ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・2

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神戸GCに於ける日本人で最初のプレーイングメンバーは六甲で初めて別荘を購入した邦人でもある貿易商の小倉庄太郎で、1905年乃至07年の事。後者の時は妹で名ピアニストと成る小倉末子もプレーしたという。
小倉が入会したのは親交のあった登山とゴルフの名手で『六甲のヌシ』と呼ばれるH.E・ドーントの影響だそうだが、そのドーントが1906年に英国の『The Badminton Magazine』に寄稿した所によると(6月号掲載、のち『INAKA第一巻』に転載、以下訳書『霧の中のささやき』より)
“日本人会員がちらほらいるが彼らは余りゴルフをしない”
と書かれているので、日本人会員はお義理や単純に余暇を六甲で過ごす為の社交倶楽部として入会していたのだろう。

その後も日本人ゴルファーのパイオニアであった林愛作(帝国ホテル初代支配人、東京GC創立に関わる)が1906年一時帰国の際と08年に帝国ホテルに就職してからプレーに訪れたり、松平慶民が1909年に英国留学から帰国した際に入会した位で(彼は『日本のゴルフ史』では1912年入会に成っているので、帰国翌年からの兵役で一時退会した模様)余り動きがなかった。

その為関西ゴルファーのパイオニアである銀行家の星野行則が1914年に入会を申し込んだ時には役員から
『そうはいってもMr.ホシノ、今まで貴方がた日本人は入会しても、此処がゴルフ倶楽部なのにプレーをしない者ばかりでした。なので我々としては貴方の入会を認め難いのです』
と言われてしまうが、まだゴルフをしたことのない星野は
『プレーの仕方を教えて呉れたらやるから入会させてくれ!』
と談判して入会が認められた。と1937年に関西GU発行の雑誌『Golfing』が企画したパイオニアの座談会(2月号掲載)で答えているが、そんな啖呵を切った彼がプレーを始めたのは二年後の1916年になってからであったという⁉

小倉兄妹、林、松平に続くゴルフがメインで六甲を訪れた邦人としては、星野が始める前の1915年8月に東京GCに入会間もない大谷光明(彼は青年時代、元日に六甲山を登った際に開場間もない神戸GCのクラブハウス脇でビバークしている)が来訪した際、日本Am翌日にプレーの許可をもらっている。
それにしても神戸GCが出来てから10年以上入る者の殆どがペーパー会員であったのはいかなる事か?
何しろ1915~17年頃大谷や川崎肇、南郷三郎らが神戸GCに来た時はそれを観た宮本留吉らキャディ達が『あれま、日本人もゴルフをやるんかいな!?』と感嘆の声を上げたという位だ。

ともあれ星野が入会した事から関西の財界人らがゴルフという新しいスポーツに興味を持つようになって来て、更に避暑とプレーの為に関東からやって来る駒澤雀らも加わり日本人による関西のゴルフが始動していく。

 

 

主な参考資料
日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂 1995(復刻第二版)
神戸ゴルフ倶楽部史 神戸ゴルフ倶楽部1965
神戸ゴルフ倶楽部100年の歩み 神戸ゴルフ倶楽部2003
茨木カンツリー倶楽部十周年記念誌 茨木カンツリー倶楽部 1934 
茨木カンツリー倶楽部40年史 茨木カンツリー倶楽部 1964
鳴尾ゴルフ倶楽部五十年史 鳴尾ゴルフ倶楽部 1970
Naruo Spirit    鳴尾ゴルフ倶楽部 2021
霧の中のささやき 編著・棚田眞輔、編集・神吉賢一、監修・松村好浩 交友プランニングセンター 1990
日本ゴルフ全集7人物評伝 井上勝純 三集出版 1991
私とゴルフと中国(上)鳴尾物語 上西荘三郎 1996
人間グリーンⅠ 光風社書店 1977
・大阪毎日新聞1927年9月8日~10月2日 ゴルフの人々
9月20日『村田省蔵氏』
10月2日『むすびの巻』
・『阪神ゴルフ』
1922年4~6月号 福井覚治『キャデーよりプロへ(1~3)』
・『Golf Dom』
1922年12月号『Nineteenth Hole』
1923年1月号『Nineteenth Hole』
1923年3月号『Nineteenth Hole』
1923年7~8月号So This is Golf!(1)~(2)
1926年6月号『關東對關西レデース競技』及び、舞子の一人『駒澤所感』
1927年4月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々』
1928年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(8)』
1929年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(14)』
1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
1930年3月号 福井覚治『始めを語る』
1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
1932年3月号 C. I. 生(伊藤長蔵)『彼れ氏のパター』
1940年5月号 丘人(伊藤長蔵)『宮本の修業時代(中)』
・『Golf(目黒書店)』
1932年9月号 大谷光明 『ベランダにて』
1933年2月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(二)六甲から駒澤へ』
1933年6月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(五)六甲はパットが苦手』
・『Golfing』 1937年2月号 『オールド・タイマア座談会ゴルフの今昔を語る』
・『ゴルフマガジン』
1970年7月号 『プロゴルファーの生活と意見 関西レッスン・プロの大長老 福井正一』
1975年3~4,6月号 柴田敏郎『日本プロゴルファー人脈探訪①~②,④』
・『アサヒゴルフ』
1978年8月号 宮本留吉『ゴルフ夜話73 サンド・グリーンの郷愁』
1981年4月号 宮本留吉『ゴルフ夜話 英国遠征の折、初めてネーム入りのセットクラブを注文』
・『歴史と神戸』1970年3月号 芦田章『神戸奇人伝(1)へちまくらぶの名物男 西村貫一』 神戸史学会
資料はJGA旧本部資料室及び同ミュージアム国立国会図書館所蔵及び筆者蔵書より閲覧

 


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)