ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・12

                12
鳴尾GCは鳴尾GA時代の6ホールを受け継ぎ発足し、9ホールに拡大して会員達はプレーをしていた。その内に18ホールの茨木CCが創られることに成り、鳴尾が関西ゴルファー達から取り残されない様に、以前倶楽部キャプテンであったE.G・フラッジェリー(1911日本Am勝者)が日本を去る前に提案していた18ホール増設案を採用する事に成った。
当時のキャプテンである『神戸の名物男』西村貫一とクレーン兄弟のジョー・クレーンが委員になるのだが、低予算の中二人は自転車で敷地を駆け回り葦原や沼地をかき分けてルートを造って行った(西村はクレーンの功績が大であったと『日本のゴルフ史』に書き残している)

そうして18ホールが完成して1924年9月14日に18ホール開場式及び委員会カップを行うのだが、地元住民たちが『武庫川の堤防が決壊した明治27年(1894)以来の酷さだ』と語るレベルの大暴風雨が四日程前にあり(どうも台風の様だ)、それが治まった後でも浜側の堤が大波で切れるのではないか。という状況で、コースも一部が浸水した儘のため、12~14番のプレーをスキップして1~3番を2回プレーせねば成らない事になった事から、会員達から『新しい9ホールを廻るにはサンパン(小舟の中国名)と水着が必要だね』と皮肉めいた冗談が出たことが現在にも伝わっている。

が、この開場式ではもう一つの伝説が生まれた。
開場式には倶楽部会長である鈴木岩蔵(帝人初代社長)の始球式が組み込まれ、その際の球はクラブに飾られる事が決まっており(現存)、また拾ってきたキャディには金貨が贈られることに成っていた。恐らくこれは本邦ゴルフ界の博覧強記である西村貫一の進言であろう。
鈴木の回想では準備が色々大変であったそうだが、因みにこう云った行事の大元といえるR&Aキャプテン就任式では、少年キャディたちが新キャプテンの球筋を予測して(ミスをしそうな人だったら目の前等)行きそうなところに並ぶなどするのだが、キャプテンの落ち着き払った好打により彼らの当てが大いに外れたり、案の定酷いミスをしてティの左横の18番グリーンにボールが乗り、それを観た観客から“あれを入れたら凄えレコードに成るぜ”という言葉が出る等、様々な珍談を残している。

鳴尾では、当日の始球式で鈴木がティに立った際、ボールに変な傷を付させける訳には行かないと思ったのか西村が『鈴木君!まっすぐ打たなきゃ成らない事は無いんだぜ!』と叫んだ。
恐らく集まった会員達は笑い出すか、何でこんな状況でソンな事をば言うのだろう。と蒼くなる者で分かれただろうか。
しかし当の鈴木はこれに怖気づくと思いきや、 “よっしゃ! “とばかりにドライブ一閃、ボールは彼の平均ショットを遥かに超える出来で210yd先のグリーンに見事着地した。

しかし当の鈴木はこれに怖気づくと思いきや、 “よしっ心得てる!“とドライブ一閃、ボールは彼の平均ショットを遥かに超える出来で210yd先のグリーンに見事着地した。
この出来事を報じた『Golf Dom』9月号の巻末コラムには、『こういった時にこう云えば滅多に失策をしないのが鈴木氏の本領であるという事である。』と記されているが、始球式のボールを拾う為にキャディたちはどこに並んでいたのか。文中を考えると大いに当てが外れたと筆者は考えている。

 

 

   

 

主な参考資料
日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂 1995(復刻第二版)
神戸ゴルフ倶楽部史 神戸ゴルフ倶楽部1965
神戸ゴルフ倶楽部100年の歩み 神戸ゴルフ倶楽部2003
茨木カンツリー倶楽部十周年記念誌 茨木カンツリー倶楽部 1934 
茨木カンツリー倶楽部40年史 茨木カンツリー倶楽部 1964
鳴尾ゴルフ倶楽部五十年史 鳴尾ゴルフ倶楽部 1970
Naruo Spirit    鳴尾ゴルフ倶楽部 2021
Tarumi Golf Club 100th Anniversary倶楽部の歩みと記録 垂水ゴルフ倶楽部 2020
霧の中のささやき 編著・棚田眞輔、編集・神吉賢一、監修・松村好浩 交友プランニングセンター 1990
日本ゴルフ全集7人物評伝 井上勝純 三集出版 1991
私とゴルフと中国(上)鳴尾物語 上西荘三郎 1996
人間グリーンⅠ 光風社書店 1977
・大阪毎日新聞1927年9月8日~10月2日 ゴルフの人々
9月20日『村田省蔵氏』
10月2日『むすびの巻』
・『阪神ゴルフ』
1922年4~6月号 福井覚治『キャデーよりプロへ(1~3)』
・『Golf Dom』
1922年12月号『Nineteenth Hole』
1923年1月号『Nineteenth Hole』
1923年3月号『Nineteenth Hole』
1923年7~8月号So This is Golf!(1)~(2)
1923年4月号P24-25『舞子便り』
1924年9月号『鳴尾通信』より『18 hole Links開き』
1923年8月号『ムーンライトゴルフ』
1925年2月号P26-27『舞子通信』
1926年6月号『關東對關西レデース競技』及び、舞子の一人『駒澤所感』
1927年4月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々』
1928年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(8)』
1929年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(14)』
1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
1930年3月号 福井覚治『始めを語る』
1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
1932年3月号 C. I. 生(伊藤長蔵)『彼れ氏のパター』
1940年5月号 丘人(伊藤長蔵)『宮本の修業時代(中)』
・『Golf(目黒書店)』
1932年9月号 大谷光明 『ベランダにて』
1933年2月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(二)六甲から駒澤へ』
1933年6月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(五)六甲はパットが苦手』
・『Golfing』 1937年2月号 『オールド・タイマア座談会ゴルフの今昔を語る』
・『ゴルフマガジン』
1970年7月号 『プロゴルファーの生活と意見 関西レッスン・プロの大長老 福井正一』
1975年3~4,6月号 柴田敏郎『日本プロゴルファー人脈探訪①~②,④』
・『アサヒゴルフ』
1978年8月号 宮本留吉『ゴルフ夜話73 サンド・グリーンの郷愁』
1981年4月号 宮本留吉『ゴルフ夜話 英国遠征の折、初めてネーム入りのセットクラブを注文』
・『歴史と神戸』1970年3月号 芦田章『神戸奇人伝(1)へちまくらぶの名物男 西村貫一』 神戸史学会
資料はJGA旧本部資料室及び同ミュージアム国立国会図書館所蔵及び筆者蔵書より閲覧

 

 

 

 

 

 

 


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)