ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・13

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関西は日本のゴルフ用品販売や製作の先鞭をつけた場所で、福井覚治が後援者のW.J・ロビンソンの勧めで1914年前後には工房を開いており、神戸GC支配人の佐藤満も早くからショップを構えていた。(彼が創立した三田GCホームページに於ける年表では、1918年から問屋をやっていたと在り、『Golf Dom』1927年4月の広告でもそれを伺わせる記述がある)
その事から関西のゴルファー達は入手及び修理調整の注文がし易かった様だが、1920年代初頭の頃は新品のセットを入手することは殆ど不可能で、福井の工房でいつの頃か判らない様なクラブを高値で購入していた。とか、運動具店等に入荷した際に皆群がって気に入った物を一本買いし、溜まったら福井に調節して貰いセットを造った話も残っている。
その福井は佐藤の店からパーツやクラブを購入したり、お客の注文が溜まると貿易会社に依頼してジャック・ホワイト(全英OP勝者でパットとウッドクラブ造りの名人)の会社に注文していた。と彼の下でプロ業務を学んだ宮本留吉が回想している。

クラブマニアは関東同様関西にも折り紙付きの者達が居たが、毛色が変わっていたのが『日本のゴルフ史』の著者西村貫一で、彼は熱心者の頂点の様なゴルファーであったがクラブについても同様で、早くから自分で製作をしてみたい。と思い立ち、当時住んでいた六甲山下の大石の別邸に八畳ほどの作業場を造り、クラブの修理調整を行っていた。

腕前については名工としても名を遺したプロの宮本留吉も一目置くほどで、1927年には『Golf Dom』に連載していた『Symposium』の中で、細に入ったクラブの修理やメンテナンスの話を寄稿し、国内外のプロの造ったクラブのフィッテイングの甘さにも触れている位だ。(ヒッコリー時代の物なので筆者も参考にした)
また、女子競技ゴルファーのパイオニアであったマサ夫人のクラブの調節も彼が手掛けていた。とか、ある時友人が彼を訊ねたら、秤の前でグリップの重量調節を熱心に行っていて見向きもしなかった。なんて話も残っている。

クラブと関西ゴルファーに関する話では、少し後の1932年1月31日に高畑誠一が対抗戦後の宴会帰りに愛用のパターをタクシーに置き忘れて仕舞い、翌朝相談した梅田のタクシー運転手のアドヴァイスで大阪中のタクシー組合や彼らの立ち寄る食堂等に“訊ねクラブ、発見者には礼金支払い”のチラシ2000枚を配り、朝日・毎日両新聞社にも広告を出した話があるが(三日目に発見)、次の出来事が極めつけかもしれない。

『Golf Dom』に掲載された原文では、“大学出でサラリーマンからプロゴルファーになったM君”という事と1928年1月号の物なので(この年の二月に関西のトップアマ石角武夫がプロ転向している)、アマチュアからの転向プロ一号の村上伝二の事で間違いないであろう。
 この記事は村上の鳴尾時代の友人であったKY生こと吉田耕二が、プレーの方の熱心者であった村上の奇行を記しているのだが、昼の練習だけでは足りない。と深夜街頭に出でマッチを地面に置いてドライバーのクリーンヒット練習をしていたら、ちょうど精神病院に収監されていた殺人鬼が脱走していた時分で(調査した所、1917年7月頃に神戸湊川の精神病院で前年末に阪神間を騒がした殺人犯の脱走事件が起きている)、人気のない夜道で『棒』を振り回している彼が誤認逮捕された。とか
無神論者であったのに全英OP勝者のジョージ・ダンカンに傾倒するあまり、ある年の大晦日に神棚一式を買ってきて彼の写真を入れて『ゴルフ大明神』として祀って、以降新年は使用しているクラブを御神酒・灯明と共に供えて家族一同祝詞を挙げている。という話と共に紹介されている。

 村上がダンカンに傾倒していた頃、彼は日本ではまだ出回っていないダンカンモデルのクラブ(当時は当人が造った物を除けば、スポルディングからウッド、Wm・ギブソンからアイアンが販売されていた)が欲しくてたまらず、どこかで入手できないか思案していた。

 そんな夏の日曜日、村上は夕食後に夕涼みで街(神戸の元町か三宮のようだ)を散策していた、そこへ六甲帰りの友人に出会い、“やぁやぁ”と談笑をしていると彼から
『そういや村上君、クラブハウスに君が探してるダンカンのマッシーがあってね、中々好かったけど僕には重いから買わなかった。多分まだ在ると思うよ』
という言葉が出てきた。
(ダンカンのマッシー……)
それを聞いて意識が遠のいた村上は倒れそうになるのを踏ん張り、挨拶もせず友人の前から姿を消した。そしてしばらく後、六甲山へ上がる登山道に彼は居たのだ。

 この時の彼の恰好は浴衣であったというから足元は下駄か草履で在ろう、加えて当時は街燈など無かったのだから、月明かりを頼りに狐の巣と呼ばれた山道を登って行ったか。
 暗い夜道も化かし狐も探究クラブ欲しさに何のその。で山上に上がったが、着いた時には草木も眠る丑三つ時を少し過ぎた午前三時。当然クラブハウスは閉まっている。
ここで冷静になったのか、そうではなかったのか。山を降りるわけにはいかないので時間を潰すために、そして後日の攻略研究を兼ねてコースを歩き回りながら、村上は夜が明けるのを待つことにした。

朝日が六甲山を照らす頃、村上は丁度18番に到着していたので、従業員を呼び出しクラブハウスを開けてもらった。
『おや、村上さんどうしたんですか、ソンな格好で?』
『ダンカンのマッシーがあると聞いて山に上がって来たんだ!まだ残っているかい!?』と件のクラブの所在を問いただした。
すると『村上さん、あのクラブはヘッドが沢山届いて目下組み立て中でしてね。昨日見本として一本出してみた所で、何も急ぐことはありませんよ?』との事。
(村上が訊ねた相手はバーテンからクラブ造りにレッスンまで、倶楽部にまつわる全ての仕事をしていた支配人の佐藤満で間違いないだろう)

それを聞いて安心するやら気が抜けるやら、村上は数日後の受け取り予約をして、再び浴衣姿で山を下ったのだが。夕涼みに行ったきり行方不明になった彼が帰って来た時、そしてその理由を知った時に彼の奥さんがどの様な対応をしたのか、そしてこの日は月曜日なのだから彼が会社に間に合ったのか、それとも夏休み中の出来事であったのか。という事が筆者には気に成り続けている。

 

 

 


主な参考資料
日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂 1995(復刻第二版)
神戸ゴルフ倶楽部史 神戸ゴルフ倶楽部1965
神戸ゴルフ倶楽部100年の歩み 神戸ゴルフ倶楽部2003
茨木カンツリー倶楽部十周年記念誌 茨木カンツリー倶楽部 1934 
茨木カンツリー倶楽部40年史 茨木カンツリー倶楽部 1964
鳴尾ゴルフ倶楽部五十年史 鳴尾ゴルフ倶楽部 1970
Naruo Spirit    鳴尾ゴルフ倶楽部 2021
Tarumi Golf Club 100th Anniversary倶楽部の歩みと記録 垂水ゴルフ倶楽部 2020
霧の中のささやき 編著・棚田眞輔、編集・神吉賢一、監修・松村好浩 交友プランニングセンター 1990
日本ゴルフ全集7人物評伝 井上勝純 三集出版 1991
私とゴルフと中国(上)鳴尾物語 上西荘三郎 1996
人間グリーンⅠ 光風社書店 1977
・大阪毎日新聞1927年9月8日~10月2日 ゴルフの人々
9月20日『村田省蔵氏』
10月2日『むすびの巻』
・『阪神ゴルフ』
1922年4~6月号 福井覚治『キャデーよりプロへ(1~3)』
・『Golf Dom』
1922年12月号『Nineteenth Hole』
1923年1月号『Nineteenth Hole』
1923年3月号『Nineteenth Hole』
1923年7~8月号So This is Golf!(1)~(2)
1923年4月号P24-25『舞子便り』
1924年9月号『鳴尾通信』より『18 hole Links開き』
1923年8月号『ムーンライトゴルフ』
1925年2月号P26-27『舞子通信』
1926年6月号『關東對關西レデース競技』及び、舞子の一人『駒澤所感』
1927年4月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々』
1928年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(8)』
1929年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(14)』
1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
1930年3月号 福井覚治『始めを語る』
1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
1932年3月号 C. I. 生(伊藤長蔵)『彼れ氏のパター』
1940年5月号 丘人(伊藤長蔵)『宮本の修業時代(中)』
・『Golf(目黒書店)』
1932年9月号 大谷光明 『ベランダにて』
1933年2月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(二)六甲から駒澤へ』
1933年6月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(五)六甲はパットが苦手』
・『Golfing』 1937年2月号 『オールド・タイマア座談会ゴルフの今昔を語る』
・『ゴルフマガジン』
1970年7月号 『プロゴルファーの生活と意見 関西レッスン・プロの大長老 福井正一』
1975年3~4,6月号 柴田敏郎『日本プロゴルファー人脈探訪①~②,④』
・『アサヒゴルフ』
1978年8月号 宮本留吉『ゴルフ夜話73 サンド・グリーンの郷愁』
1981年4月号 宮本留吉『ゴルフ夜話 英国遠征の折、初めてネーム入りのセットクラブを注文』
・『歴史と神戸』1970年3月号 芦田章『神戸奇人伝(1)へちまくらぶの名物男 西村貫一』 神戸史学会
資料はJGA旧本部資料室及び同ミュージアム国立国会図書館所蔵及び筆者蔵書より閲覧

 

 

 

 

 

 

 


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)