ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート-人物評伝-『忘れられた朝鮮最初のプロ、出口寛治』

朝鮮半島最初のプロは戦前最後の日本OPに優勝した延徳春(1916~2004)とされている。
彼は1935年に京城GCから『内地』こと日本の藤澤CCに留学し、ヘッドプロの中村兼吉の指導の下、関東PGAの月例競技および日本OP、日本プロに出場。翌年3月終盤の帰郷後、正式に京城GCのプロに就任。帰国の際に『Golf Dom』で掲載された記事では、『朝鮮最初のプロ延徳春』の題のもと『半島が生んだたった一人のプロ選手として』と記されている。

この年は自信をつける為京城で練習に励み、翌37年以降、“朝鮮代表”として現地のゴルファーたちの期待を背負って、日本OP・プロのたびに玄界灘を渡り参加し、好成績を収めたほか、フィリピンOP遠征団のメンバーに成ったり、満州プロや同組合の月例会にも参加している。
リアルタイムの逸話では、世界に出ることを目標に京城GC会員の家に通って英語を教わっており。また、史家で当時ゴルフ記者であった小笠原勇八が延に強さのインタビューをした際、(当時主流であった1日36ホール消化の)スタミナを保つために“韓方”ドリンクを携帯服用している。と実物を見せてくれたことを後年『パーゴルフ』の連載で記している。

戦前最後となった1941年の日本OP、彼は練習では絶不調で“非常に”不安を抱える状況であったが、“全力を尽くそう“とスタートすると、調子が上り坂に成り、思うようなショットが打てるとともに、パットがウソのように決まり前半を1位タイで通過。
最終日の36ホール、午前中の風雨が懸念であったが、同伴競技者の成宮喜兵衛(日本Am勝者)の励ましや気遣いもあり(延本人がリアルタイムに、成宮のクラブメイトで、観戦をしていた岩室憲六郎=摂津茂和の実兄=が戦後この時のことを雑誌に寄稿している)、落ち着いてプレーをして他の選手が苦しみスコアが伸びない中ペースを維持し、研修時代に同じ釜の飯を食べた中村寅吉との競り合いを制して念願の勝利を収めた。


JGAの記録で“延原徳春(延徳春)”表記となって居るのは、1940年から彼が日本名を名乗って居た為で、戦後本名で書籍に記録されていたのを、先述のゴルフ記者・JGA職員出身の史家小笠原勇八が『当時は日本名なのだから、この期間はそう表記すべきだ』と提言した事が関係している。
正確な記録を残すという意味では、この表記は理解されるべきであろう。
しかし、戦後の韓国独立で本名に戻っているのだから、現在一部で行われた『延原徳春(韓国名 延徳春)』と本名が後に来るような表記の仕方を筆者は疑問に思うものの、記録に於いての紹介はどちらを先に表記する方が良いか思案をする案件でもある。

参考として、延の主な戦績を記しておく
・日本OP1941
・日本プロ2位1942
・満鮮プロ1941
満州プロ2位1942(36H毎の試合方式ならば前半戦優勝)
・韓国プロ1958
・韓国OP5位1958


日中・太平洋戦争及び朝鮮戦争の動乱を乗り越え韓国プロゴルフ界の重鎮として活動した延は、韓国独立後に起きた朝鮮戦争の際に日本OP杯を紛失してしまったことで悪し様に言われてしまう事も在ったが、日本のゴルフ史においても、もっと評価されてしかるべき人物である。
※紛失については朝鮮戦争の際に自宅に埋めて隠すも盗まれた説と、1966年に韓国ゴルフ協会副会長、金東濬(合同通信社会長、戦前からのゴルファー)が来日の際、彼をJGAへ案内した読売新聞の赤坂大輔に語った、“延は戦時中朝鮮銀行に預けていたのが行方不明になった”説の二つがあり、筆者は『戦時中自宅に埋めて供出を回避した後朝鮮銀行に預けた』か『戦時中朝鮮銀行に預け、朝鮮戦争勃発後自宅に埋めた』のどちらかではないかと考えている。

延のプロ就任後の朝鮮のゴルフ界には太平洋戦争開戦前後までに青松某、高山根春、林雨潤といったプロが朝鮮や満州のプロ競技に出場していた事が確認できるが、彼らは終戦・独立から朝鮮戦争までの間にどう成ったかにはたどり着けなかった。
※なおハワイには太平洋戦争前にはキム(金)という朝鮮系の青年プロが居たことが、日系プロの白井東洋(Toyo Shirai、デヴィッド・イシイの師)の紹介と共に『Golf Dom』に同地から寄稿されたレポートに記されている。

さて、筆者が挙げたいのは延よりも前に、朝鮮にはプロがいた事実が全く忘れ去られている事に異議を唱えたいのだ。
決して朝鮮・韓国人初のプロである延の功績を腐したいわけではない。ただ記録が残っていながら忘れ去られている彼が不憫で為らないのだ。
 そのプロの名前は出口寛治。移転前の京城GCに所属しており、延の先輩にあたる。

朝鮮のゴルフ界については、京城GC会員の高畠種夫(1884.6~?、満州遼東半島の新聞社の京城支局長を経て日中戦争期には燃料会社代表取締役)が1928年から発行していた『ゴルファー』という雑誌と、1938年から朝鮮ゴルフ連盟が発行した『クラブライフ』というものが在るのだが、独立後の日本色の排斥や朝鮮戦争による動乱及び都市部の潰滅(なにしろソウルを獲られたり取り返したりが繰り返されたのだから)から散逸したとみられ、現存し所在がはっきりしているのはJGAミュージアムの西村コレクションだけではなかろうか(後者は小笠原勇八の許に送られていた事を本人が記しているので、残っているかもしれない)

京城GCは、1919年に南満州鉄道運営の朝鮮ホテルの付属施設として、ソウル近郊の李王家の陵墓孝昌園周囲の国有林を借り、“六甲のヌシ”H.E・ドーントが設計したコースで(彼曰く、大まかなルートは既に切り開かれており、自分はバンカーやグリーンの位置を決めた位だ。との事)ゴルフを覚えた者達が、京城市民による敷地の利用要請の為にコースが閉鎖されるにあたり、清涼里近郊の李王家の陵林を借りて新コースが造られ、それに合わせて1924年に独立した倶楽部が発足(かつ社団法人認可)された経緯を持っている。

その倶楽部発足前の『Golf Dom』1923年1月号の『京城通信』の冒頭には
『当地にはプロと云うほどの者はなく、倶楽部の番人に可也出来る男が居るが、教える程の自信が無いのか、あまり初心者に教えてくれず~』
という趣旨の文が述べられているが、これは先の高畠が1940年に雑誌『Golf(目黒書店)』11月号に寄稿した『朝鮮のゴルフ小史』から鑑みて、夏井千吉という門番兼キャディーマスターの様だ。

それによると当初彼は、プレーヤーではないが船員時代に各地でゴルフを見た事があった為、『知識がある』として(グリップの仕方ぐらいしか知らなかったと…)その職に就き初心者に教えもしていたというのだ。

今からみればビックリするような話だが、ゴルファーであった有吉忠一が朝鮮総督府の政務総監として着任し、彼によって朝鮮ゴルフ界が本格始動し、本場でゴルフを覚えた内務局長の大塚常三郎が欧州から帰還し同行の士らに種々解説をするまで、孝昌園に集まった日本人ゴルファー達は銘々自己流で行い、草鞋に脚絆・後鉢巻きの格好でコースに出たり、『球転がしなんて日本男児に相応しくないっ』とパッティング抜きのゴルフをしていた話や、その後も外国人ゴルファーが300yd前後のホールを2打で乗せた時に一同“さすが本場の人は違う”と驚愕敬服した話も残っているくらいだから、当時の面々の腕前は推して知るべし。

そんな有様であったが、清涼里にコースが移って京城GCが正式に発足した際にプロの福井覚治を招聘し、1926年夏~秋にも、程ヶ谷CCを退職した中上数一が滞在してレッスンに任るなどして、会員一同技術の向上やプレーの認識を改めるなどしていくのだが、その頃、孝昌園から引き継ぎでコース従業員をしていた高井某の親族であった出口寛治はクラブハウスに住み込みで手伝いをし、倶楽部ハウスの管理人の様な仕事をしていた。

彼は働いている内に “門前の小僧”式にゴルフを覚え、相当上達した為に会員たちの間でも話題になり、一同彼を内地の倶楽部(程ヶ谷CCらしい)へ留学に送り出し、数カ月の研修をへて帰還後正式に京城GCのプロとして採用したのだという。

筆者は2018年4月にJGAミュージアムへ資料の閲覧に行った際に、『ゴルファー』の合本を見る機会があったが、当時は『The Bunker』や『阪神ゴルフ』等のここにしかない資料を見ることが最優先で、同誌をしっかり読む時間が無かった為1928年分のみ流し読みしか出来ず、故に書いてあった内容が思い出せなくなり、出口の名前がチョコチョコ出てきた事だけは覚えていた。

※この項の執筆は2023年5月下旬から手を付けていたので、下記の記述からの齟齬が出るのはご容赦頂きたい

それから5年が過ぎた2023年の7月下旬に、中国のゴルフヘリテージ協会の会長で、アメリカと行き来しながら、英国の諸借地時代から第二次大戦前までゴルフ場が在った故郷の威海でゴルフ博物館を運営されていた(11月から深圳のゴルフ場との提携で同地に博物館を新設された)邢文軍氏(シン・ウェンジュン、英語名ウェイン・シン=Wayne Xing)ご夫妻がJGAミュージアムを訪問の為来日し、メールでやり取りをしていた筆者が道中案内をする事があり、
ミュージアムでは筆者は(事前に許可を貰って)資料閲覧をする機会が在ったので、中国ゴルフ史の研究と書籍の執筆をしている邢氏に『Golf In Manchuria』の内容を確認してもらう(これは次の件と共に筆者の目的の一つであった)と共に、もう一度『ゴルファー』を確認した所、
先の夏井について1931年8月号掲載の連載記事『京城ゴルフ史(1)』のP22に『孝昌園に於ける當時のプロ夏井のフィニッシュ』という、グリーンでパッティングをしている彼を写した遠景写真が掲載されているのを発見した。

なので彼はゴルファーであったのが確定したが。この『プロ』という表現については、発行者の高畠が先述の『朝鮮のゴルフ小史』では触れていないので(しかし両方の文体からどちらも高畠が書いているのは間違いなさそうだ)、どの様なポジションであったか。
少なくとも“職業ゴルファー”であった事は間違いないが、彼が出口よりも先の朝鮮最初のプロなのかを示す詳細を確認するだけの時間が無かったのが無念である。


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この書き物の主人公である出口寛治については、1929年1月号の12ページの飯泉幹太による『昭和三年度の京城ゴルフ界を顧みて』に
『ハウス、キーパーの出口の進歩は実に驚くばかり、内地のドンナ、プロが来ても敢て遜色はあるまいと思ふ。獨修玆に至る彼の努力は賞するに餘りある。實に彼は京城の生んだ唯一の天才だ。來年あたり内地のプロ戦に出してアツト云わしてやりたいものだ。
近く修業を兼ねて内地に派遣するとの事だから一層磨きをかけて還つて來るだらう。
來年君子里の新コースで彼の親切なレッスンを受けたら我クラブの連中も見違へる程上達するだらう。(兼のみ常用漢字、他原文ママ)』
と記されている事から、これが高畠が『朝鮮のゴルフ小史』で記した、出口が留学する前正式にプロに成る前の状況を記したモノだろう。

JGAの記録にも出口の名前は残っている。彼は1931年の日本OP(10/31~11/1)に京城GCから参加しているのだ。しかしその数日前に行われた(JGA主催第一回の)日本プロには参加していない事から、参加資格が無かったのか、それとも日本OP一本に出場を絞って居たのか。

この年の日本オープンは彼が留学したという程ヶ谷CCでの開催で、その第一ラウンドで78と悪くないスコアで12位につけていたが、午後の第二ラウンドで94と大崩れをして合計172で予選落ちをしてしまった。
(この時は優勝する浅見緑蔵が67・70=137で前半を廻り、当時は20打以上差の付いた者が予選落ちとなる規定であったので、参加者42人中予選通過は10人という異常事態となった)
 
出口のその後については高畠の『朝鮮のゴルフ小史』によると、彼はコースが(延がゴルフに出会うことに成る)君子里へ移転する頃に不行積をしてしまい解雇され、以降行方不明になってしまったのだというが、先述の『昭和三年度の京城ゴルフ界を顧みて』でも少し触れられているが、コースが移転したのは1929年6月であり。
これまでも日本OPの記録と、筆者が2022年に入手した1931年日本版マグレガーカタログに京城GC所属である事が書かれているので、“解雇時期は日本OP以降であるのは間違いない”と考えていたので『ゴルファー』を再確認すると、1931年12月号の『1931年を顧みて』というコラムで、
“出口が日本OPに出場し、結果の如何に拘わらず少なくとも内地のそれ(ゴルフ界)に朝鮮(のゴルフ)を認めさせたという事だけでも非常な出来事の一つであるという事が言えよう。”という内容の記述があり。
翌年の1月号の巻頭コラムにも宮本留吉・安田幸吉・浅見緑蔵のプロ三名が前年末からアメリカ遠征に出ている事は日本のゴルフ史において重要な1ページである事を紹介し、それに合わせて
『更に之を小さく我らの朝鮮から見ると、重大な改革の年であったといへよう、それは京城のプロフェッショナル出口が初めてジャパンゴルフアソシエーションのオープンゴルフトーナメントに出場した事である、之れは要するに吾等朝鮮のゴルファーが、漸く内地のそれに認められんとしつつある階梯の現れであると云ふべきである、(後略、原文ママ)』
と彼の動きを非常に評価している。
しかしそれ以降彼の動向が出てこず、高畠のいう解雇の時期も解らなかった。

1月号の各地ニュースの項に京城GCが3月31日に行った定時総会(前年度の決算、新年度の予算や承認の件、委員改選)の記事には何も報じられておらず、
5月号の各地ニュースの項に6月16日の倶楽部委員会で『プロフェッショナルの雇い入れの件は兎も角も傭入れの方針に決定した。』とあり
後述する5月23日に開催されたキャディトーナメントの記事では彼の事が全く出てこないので、3月の総会の後からこの時までの間に何か問題が発生して、倶楽部を自ら辞めたらしい。
というのも、 7月号の各地ニュースの項に、『出口の辞任後の京城GCでは、専属プロの雇用について久しく詮衝中だったが』という記述がある為だ
なお、新任のプロとして赤星四郎(東京GCでキャディ委員をしており、有望な少年たちを各地の新設クラブのプロとして送り込んでいる)の斡旋で、我孫子GCの専属プロである平松勇の次弟で駒澤に居た平松俊を雇用することに決定し、彼は8月8日京城に到着し翌日からメンバーに対してレッスンを開始している事が報じられている。

これに就いて、韓国のゴルフ記者キム・デジン氏がニュースサイトG. ECONMYに掲載した(2020.8/27)延の評伝である、“[기획시리즈] 한국의 프로골퍼...① 최초의 프로골퍼 연덕춘(延德春)”に、延が1932年に年上の甥がキャディーマスターであった縁で彼のアシスタントとして京城GCで働き始めた当時、倶楽部には“シラマス”という日本人プロがいて、彼はキャディをはじめとする従業員にもゴルフを教えており、延もその一人であったことが書かれている。

 文中、延がプロになった経緯として、彼の才能が認められ1934年に内地留学をしたのと、“シラマス”が病気退職をし、プロが空席となったので、クラブが朝鮮出身者をプロとすることを決めた。とあるが
 この“シラマス”は先述の平松俊であろうし、クラブメーカーのアリガゴルフの前身であった臨海ゴルフ練習場のプロとして、平松勇の弟である平松季敏というプロが1935年1月頃まで所属していたが、(所属し始めた時期が1932年の開場からの可能性もあるが)同一人物であれば辻褄が合う
※『ゴルファー』を閲覧したときは彼の去就の時期を調べるだけの時間が無かったのが先述の夏井千吉の件共々無念だ

また、平松が赴任する前の1932年5月23日に京城GCではキャディ委員の肝煎りでキャディトーナメント(参加希望者が多かったので4月から選定が行われた)が行われているので、シラマス=平松は委員からキャディらにゴルフを教えるように命じられていた可能性は大きい。


 話を戻し、出口がプロの職を去らねば成らなかった件に関し、高畠の云う“不行跡説”に関して彼のために書くが、当時のプロゴルファーというのは、ゴルフ倶楽部従業員に毛が生えたような扱いで(かの宮本留吉も当時の自分等のことを男衆=使用人と回想している)、品行について非常に厳しく、今だったら個人の事として余りとやかく言われない事も処分の対象となり。
有名な戸田藤一郎の1937年の解雇、41年の除名(そして49年の追放)のように、将来有望な青年プロが身を誤って解雇され、新しい職場に就くまで浪人したり、それきり行方不明になった事例はままあり。ひどいモノでは “どこの倶楽部でも雇わないように”とお触れが出る凶状持ちとなった話もリアルタイムの座談会で出てくる。

プロゴルファーという仕事が出口にとって青年期の一ページであったのか。また、その後の大戦や引き揚げで屍をさらしたかは判らない。
筆者としては彼が戦後もどこかでクラブを握っていてほしいと願っている。

                              ―了―
                      2023年10月25日~2024年1月4日記
                      2024年2月3~6日補訂編集

 


主な参考資料
・新版日本ゴルフ60年史 摂津茂和 ベースボールマガジン社 1977
日本ゴルフ協会七十年史 日本ゴルフ協会 1994
・霧の中のささやき 編著・棚田眞輔、編集・神吉賢一、監修・松村好浩 交友プランニングセンター 1990
・Macgregor Golf Goods 1931 (松屋運動部版) The Crawford, Macgregor and Canby Company  訳イシイカジマヤ? 1930乃至1931
『Golf Dom』
1923年1月号 P25 朝鮮銀行F. T.氏 『京城通信』
1936年4月号P64 『ぷろ・ざつきちよう』より『朝鮮最初のプロ延徳春』
1941年6月号P19 延原徳春(延徳春)『日本オープンに優勝して』及びP22-23『オープンの經過―延原徳春選手輝く制覇』
『ゴルファー』
1929年1月号P12 飯泉幹太『昭和三年度の京城ゴルフ界を顧みて』
1931年8月号P20-23 著者無記名(高畠種夫?)『京城ゴルフ史(1)』
1931年12月号 P7 K.T.生『1931年を顧みて』
1932年1月号P4『1932年を迎えて』
1932年1月号P12-『各地のリンクス』
1932年5月号P5-7中村巖『キャデーゴルフトーナメントに就いて』
1932年5月号P15-『各地のリンクス』
1932年7月号P15-『各地のリンクス』
『Golf(目黒書店)』
1940年11月号P44-51,54 高畠種夫 『朝鮮のゴルフ小史』
『ゴルフマガジン』
1966年6月号 『ずいひつ』掲載 赤坂大輔『韓国のゴルフ』
『週刊パーゴルフ』
1981年5月12日号 小笠原勇八『真相日本のゴルフ史㊴ 六度目の挑戦で遂に日本オープンのチャンピオンになった延徳春の力の秘密』
以上JGA新旧本部資料室・書架、JGAミュージアム国会図書館および筆者蔵書から閲覧

[기획시리즈] 한국의 프로골퍼...① 최초의 프로골퍼 연덕춘(延德春)
김대진(キム・デジン)筆 G. ECONMY 2020.8/27掲載
以上HYPERLINK "http://www.geconomy.co.kr/news/article.html?no=17978"http://www.geconomy.co.kr/news/article.html?no=17978から閲覧

 

 

 

 

 

 

(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)