファー人脈探訪①~②,④』
・『アサヒゴルフ』
1978年8月号 宮本留吉『ゴルフ夜話73 サンド・グリーンの郷愁』
1981年4月号 宮本留吉『ゴルフ夜話 英国遠征の折、初めてネーム入りのセットクラブを注文』
・『歴史と神戸』1970年3月号 芦田章『神戸奇人伝(1)へちまくらぶの名物男 西村貫一』 神戸史学会
資料はJGA旧本部資料室及び同ミュージアム国立国会図書館所蔵及び筆者蔵書より閲覧

 

 

 

 

 

 

 


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)