ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・15

 

                 15
キャディ達のゴルフ遊びは、六甲のキャディたちが行っていたのが走りで、宮本留吉が育った麓の篠原村では村はずれの芝原に彼らがショートコースを作って、柴刈鎌の廃品を鍛冶屋でアイアンやパターにして貰いプレーをしていたというし、鳴尾ではコースと武庫川の間の草むらや松林、あるいは干上がった川床に小コースを造って手製クラブ(樫材の4-5分板のヘッドにグミの木の枝のシャフト製等)でパットやショットの練習やキャディ同士の試合をする者たちがおり、関西の名手森岡二郎などもその一人であったという。
横屋生え抜きの福井覚治も木の根っこを削って造ったクラブでゴルフを覚えた口で、その後に続く寺本善吉・金一従兄弟や戸田藤一郎、福井俊一(康雄)・正一兄弟(福井覚治の息子)と云ったキャディ達も一本のクラブを数人で使いまわしたり、漆喰払いという竹棹に棕櫚葉を取り付けた左官道具?を改造して造ったクラブを使いながらゴルフを覚えて行った。

舞子のキャディたちもコースが出来て2年半も経つ頃にはゴルフというゲームを理解してきて、他のコース同様ゴルフをする者達が現れ、曲がった木で造った手製クラブで12番ホールのグリーンに乗せる子も居たという。
12ホール時代のコースヤーデージは不明であるが、9ホールに短縮組み換えの際に9番になったというこのホールは1926年時に169ydなので、労働者ゴルファー時代の宮本留吉みたいな者が居たのだろう。

そんなある日のこと、ロンドン仕込みのゴルファーのH氏(1925年日本Am2位の平佐徹爾)、スタイルは悪くないのにボールにパワーがない。困っていたら彼に附いたキャディが『もうちょっと腰に力を入れてください』とアドヴァイスをしてきた、『そうかい?』と素直に試してみると効果覿面、以前の当りを取り戻した。
感心するHさん、よくよく思えば彼はT.T.K氏(九鬼隆輝子爵)の秘蔵キャディで滅多に他人に附かない。Kさんのスコアが良いのも彼のおかげやもしれない。と『Golf Dom』1923年3月号に書かれているが、このキャディというのは、会員達から『ケンタン』と呼ばれていた当時16歳の柏木健一。しかもこの時九鬼はゴルフを始めて1年半足らずであったが、5月には倶楽部の中堅として東京舞子対抗戦の代表に成って駒澤へ遠征をしている。

 柏木はスポーツ万能少年で、青年期に明石地区の運動会で皆がやりたがらない徒競走の各種目に連続して出て全て一位に成った事もあるというが、九鬼らの勧めでヘッドプロの福井覚治の下で学んでプロとなり、福井の死後舞子の二代目プロに就任し、後続倶楽部である廣野GCのヘッドプロとして戦前期の関西を代表するプレーヤーとなった人物であった。
彼は温和で真面目な性格から会員たちに愛され、自身が選手権で活躍するよりも会員ら一般ゴルファーの達の技術向上を何よりの喜びとし。加えて後進として戸田藤一郎、石井兄弟、橘田兄弟などのチャンピオンを育て『廣野一門』築いている事を上の件と照らし合わせて鑑みると、栴檀は双葉より芳しという一コマだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


主な参考資料
日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂 1995(復刻第二版)
神戸ゴルフ倶楽部史 神戸ゴルフ倶楽部1965
神戸ゴルフ倶楽部100年の歩み 神戸ゴルフ倶楽部2003
茨木カンツリー倶楽部十周年記念誌 茨木カンツリー倶楽部 1934 
茨木カンツリー倶楽部40年史 茨木カンツリー倶楽部 1964
鳴尾ゴルフ倶楽部五十年史 鳴尾ゴルフ倶楽部 1970
Naruo Spirit    鳴尾ゴルフ倶楽部 2021
Tarumi Golf Club 100th Anniversary倶楽部の歩みと記録 垂水ゴルフ倶楽部 2020
霧の中のささやき 編著・棚田眞輔、編集・神吉賢一、監修・松村好浩 交友プランニングセンター 1990
日本ゴルフ全集7人物評伝 井上勝純 三集出版 1991
私とゴルフと中国(上)鳴尾物語 上西荘三郎 1996
人間グリーンⅠ 光風社書店 1977
・大阪毎日新聞1927年9月8日~10月2日 ゴルフの人々
9月20日『村田省蔵氏』
10月2日『むすびの巻』
・『阪神ゴルフ』
1922年4~6月号 福井覚治『キャデーよりプロへ(1~3)』
・『Golf Dom』
1922年12月号『Nineteenth Hole』
1923年1月号『Nineteenth Hole』
1923年3月号『Nineteenth Hole』
1923年7~8月号So This is Golf!(1)~(2)
1923年4月号P24-25『舞子便り』
1924年9月号『鳴尾通信』より『18 hole Links開き』
1923年8月号『ムーンライトゴルフ』
1925年2月号P26-27『舞子通信』
1926年6月号『關東對關西レデース競技』及び、舞子の一人『駒澤所感』
1927年4月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々』
1928年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(8)』
1929年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(14)』
1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
1930年3月号 福井覚治『始めを語る』
1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
1932年3月号 C. I. 生(伊藤長蔵)『彼れ氏のパター』
1940年5月号 丘人(伊藤長蔵)『宮本の修業時代(中)』
・『Golf(目黒書店)』
1932年9月号 大谷光明 『ベランダにて』
1933年2月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(二)六甲から駒澤へ』
1933年6月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(五)六甲はパットが苦手』
・『Golfing』 1937年2月号 『オールド・タイマア座談会ゴルフの今昔を語る』
・『ゴルフマガジン』
1970年7月号 『プロゴルファーの生活と意見 関西レッスン・プロの大長老 福井正一』
1975年3~4,6月号 柴田敏郎『日本プロゴルファー人脈探訪①~②,④』
・『アサヒゴルフ』
1978年8月号 宮本留吉『ゴルフ夜話73 サンド・グリーンの郷愁』
1981年4月号 宮本留吉『ゴルフ夜話 英国遠征の折、初めてネーム入りのセットクラブを注文』
・『歴史と神戸』1970年3月号 芦田章『神戸奇人伝(1)へちまくらぶの名物男 西村貫一』 神戸史学会
資料はJGA旧本部資料室及び同ミュージアム国立国会図書館所蔵及び筆者蔵書より閲覧

 

 

 

 

 

 

 


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