ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・10

                   10
シーズン中の神戸GCは別荘地の傍にある為、ゴルファーとその家族だけでなく門番と呼ばれた別荘管理人や、アマサンと呼ばれる家事を担当する女中さんたちも『何処々々の○○さんが今日はどういうプレーをした』事を知っている様なゴルフ村と化していた。と伊藤長蔵が1940年の『Golf Dom』に岳人の名で記した宮本留吉の半生記に出てくる。

そのゴルフ村が賑わう夏のシーズン、会員達は朝プレーをして昼食に別荘に戻り昼寝をした後午後のプレーをしてクラブハウスで仲間と一杯やったり、待っていた奥さんや家族らが集まって皆でわいわいと夜を過ごす。という事が行われていた。

そんな夏のある日、日時がハッキリしているので1923年7月27日の夜の事。会員達の間で、これ迄夜にプレーをするという事が六甲の主H.E・ドーントによって行われたがスコアは記録されていない。という話題が挙がり、それを聞いた大谷光明が『一つキチンとしたレコードを造ってみようじゃないか』と乗り出した。
大谷は周りに一緒にやろうと呼びかけたが、昼間のプレーで疲れて居たり怖気づく者達ばかりで、スコアラーとして駒澤の仲間である伊地知虎彦(1927日本アマチュア2位)が同行することに成った。
※小寺敬一(関西学院教授、戦後倶楽部復興に尽力)夫人、小寺花野によると伊地知もプレーをしたが全然駄目で棄権した。と倶楽部史で回想している

“大谷さんが変わった事をするぞ”と噂を聞いて山荘からコースに戻ってきた浴衣履のゴルファー達の見物の中8時半にスタートをする。
月が照っているとはいえ暗中の為対策として、打つ前にキャディが先に回っているフォアキャディに向って提灯を振って呼びかけ、向こうも返事をして提灯を振って合図を取り合った。(他にも4~5人のフォアキャディが居たが彼等は球探し要員として配属)

 これが記録された『Golf Dom』1923年8月号の記事によると、大谷はいつもは1オン確実な短い2ショットホールでも安全策を取る堅実なプレーをするとともに、視覚から入る余計な情報が無い為か技術力の為か、ティショットのミスは全くなかったが、アプローチのショートは白砂のサンドグリーンが故の距離感の採り難さと視神経の緊張を要したとの事で、特に終盤に3パットが増えたのは頭の疲れからであろう。と報じられている(それでも六甲のサンドグリーンではかなり良いスコアとも書かれた)

この元記事は日本プロゴルフ殿堂のフェイスブック上でも紹介されているが、大谷本人が9年後『Golf(目黒書店)』のインタビューで改めて振り返った際は。
打つときにはボールが見えているのでミスはしない。ボールの行方は見えないが、インパクトの感触でプルやスライスで大体判った。なにより飛ぶのを見る必要が無いのでヘッドアップはせず“Keep eye on the ball”で方向性も大いに良かった。
という趣旨を述べており、続けてフォアキャディ達の働きの良さに触れて、ヤジ気分でたくさん集まったのと、キャディ達が面白い事を遣るらしいと残っていてくれて、彼らは霧深い時には落下音でボールがどこにあるか見つけ出す技術を持っている為、ロストボールをする事もなかった。と云いつつも、
プレーについては、身体は疲れなかったが頭が疲れ(『Golf Dom』での推察通りであった!)、上がり4ホールを3パットしてしまった事を述べており、また昼間よりもスコアがいいのでは?と当時同コースで70台が出にくい事から冷やかされた話も上げているが、これについてはリアルタイム記事の
『昼間81を出して先ず普通だと高を括っていた者は視力の模糊たることそれ太陽に対する十四日の月明かりの如きものか。“貴下の昼のスコアと競争できます”と穏やかに吹かれても返す言葉はない』の注意が最も良い警句であろうか。

因みに日時各ホールスコア等以下のとおりである
7月27日Pm8:30スタート プレー時間2時間 バッグキャディ一人、フォアキャディ5~6人使用 スコアラー伊地知虎彦
スコア 543,455,445=39 346,446,555=42 Total 81
パット 212,232,222=18 223,223,332=25 Total 43
Bogey 443,344,443=33 445,445,534=38 Total 71

これも以前筆者が記した『昭和三年のマラソンゴルフ』共々日本ゴルフ史に残す思い切った出来事であろう。

 

 

 

 

 

主な参考資料
日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂 1995(復刻第二版)
神戸ゴルフ倶楽部史 神戸ゴルフ倶楽部1965
神戸ゴルフ倶楽部100年の歩み 神戸ゴルフ倶楽部2003
茨木カンツリー倶楽部十周年記念誌 茨木カンツリー倶楽部 1934 
茨木カンツリー倶楽部40年史 茨木カンツリー倶楽部 1964
鳴尾ゴルフ倶楽部五十年史 鳴尾ゴルフ倶楽部 1970
Naruo Spirit    鳴尾ゴルフ倶楽部 2021
Tarumi Golf Club 100th Anniversary倶楽部の歩みと記録 垂水ゴルフ倶楽部 2020
霧の中のささやき 編著・棚田眞輔、編集・神吉賢一、監修・松村好浩 交友プランニングセンター 1990
日本ゴルフ全集7人物評伝 井上勝純 三集出版 1991
私とゴルフと中国(上)鳴尾物語 上西荘三郎 1996
人間グリーンⅠ 光風社書店 1977
・大阪毎日新聞1927年9月8日~10月2日 ゴルフの人々
9月20日『村田省蔵氏』
10月2日『むすびの巻』
・『阪神ゴルフ』
1922年4~6月号 福井覚治『キャデーよりプロへ(1~3)』
・『Golf Dom』
1922年12月号『Nineteenth Hole』
1923年1月号『Nineteenth Hole』
1923年3月号『Nineteenth Hole』
1923年7~8月号So This is Golf!(1)~(2)
1923年4月号P24-25『舞子便り』
1924年9月号『鳴尾通信』より『18 hole Links開き』
1923年8月号『ムーンライトゴルフ』
1925年2月号P26-27『舞子通信』
1926年6月号『關東對關西レデース競技』及び、舞子の一人『駒澤所感』
1927年4月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々』
1928年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(8)』
1929年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(14)』
1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
1930年3月号 福井覚治『始めを語る』
1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
1932年3月号 C. I. 生(伊藤長蔵)『彼れ氏のパター』
1940年5月号 丘人(伊藤長蔵)『宮本の修業時代(中)』
・『Golf(目黒書店)』
1932年9月号 大谷光明 『ベランダにて』
1933年2月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(二)六甲から駒澤へ』
1933年6月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(五)六甲はパットが苦手』
・『Golfing』 1937年2月号 『オールド・タイマア座談会ゴルフの今昔を語る』
・『ゴルフマガジン』
1970年7月号 『プロゴルファーの生活と意見 関西レッスン・プロの大長老 福井正一』
1975年3~4,6月号 柴田敏郎『日本プロゴルファー人脈探訪①~②,④』
・『アサヒゴルフ』
1978年8月号 宮本留吉『ゴルフ夜話73 サンド・グリーンの郷愁』
1981年4月号 宮本留吉『ゴルフ夜話 英国遠征の折、初めてネーム入りのセットクラブを注文』
・『歴史と神戸』1970年3月号 芦田章『神戸奇人伝(1)へちまくらぶの名物男 西村貫一』 神戸史学会
資料はJGA旧本部資料室及び同ミュージアム国立国会図書館所蔵及び筆者蔵書より閲覧

 

 

 

 

 

 

 


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)