ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

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掘っくり返し屋のノート『デヴィッド・フードの補足』・5

『5:第一次大戦前後のデヴィッド・フードの動静とフィリピンへの旅立ち』

1914年に勃発した第一次大戦の影響でニュージーランドでも翌15年から選手権が中止に成ったが、それはオーストラリアよりも一年遅く、赤十字エキシビションなどは英米同様行われていた様で、デヴィッド・フードもこの年の7月と9月に行われた赤十字のフォアサム競技に出場し両方で勝った記録や、1916年に増築改修に関わったニューブライトンGCでレコードを出した記事が残っているが、1917~19年間の彼の記録が出てこない。(兄のフレッドも戦時中に一度プロを廃業したそうで1918年8月には予備役兵に就いた記事がある)
デヴィッド本人が1926年に離日する際『Golf Dom』に掲載された『Some Remarks on Japanese Golf』の中で今までに廻った国や地域を挙げているが、その中の二か国、南アフリカとフランスはこの間に軍務等で出征していたのかもしれない(特にフランス‼)。

終戦ニュージーランドではオーストラリアよりも早い1919年にオープン及びプロ選手権が復活しているが、この時の参加記録は無く、翌20年9月に北島の街ネイピア(ネイピアGC?)からニュージーランドOP及び公式第一回ニュージーランドプロ選手権に参加している。(前者8位タイ、後者一回戦棄権)
このネイピア時代には同地のD.S・レイン&サンズというエージェント及び販売業者のプロデュースをしている会社と契約をしていた模様だ。

アーチ-・ベアード氏の調査では、デヴィッド・フードは1920年にフィリピンに渡り、その直後にマニラGC(現マニラG&CC)で66のレコードを出した。と書かれ、オーストラリアの新聞『Referee』1923年11月14日付のデヴィッドに関する記事では『三年前にマニラGCの教師としてマニラ島へ渡った』と紹介されている。
が、先のニュージーランドOP及びプロ選手権の記録が在る事と、同国の新聞『Manawatu Times』1921年10月21日付の記事では、これ迄の契約相手と解約し、アメリカ政府が関わっているマニラGCと契約した旨が報じられ、『Poverty Bay Herald 』1921年10月27日付にも同じ内容とともに『先週ヘイスティング(注=ネイピアの南に在る街)を離れフィリピンへと向かった』事が加筆されている。

第一話でフード家について引用した『Referee』1921年11月9日付の記事の題名は『HOOD FOR PHILIPPINES.』というモノで、その冒頭はデヴィッドがフィリピンに行く途中オーストラリア(シドニー)にやってきた。と在り、かなりの好待遇かつ高賃金でマニラGCと契約している事について記者に“喜ばしい”と書かれ、それはデヴィッドを雇うために倶楽部が三回目の交渉で用意したポジションである旨が記されている。

以前、彼についての書き物で記した、この年の10月にシドニーのコースでポップルウェル某(最初期からのプロで1925・28年オーストラリアOP勝者のフレッド・ポップルウェルかその兄弟か)と組んだフォアサムで雨中パー5の二打目にブラッシーショットをした際にクラブがすっぽ抜けて120~130yd彼方まで飛んで行った話(最初の来日の際横屋のコースからの帰りにゴルファー一同に話し『Golf Dom』に紹介された)は、この立ち寄りの際の出来事ではなかろうか。
また、マニラGCへはSt.アンドリュース出身の来日プロ、トム・ニコルの後釜として来たと視て間違いない。
※デヴィッドがシドニーに立ち寄った際に、彼はニコルが書いたサンドグリーンの造り方の記事を読んでいた事と、ニコルがシドニーに来ていないか新聞記者に尋ねていた話も11月30日付の『Referee』にある。

フィリピンのゴルフは古く、スペイン領時代の1886年にマニラ鉄道社の英国人作業員が行っていたのが始まりで、米領に成った1901年から本格的に始動し同年マニラGCが9ホールでスタート。以降各地でゴルフコースが造られ(米軍関係のモノが幾つもあった)デヴィッドが来比した時にはフィリピンには13のコースが在ったといい、競技についても1913年から後年アジアの主要競技と成るフィリピンオープン選手権(現地人を母に持つ当時キャディのラリー・モンテスが優勝する1929年迄白人による実質的アマチュア選手権ではあったが)が始まっている。

新しい仕事場のマニラGCはフィリピンで一番古い倶楽部なのだが、現地刊行物以外の記述が少なく、筆者は倶楽部史『The Manila Golf & Country Club.-A History of the Oldest Golf Club in Metro Manila.』の入手閲覧の機会に恵まれず(数年前神保町のキリスト教系書籍を扱う書店で取り扱われていたが逃してしまった!)、倶楽部ホームページの歴史の記述を確認するも、簡単な記述しかない為、『The American Golfer』や『Golf Illustrated』のゴルフ雑誌、アメリカ、ニュージーランド、オーストラリアの新聞記事から調べてみたが、誤りがあるやもしれない事を前もってご容赦頂きたい。

この頃のマニラGCはマニラ市内から少し離れたカローカンにあり、1917年時には沢山のバンカーとハザードの有る5200ydパー69のコースで、『マニラから数マイルの場所だが多くの会員を有している充分過ぎるゴルフ倶楽部』と『The American Golfer』4月号に記されており、デヴィッド来比の1921年には自然のハザードがある6000ydの広く緩やかな起伏のフェアウェイとグラスグリーンのコースと成っているが(『Golf Illustrated』3月号)、同じカローカンに新設の市営コース(市当局がこの年運営費の捻出法を変えた際の記事には “数年間維持管理に当たっている”とある)は国内外の記事を合わせて鑑みると、ヤーデージやパー数からそれまでのマニラGCのコースであった様で、前者は移転をしていたと見受けられる。
当時の市営コースは城塞都市時代の城壁(大砲も残っていたという!)に沿う形でジグザグに18ホールのコースが造られており、マニラを訪れた旅行者や、先任者のトム・ニコルの生徒など多国籍のゴルファーがプレーしていた。
デヴィッドはここでも教えていたらしいのだが、マニラGCと市営コースが混同している様な記述や記録(1921年11月30日付の『Referee』や12月24日付の『Weekly Times』らオーストラリアの新聞には、市営コースがマニラ唯一のコースとあり。『Weekly~』にはデヴィッドはそこと契約している。と記述)が在るので筆者もよく判らなく成っている。

デヴィッド・フードの先任者のトム・ニコルについても触れておかねばならない。彼はSt.アンドリュース出身の移民プロで、1900年代にアメリカのカリフォルニアに渡り、同地のゴルフ黎明期のプロとして州内のゴルフコースの設計・改修をいくつか手掛け、その内の一つサンホセGCに所属していた。
1917年に米領であったフィリピンへ渡り、マニラGCのプロとして活動をしていた際に現地勤務の邦人ゴルファー達から日本のゴルフ界の動静を聞き。1918年に神戸GCへ雨季に日本で働けないか打診をしたのを経て、三井物産マニラ支店社員である船津完一の斡旋で1920年に来日(この時は市営コースの管理者であると新聞に出てくる)。

その際は東京GCに短期所属し。安田幸吉にクラブ修理製作技術を教え、軽井沢GCのコース(現旧軽井沢GC敷地)を設計し、関西でも一週間ほどレッスンをして福井覚治に技術面で影響を与えて居る。
マニラへ帰国後間もなく古巣のカリフォルニアに戻るも、日本で働けないか度々『Golf Dom』の伊藤長蔵に打診をしている人物であるが、今回の書き物に当たり、アメリカ議会図書館やオーストラリア、ニュージーランド国立図書館ホームページに於ける新聞のデジタル検索でニコルが日本に行く前後から退職後までのマニラ時代の記述を幾ばくか見つけたが、それらを纏めてみると

マニラで十八ヶ国のゴルファーにレッスンをし『東洋ゴルフの父』と評されている彼は、日本滞在中に日本、中国、フィリピンのゴルフ界を纏めた極東ゴルフ協会発足の可能性と、翌年香港での試合を皮切りに日本・上海・マニラで開催の計画がある。とマニラGC会員に手紙で連絡をしている(実現せず)。
日本のゴルフ界の発展について語ったものでは、『彼ら日本人は柔術のトレーニングからゴルフに重要なスナップと瞬発力に優れている』という評価をしているのが面白い。

また、マニラでもハワイ同様在比邦人及び華僑のゴルフ熱も盛んになって優れたプレーヤーが居り、ニコルのお気に入りの生徒も中国・日本人女性の巧者・熱心者であったというから、デヴィッドはアメリカに戻る前のニコルと話をしたか、彼の教え子達との交流から日本のゴルフについて話を聞き興味を持ったのだろう。

以前の書き物でデヴィッド・フードが“熱帯のフィリピンと南半球のオーストラリアとの間を季節のずれによる各オフシーズンをうまく使って行き来していたようである。”と記したが、これらの記事からそれは間違っていた可能性が非常に高くなっている。
加えてベアード氏の述べたマニラGCでの66は『Golf Dom』の記事から以前の書き物で紹介した1923年の間違いではないか。と思うのだが如何なるものか。

これらフィリピン時代のデヴィッド・フードの新しい記録については残念ながら上記の他の史料を目に出来ないことも有り(恐らく現地の新聞『Manila Times』にもニコルやデヴィッド・フードに関する記事が多くあるはずだ)、現在は確認が出来ないでいる。
加えてアメリカ議会図書館の新聞検索をしても情報が中々出てこないが、新たな情報を発見次第補足したい。

                              ―続―

 


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)