ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

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掘っくり返し屋のノート『デヴィッド・フードの補足』・4

『4:ニュージーランド選手権におけるデヴィッド・フードの記録とその他の活動』

デヴィッド・フードがオークランドからオタゴGCに移籍した1906年ニュージーランドのゴルフ競技史におけるターニングポイントがあった。
これ迄同国のプロ達は、エキシビションマッチや年に1~2回行われるような招待競技でしか腕を振るう場がなく。同年11月1日付の『Otago Daily Times』に
ニュージーランドのプロゴルフはこれ迄(バルマセウェンのリンクス(筆者注=オタゴGC)で行われた先の新年プロマッチを除けば)ほったらかしにされてきた』
と評されてしまう状況であった。

それがこの年のアマチュア選手権後に行われたニュージーランドゴルフ評議会の年次総会で翌1907年9月にオープン選手権が遂に開催される運びと成ったのだ。
用意された賞金も1位25ポンド、2位10ポンドで、オーストラリアOPで三位までに用意される10・3・1ポンドに比べて破格のものであった。

北島のネイピアGC(ボギー82)で行われた第一回ニュージーランドOPは36ホール形式でアマチュア選手権と同じ週に続けて行われ、アマチュア33名の参加に対しプロは僅か7名。と表現しそうになるが、これは殆どのプロが参加したのである。
この大会に於いて、デヴィッドは前半ベストスコアタイの2アンダーボギーの80を出したが、後半は出だしは良いもののアウトで伸びず、インでポロポロとスコアを落とした88を打ち、83の後にコースレコードを2打縮める6アンダーの76を叩き出したアマチュアの名手アーサー“A.D.S”・ダンカン(同国ゴルフ殿堂者)に9打差の4位に終わったが、1・2位がアマチュアの為2位の賞金を獲得した。

この選手権はニュージーランドゴルフ史における大きな出来事であると共に、とんでもない誤報も齎している。というのもアマチュア参加者はOP選手権のスコアをホーキンスベイAm選手権にも併用していた為に記者が何を勘違いしたのか、優勝者であるダンカンと2位のJ.C・ビッドウィルを始め全てのアマチュアの成績を除外し、参加した七名のプロのみを順位表に並べ、『(3位の)ジャック・マクラーレンが優勝者』とする報道が(一つの記事を多数の新聞社が転載しているために)国中でなされ、後日訂正記事が各紙ズラリと出ているのは、初期のゴルフに於けるハプニングとしてモノの話になるのではなかろうか。

 1908年の第二回大会はフード家とも関りの深い南島オタゴGC(ボギー82)で行われ、試合内容も二日72ホールで行われる本格的なものと成り、デヴィッドは兄フレッドの下でゴルフを学び、前大会で上位に入って注目されたニュージーランド出身の19歳の少年プロ、J.A“ジョー”・クレメンツと競り合うことに成った。
初日午前が共に83、午後の第二ラウンドでベストスコアの79を出し、前半をクレメンツに2打差をつけトップに立つも、二日目午前中の“ガラスが落っこちそうな “悪天候下で91を打ち(強風だったらしく上位陣の殆ど総てが87から91を打っている)88のクレメンツに追い抜かれ、天候が回復した最終ラウンドは共に83で1打差の2位と惜敗している。

9月23日付『Evening Star』の記事によると、クレメンツはスタートホールの二打目をラッシュ(灯芯草の仲間で塊のような株になる)の茂みに打ち込み7を打ってしまい、パットも酷かったというが、13番の6以外は4・5の安定したプレーで1オーバーのプレー、一方デヴィッドも素晴らしいティショットを放ち4・5のスコアの並ぶミスのない堅実なゴルフをしていたが、彼も12番でティショットをトップしてラッシュの茂みに打ち込み2打目は溝の中、リカバリーはうまくいったものの7を打ち、最終ホールで3を出すも遅れを取り返せなかった。
新聞記事によるとデヴィッドは後半のラウンドで堅実で知られたアマチュア、J.B・スミス(7位)を同伴競技者としていたのだが『両者はメダル競技なのにマッチプレーのようなラウンドをしていた』と報じられており、これがお互いのプレーに悪影響も齎した様で“スミスと競り合うようなプレーをしたのが誤りであった”と敗戦の弁を述べている。

ちなみに優勝者であるクレメンツは、この年仕事場が変わった為か参加申し込みの締め切りに遅れてしまうも、北島のワンガヌイから遥々来た事と、エントリーしていた他のプロが不参に成った事から委員会が参加を許可し、大魚を獲ることが出来たのだ(特別出場の件は他の参加者も納得し、優勝を祝福している事が報じられている)。
デヴィッドがオープン選手権で優勝に近づいたのはこんな所で、同大会には1907-14,20年にかけて9回出場し、2,4,7位が1回ずつ8位が2回記録されている(12年は何故か後半で棄権した模様)。

この他の試合ではOP・アマチュア両競技と共に同じ期間中に行われたニュージーランドプロ選手権にもデヴィッドは出場をしている。
※この大会は1909年発足も、同国PGA1920年以降を公式とし、加えて1903年と06年にフレッドが勝ったウェリントンGCのJ・カスバートとのマッチも非公式の選手権としている模様(カスバートは1906年に3人のプロが参加の72ホール競技に勝っているが、協会はこちらを選手権と見做していない様だ)

当時『Professional Mach』と呼ばれた同選手権はプロの数が少ないので試合方式は最初からマッチプレーであるも、参加者が8人未満であったり、多くても16人に達しない為、不戦勝や、8人になる様に2~3組が先にマッチを行い、勝ち残った者が8人の中に入る。という方式で行われており、デヴィッドはよく人数合わせの一回戦に振り分けられている。

1909-14,20年間の出場記録の中では二度の準決勝進出が最良で、1909年の第一回大会 の、ティからアイアンまでが良かったがパットが駄目で、ティショットが酷いがパットが良かった兄のフレッドに3&1で敗れた一戦と、1913年3月初めに起きた酷い自動車事故で二ヶ月経っても、『レッスンの仕事も出来ないでいる』と新聞で報じられるような(記事には『彼はもうすぐ復帰すると希望を持っている』と続いては居るが)長期療養から復帰し挑んだ同年9月の大会で、優勝することに成るW・イルスにエキストラホールで惜敗した“恐らく一番チャンスがあったかもしれない”一戦である。

またこの大会の際にイルスの提唱で結成したニュージーランドPGAではフレッドと共に役員に成っている事も注目したい。
※以前のニュージーランドPGAホームページにはその結成時の競技(1913年大会の事をそう表した様だ)に於ける集合写真がサイトのバックスクリーンの一つとして使われていた。
また同サイトのコラムではフレッドが初代チェアマンとされているが、結成が報じられた10月22日付『Otago Daily Times』の記事には、副会長は居るが会長が不在となっている。
そして1906年11月22日付の同紙にフレッドをチェアマンにオーストラリアのプロゴルフ協会が結成された。という記事があるが(オーストラリアの『Leader』紙の10月27日付のゴルフ記事にもこの件が出てくる)、この事を指しているのか、しかし現在オーストラリアPGAは1911年の結成とあるのでどういう事か?

デヴィッド・フードが何処かで優勝した記録が無いか調べてはいるが、1914年のクライストチャーチGCプロトーナメントでジョー・クレメンツに敗れ2位T、翌年のイースターに行われた同地でのプロ競技でも2位Tというのが1908年のオープン選手権共々(オーストラリアPGAコンソレーション競技やエキシビションマッチを除いて)最高位の様だ。

競技記録を調べるとクレメンツ(NZOP3勝、同プロ2勝)は歳の近いデヴィッドにとってライバル的存在で、競技で彼に敗れる事が度々あったが、一緒にリゾート地のコースへの出張に出かけたり、クライストチャーチHood&Clementsというクラブメーカーが在った事から両者の関係は悪くなかった様だ。
※この店に関しては、両者が同地に居た1910~16年頃に在ったらしく、1914年にカンタベリーニュージーランド農協が出した広告にフード&クレメンツの従業員?として若い洗練された女性を募集する物が在ったほか、筆者は同店がSt.アンドリュースのトム・スチュアートに発注した溝なしアイアンを縁あって手にする事があった。
 また1910年3~4月に北島の新聞『Waikato Independent』でWilkinson‘s という商店がHood&McCormickなるクラブメーカーの代理店として品物を取り扱っている広告が出てくるが、こちらは兄のフレッドとこの時分に彼と同じ北島で働いていたプロ、J・マコーミックによるショップとみられる。

ニュージーランドにおけるデヴィッドの所属地の変遷についてだが、1903年オークランドGCから1906年10月以降にオタゴGCに移り、1907年のシーズンの途中からオタゴ地方北部の港町オマルーにあるノースオタゴGCへ(元々倶楽部はマクラーレンかデヴィッドをオタゴGCから呼ぼうと画策していたらしい)移籍。OPの際にはウェリントンに居たことが確認できた。1908年にはオマルーに戻り、1909年4月には以前のフードの書き物で記したクライストチャーチのハグリーGC(Hagley Park Club)に所属し第一次大戦頃まで一年毎の契約をしていたのを確認できた。
また1924年ニュージーランド・レディス勝者のピーク夫人が少女時代にデヴィッドから教わっていたという記事があるが、文中デヴィッドをカンタベリーのプロとしているので、このハグリーGC時代に教えていたのだろう。

※以前同地は1900年開場と、1912年版『Nisbet’s Golf Year Book』の情報を書いたが、倶楽部HPでは新聞史料を基に1873年創立とある。
これはクライストチャーチGCが1900年に同地からシャーリーに移転した際に残ったコースを引き継いで発足した為で、更に後年このハグリーGCが混んだためにラスリーGCが別の場所で分離発足。という、日本で云うところの東京GCの移転や程ヶ谷CCへの分派及び駒澤ゴルフ場の独立の様なヤヤコシイ流れがある。

                              ―続―

 

 

(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)