ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・9

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神戸GC及び会員等の別荘地は六甲山の上にある為、向かうには(A.H・グルームが地元民を雇って整備した)山道を徒歩で上がっていくか、麓の駕籠屋さんに頼んでえっちらおっちら揺られて行く方法があった。
駕籠屋さんは六甲へ上がる各道の出発点に集まっていて、お客の体格によって二人乃至四人で当たっていたが、横浜と駒澤の掛け持ち会員で怪力のロングヒッターで知られたC.G・オズボーンは、筋骨隆々の大男であったので(と云っても190㎝90㎏位であった)駕籠屋さんから『六人雇いでなければアキマヘン』と云われたなどと云う話も残っている。
この他に馬の貸し出しや『押し屋さん』という職業もあった。後者がドンなモノかと云うと、当てる所が板状に成ったサスマタ様の棒をお客の腰に当てて登山の時に後押しをする。というモノであったのだが、ある時大谷光明が頼んでみたところ、コチラのペースを考えない押され方でバランスを崩し、道脇の藪に逸れてズボンを裂いてしまい駕籠よりも高くついた。という喜悲劇を味わったという。

駕籠屋さんと神戸GCは料金値上げを巡るやり合いがあって、倶楽部側が使うのを止めようと呼びかけたり、第一次大戦期間に成金さんらが六甲に別荘を構える事が増えた際、彼らがお金をちらつかせて順番を破ろうとする様になったので、神戸GCの主要邦人会員となって居たことから外国人達の相談を受けた南郷三郎が成金さんらに、『外国人たちは行儀よく順番を待っているのに、日本人がこれではイカンではないのか?』と諭して改めさせたという話も残っている。

一方ゴルフや別荘に行く過程の登山を楽しんでいる者達も当然居り、神戸登山クラブの主要人物でもあった“六甲のヌシ”H.E・ドーントや友人のJ.P・ウォーレン(後神戸GCキャプテン)の様に土曜日半ドンで仕事が終わったらオフィスからそのまま布引・摩耶山経由で山を登ってプレーをして別荘に泊まり、翌日も午前と午後にプレー。月曜日の早朝に別荘を出て九時のオフィス開場に間に合うよう神戸へ歩いて行った。と一時期同行していた南郷が書き残している。(南郷はウォーレンの誘いでゴルフを始めた人物であった)
ちなみにドーントの別荘はゴルファーだけでなく登山家達(神戸GCや横浜のNRCGAメンバーも居た)の集合所でもあり、山に上がってプレーが叶わない天候であったとしても、しょげる事は無く、そのまま裏六甲へ廻って有馬・宝塚経由で神戸に戻るという独自のルーティンを持って六甲山を愉しんでいたのだという。

1920年代前半の六甲山上に集まる日本人ゴルファー達は、近しい者達でグループを造って共同で宿舎を持ち、そこに集まってプレーとその後のゴルフ談義を楽しんでいた。
その内の一つ実業界中老格による『甲子倶楽部』は鳴尾GCで結成したときから簡易主義の手弁当をモットーとし、六甲では土曜日仕事がはけたら山をテクテク登って、賃貸契約をしているコース近くの茶店奥座敷に泊まり翌日プレー。と云う形を採っており。彼らは茶店に着いたらお風呂で汗を流し、地元唐櫃村名物のトマトをツマミに黒ビールで一杯やりながらの談笑を何よりの御馳走・愉しみとしていた。
  それが六甲山にもドライヴウェイが出来たので(正史だと1928年の事だが、この話の元記事は1927年の大阪毎日新聞なので、仮開通時期の話か)車で上がってみようと一同出発した。
当然いつもよりずっと早くに茶店に着いて
『いやぁこれならば山の上までひとッ飛びだ』
『ホントにそうだね、いつでもゴルフに出かけられるよ』
『では皆の衆いつもので一杯やりましょうや』
などと云いながら茶店のお婆さんに定番のトマトとビールを持ってきて貰い『『乾杯』』の声と共にグビリ、ガブリとやったのだが……
『……?』
『……‼』
豈図らんや、口にしているのはいつもと同じ物なのにお話に成らない程不味く感じる。
一同顔を見合わせ『こりゃだめだ、やっぱり山へはテクりで来ないと』と運動と食欲・味覚の作用を改めて思い知り、『そうだよ、その通りだ』の声のもと満場一致で “六甲山へは必ず徒歩登山のこと”と会則に追加がなされたのである。

なお1928年のドライヴウェイの開通に始まり、続くケーブルカーやロープウェイの設置によって、安価に短時間で六甲山上へ向かうことが出来るようになった事から、駕籠屋さん達は急速に役目を終えていった。

 

 

 

 

主な参考資料
日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂 1995(復刻第二版)
神戸ゴルフ倶楽部史 神戸ゴルフ倶楽部1965
神戸ゴルフ倶楽部100年の歩み 神戸ゴルフ倶楽部2003
茨木カンツリー倶楽部十周年記念誌 茨木カンツリー倶楽部 1934 
茨木カンツリー倶楽部40年史 茨木カンツリー倶楽部 1964
鳴尾ゴルフ倶楽部五十年史 鳴尾ゴルフ倶楽部 1970
Naruo Spirit    鳴尾ゴルフ倶楽部 2021
Tarumi Golf Club 100th Anniversary倶楽部の歩みと記録 垂水ゴルフ倶楽部 2020
霧の中のささやき 編著・棚田眞輔、編集・神吉賢一、監修・松村好浩 交友プランニングセンター 1990
日本ゴルフ全集7人物評伝 井上勝純 三集出版 1991
私とゴルフと中国(上)鳴尾物語 上西荘三郎 1996
人間グリーンⅠ 光風社書店 1977
・大阪毎日新聞1927年9月8日~10月2日 ゴルフの人々
9月20日『村田省蔵氏』
10月2日『むすびの巻』
・『阪神ゴルフ』
1922年4~6月号 福井覚治『キャデーよりプロへ(1~3)』
・『Golf Dom』
1922年12月号『Nineteenth Hole』
1923年1月号『Nineteenth Hole』
1923年3月号『Nineteenth Hole』
1923年7~8月号So This is Golf!(1)~(2)
1923年4月号P24-25『舞子便り』
1924年9月号『鳴尾通信』より『18 hole Links開き』
1923年8月号『ムーンライトゴルフ』
1925年2月号P26-27『舞子通信』
1926年6月号『關東對關西レデース競技』及び、舞子の一人『駒澤所感』
1927年4月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々』
1928年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(8)』
1929年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(14)』
1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
1930年3月号 福井覚治『始めを語る』
1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
1932年3月号 C. I. 生(伊藤長蔵)『彼れ氏のパター』
1940年5月号 丘人(伊藤長蔵)『宮本の修業時代(中)』
・『Golf(目黒書店)』
1932年9月号 大谷光明 『ベランダにて』
1933年2月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(二)六甲から駒澤へ』
1933年6月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(五)六甲はパットが苦手』
・『Golfing』 1937年2月号 『オールド・タイマア座談会ゴルフの今昔を語る』
・『ゴルフマガジン』
1970年7月号 『プロゴルファーの生活と意見 関西レッスン・プロの大長老 福井正一』
1975年3~4,6月号 柴田敏郎『日本プロゴルファー人脈探訪①~②,④』
・『アサヒゴルフ』
1978年8月号 宮本留吉『ゴルフ夜話73 サンド・グリーンの郷愁』
1981年4月号 宮本留吉『ゴルフ夜話 英国遠征の折、初めてネーム入りのセットクラブを注文』
・『歴史と神戸』1970年3月号 芦田章『神戸奇人伝(1)へちまくらぶの名物男 西村貫一』 神戸史学会
資料はJGA旧本部資料室及び同ミュージアム国立国会図書館所蔵及び筆者蔵書より閲覧

 

 

 

 

 

 

 


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)