ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

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掘っくり返し屋のノート-埋もれた選手権記録-『転機、1918年日本アマチュア選手権』

 

日本の競技ゴルフ史に於いて、日本アマチュア選手権は1907年の第一回大会から1915年迄の大会は外国人の選手権であった。神戸GCと横浜根岸のNRCGAが持ち回りで開催をしており、加えて日本人の参加が無かった為だ。
その為に“在留外国人間の私的競技”などと評する史家・研究者もいた。
と云っても開設時から間口は世界中に開かれ、極東の各倶楽部にも参加呼びかけをしていたのも事実で。1909年に上海と香港からの参加者があって以降、時々極東から乗り込んでくる者達がいた(時代は後になるが1920年大会はアメリカのプレーヤーが参加している)。

さて、邦人ゴルファー最初の大会挑戦は開催10年目の1916年根岸大会で、東京GCのメンバーでアメリカ仕込みのゴルファー、一色虎児が唯一参加したのだが、結果は98・102の200ストロークで、優勝者E.I.M・バレット大尉(上海GC)から43打差の14人中13位であった。
これは当時の記事を見ると、酷い土砂降りで皆ティアップをすると(当時は砂や土)泥まみれになってしまった。という悪コンディション下(大谷光明によると台風直撃下で開催した1931年大会まで有数の悪天候と考えられていた)で行われた事に加え、他の外国人参加者達から、球が動いたとかスコアが違う等の難癖を付けられ、実力が発揮できなかったという。
一色の挑戦は散々な結果に終わってしまった。が、しかし、彼が先陣を切った事は大きかった。彼の応援と観戦に来ていた川崎肇は自身のドライヴが外国人ゴルファーと変わらないことから『練習次第でチャンスが有る』と確信した事を、後年回想している。

そして翌17年から日本人の参加が出ている。この年の六甲大会は去年まで優勝者以外の記録が不明であったが(今もそうである方は筆者が書いた『105年の霧の中から』をお読み下されたい)、大谷光明が参加した事を本人が1926年に萬朝報刊行の『新日本史4巻』に、1936年には雑誌『Golf(目黒書店)』1~3月号で連載した『日本アマチュア選手権物語』内で書き残しているが(3月号掲載)、その回想と大会の顛末が記された週刊版『Japan Cronicle』や『The Japan Gazette』の記事(後者は『Kobe Herald』の転載)では、
試合は(午後の)濃霧でフェアウェイでもロストボールになる始末であったといい、参加者二十名のうち半数が棄権する異常事態となり。順位表に大谷の名前がない事から、彼も濃霧に苦しんで棄権した十人の中に含まれた模様である。

さて、翌年の1918年大会になるのだが、この年は従来の持ち回りとなる横浜根岸ではなく、駒澤の東京GCで開催された。
この事について、前年の神戸GCと東京GCとの対抗戦が大きく関っているとする見解が東京GCの年史に記されている。
試合は日本側の全敗であったが、個々の対戦ではそこまで差の無かった為、神戸側も定期的に対抗戦を行っていた横浜のNRCGA同様に日本人ゴルファーの底上げを感じたのだろうし、それまでにも大谷光明や川崎肇らが夏季休暇で滞在し、神戸GCの競技で好成績を収めているのも関係しているだろう。

この大会は、邦人ゴルファー(東京GC会員)が多数参加し、日本人が初めて日本アマチュアを獲った記念すべき大会であるのに対して殆ど資料がなく。これまではH.E・ドーントが刊行したINAKA第十巻掲載の、『Golf in Yedo』で引用された『The North China Daily News』の記事が唯一の記録と云え、上位8名の順位しか乗っておらず参加人数も不明のままであったが、これが西村貫一の『日本のゴルフ史』に於いて資料に使われた模様である。

戦後、摂津茂和が『日本ゴルフ60年史』執筆の際に参加者であった井上信や大谷光明に尋ねたのだが、両者から“昔の事で覚えていない”と返答があった事を同著で書いており、戦前のゴルフ記者からJGA事務局長を経た史家の小笠原勇八も、この事を井上から聞こうとしていたが諸事情で叶わなかった(後述)

筆者も英字新聞には何か載っているだろうと探してみたが、探せば出てくるモノで、東京の英字新聞の『The Japan Advertiser』に記事が有ることを発見した。
(よくよく考えると先述の『INAKA』でも該当号が紹介されていたのに筆者は忘れていたのだ!)
裏付けを得る為、後日横浜の『Japan Gazette』や、『Japan Times』も調査したが、どちらも従来試合が行われたとされている9月21日付の紙面に『翌日(9月22日金曜日)に大会が始まる』という囲み記事はあるが、試合結果は見つけられなかった。
これは当時欧州(第一次世界)大戦が佳境を迎えていたので、少なくともその報道に力を入れていた前者は、ページを割く余裕が無かったのだろう。

ともあれ、この大会を報じる10月3日付の『The Japan Advertiser』、そして『INAKA第十巻』掲載の『Golf in Yedo』と、その中で転載をされている『The North China Daily News(号数不明)』を基に、この年の大会について記していこう。

まず参加人数について、先述の摂津の質問に“昔の事で~”と返信をした大谷は『外国人と日本人が半々くらいで20名ほど参加していた。』と答えている。
小笠原は1972-73年間に『週間アサヒゴルフ』で連載していた『人物百話』及び1979-87年間に『週刊パーゴルフ』で連載していた『真相日本のゴルフ史』で、26人参加(前者では日本人参加者は10名としている)と書いているが、
これは1937年の『Golfing』5月号掲載『全日本アマチュアの由来』に『参加者二十六名中、日本人プレーアーは十人内外に過ぎなかつた。(P16、原文ママ)』と記載されているので、それを出典とした事が考えられる。
しかし両氏の記述は決定打には至らず、JGA70年史の競技記では参加人数不明と記されて現在に至る。

『Golfing』で記された26人説は、1919年大会の参加者が同数かつ東京GCの会員が8人(氏名は後述)出場しているので、これが誤伝して居る可能性は捨てきれない。
というのも『The Japan Advertiser』に掲載された外国人の参加人数を見ると、神戸2名、横浜4名、(そして未記載だが)上海1名の7人である事が記されている為だ。
日本人サイドについては、人数は不明なのだが、8位までの順位表に名前が残っている日本人が6名である事や、当時の規定の“参加資格ハンディ10以下”を考えると6~11人、総計13~18人位の参加人数では無かったか。と筆者は推測する。

この外国人たちの参加数の少なさについて、紙面によると欠席者とビジネスの関係で出られなかった者が結構居たらしく、『外国人勢力は悲しむべきことに弱体化した』と報じられている。
この大会の前後に行われた東京横浜対抗戦は駒澤で行われている模様なので、なぜ横浜チームの面々が選手権の方にも出場しなかったのか。と考えるとやはり仕事の関係であったのだろうか。

会場の東京GCは当時9ホールのコースで在ったので、4回廻って規定の36ホールを消化する試合方式となった。
また、ヤーデージは2563ydパー33・ボギー37の、世界的に見れば短めのフラットコースであるが、当時の日本では(余りゴルファーが居なかった箱根仙石と雲仙を除けば)NRCGAや鳴尾に比べて一番長いコースであった。

 

 

 

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大会当日は天候にも恵まれ、(グリーン委員の念入りな準備で)コースコンディションも手配も最高の状況であったと報じられているのだが、最初の9ホール、しょっぱなから波乱が起きた。
スターターを務めた上海から参戦者で、今回も優勝候補の一角とみなされていた16年勝者E.I.M・バレット大尉が、ティショットで松林の切通しを抜ける形になる361ydの1番ホールで酷いミスをし、9を叩いて早々と脱落したのだ(彼はこのホールでその後の3廻りも7平均を打っている!)。

翌年『INAKA第十巻』で駒澤を紹介した六甲のヌシH.E・ドーントも、553ydの3番ホールでティから数yd前方の細い松の木に当てるミスをしており、笹やぶとツツジや矮化した松の灌木しかない様な禿山に造られた神戸GCと、競馬トラック内の盆地に造られたNRCGAのコースとはとまったく違う(ちなみにバレット大尉の所属地の上海GCのコースは、江湾競馬場の広くフラットなトラック内とその周囲に造られていた)、松や杉林を潜り通り抜けていくレイアウトの駒澤に外国人プレーヤー達は苦しめられた様である。

しかし、バレット大尉は1916年までに当時の駒澤のアマチュアコースレコードの73を記録している人物である。
彼に何があったのか?と『INAKA第十巻』の『Golf in Yedo』で引用された『The North China Daily News』の記事(日付不明、『Kobe Herald』が10月9日付で転載との事)や『The Japan Advertiser』を読むと『練習不足でフォームにガタが出ていた』とある事から(『Japan Times』では『今年は非常に調子がいいんだ』と述べていたのに!)、遥々乗り込んできたと云うに何という体たらくであろうか⁉
しかし『Japan Times』の前日記事では数日前に日本に到着した旨が記されているので、航路の疲れと満足な練習ラウンドが出来なかったのか。

東京GC倶楽部史や『INAKA~』には、駒澤は彼等邦人ゴルファーのホームコースで、彼らは大会前から日参して毎日調整をしていた話に加え、外国人プレーヤーはコース攻略に関して無頓着であった事や、バレット大尉の件などが記されているのを鑑みるとローカルナレッジの有無が明暗を分けた事は間違いないであろうが、新聞記事では日本人ゴルファーの奮戦が評価されている。


大会記事には各位の詳細なプレーが報じられていない為、結果に跳んでしまうが、東京GC会員の井上信が同じく会員の川崎肇に一打差で優勝。更に上位5位は皆邦人ゴルファーであった。(6位はバレット大尉とタイ)。
井上は三井物産ニューヨーク支店勤務時代から各地の倶楽部競技に優勝している名手として知られていたが、この年帰国して東京GCには入会間もなく、ローカルナレッジが無かった為に優勝候補とはみなされていなかった。
しかし彼は安定したゴルフを見せ、午前の一・二周目が38・42=81、午後の三・四周目は39・37=76と尻上りにスコアを良くして156という好スコアを記録し、日本人最初のアマチュア選手権勝者の栄誉を得、『The Japan Advertiser』は彼の事を『あらゆる面で完成されたゴルファーで、勝利に値する』と評している。

前評判ではバレットと並んで優勝候補とみられていた倶楽部生え抜きの”熱心者“川崎肇は井上と競り合い、チャンスが在ったのだが、4廻り目の終盤でプレッシャーに潰されてしまい、林に囲まれている最後の2ホールでスコアを落とし、2打差の2位と涙を呑んだ。
この惜敗について同記事は
“しかし彼は立派な努力をした、きっと彼の時代が来る。それは間もなくだ。”
と慰めの文を送って居る。

筆者が意外に思ったのは3位の大谷光明のプレーで、なんと彼は前半で88を打ち、望みが薄い中を午後のラウンドで76を出し3位に急浮上していたのだ。このため『The Japan Advertiser』に“大谷のビックリ箱”の題のもとに『とても見事な出来栄えだ』と賞されている。『The North China Daily News』の記事でも、そのフォームが改善されている事を報じている。

井上のスコアはこの年に同地に滞在し、レッスンに当たった上海GCのプロ、サミュエル・グリーンが述べた『優勝スコアは39平均に成るだろう』という予言通りのモノであった。
そしてグリーンはこの滞在中、飛距離に悩む日本人ゴルファー達に、自身の体格が彼等とそう変わらなくても遠くへボールを飛ばすことが出来る事を身をもって示し、ロングゲームの改善に一躍買って居る事も、日本人ゴルファー達の躍進に少なからぬ影響を与えただろう。

判明している順位は以下の通り
1:井上信(駒澤)     38・42・39・37=156
2:川崎肇(駒澤)            158
3:大谷光明(駒澤)       88・76=164
4:高木喜寛(駒澤)           168
5:一色虎児(駒澤)           173
6:E.I.M・バレット(上海)       178
6:高木兼二(駒澤)           178
8:A.P・ブレンコゥ(根岸)       182

井上と川崎のスコアが抜きんでている事や、大谷の奮戦は兎も角として、5位以下が86.5・89・91平均というハイスコアである事は、日本人プレーヤーにとってはプレッシャーによるモノであろうし、外国人プレーヤーでは先述の様に練習不足に加え、いつもプレーをしているのとは全くタイプの違うコースレイアウトの駒澤に酷く苦しめられたモノと観られる。

実のところ『Japan Advertiser』の記事の冒頭に“井上の勝利”という結果が出ているが。その中で
“彼の勝利は間違いなく日本ゴルフ界への勇気づけになるであろうし、井上氏の仲間たちも急速にゲームの改善をしている事から、将来日本人が同選手権、それも彼らのホームコースで独占する事が有得ない事とは言い切れない。”とある。

前記の外国人選手が少なかった事に就いても記事の末尾で触れられているが、その中で
“神戸から二名の代表を送り、横浜からも四名参加したが、彼らは井上・川崎氏らに全く敵わなかった。選手権において東京GCから彼等紳士の様な腕前のプレーヤーが生み出される限り、外国人ゴルファー達は『名誉を喪わぬよう勉むべし(look to his laurels)』”
と締め括られていることには注目したい。


優勝の井上はアメリカから帰国して三カ月そこそこであったが(先述の『Golfing』の記事では“帰朝月余にして参加”とある)、先に述べた様に三井物産社員として在米時代に所属倶楽部の選手権に勝つなど、ニューヨークの邦人ゴルフ界では名の知れた存在であり、帰国後もショートゲームに非常な強みを持つプレーヤーとして認識されていたので、下馬評通りともいえ。『INAKA第十巻』内の『The North China Daily News』でも『どこから見ても完璧なゴルファー』と評されている。

小笠原勇八は、戦後この時の事について井上に訊ねてみようと、彼の消息を折に触れて関係者に尋ねたが、井上がゴルフから遠ざかっている事を聞き(井上本人の遺稿によると “病気をしたせいもあるが戦後はゴルフをやって居ない”との事)、無理に訊ねる気を無くした事を1972-73年間に『週間アサヒゴルフ』で連載していた『人物百話』における井上の項に書き残している。

筆者は2016年頃、国会図書館で『ゴルフマガジン』1954年8月号に掲載された高島文雄による日本アマチュアの歴史の記事を読んでいた際、その前年に“井上が別誌で当時の事を回想している”という記述に偶然出くわした。
2018年にJGAミュージアムで資料を閲覧した際に、国会図書館JGA本部資料室(当時)に無かった『Golf(報知新聞)』1953年合本を開いてみたら、7月号に『ゴルフ生活44年』という題で上記の高橋が触れた井上の寄稿文が掲載されていた。

“日本アマチュア優勝から35年後に彼が語ったトコロは”と意気込んでその記事を読んだら、井上自身がそのキャリアを振り返ったそれには、確かに日本アマチュアの事も触れているのだが、アメリカ時代の話が大部分で一番感慨深かったという倶楽部選手権初勝利の際の苦闘にページを割き、日本アマチュアの勝利については“その時程の感慨はなかった。”という内容の簡素な記述しかなかったのだ‼ 

日本ゴルフ史における外国人ゴルファー優勢の状況を変えた出来事であるのに。と読者諸兄は思われるだろうが、当事者としては得てして“そんなもの”なのであろうし、さらに、在米時代は倶楽部競技とはいえ選手層が厚く強豪も参加したメトロポリタン地区の各試合に出ていた井上としては参加者十数人そこそこの日本アマチュアの大会規模や、選手層からそう感じてしまったのは致し方なかったのかも知れない。

一方、彼の没後縁の深かった程ヶ谷CCの50年史に掲載された遺稿(元々40年史の為に書いたのだが印刷の直前に“載せないでくれ”と井上が頼み取り下げに成った物)には、
『~1918年前の優勝者はみんな日本在住の外国人で、その当時、なんとかして日本人が優勝したいと、われわれは一生懸命練習にはげんだものだった。幸いに自分が初の優勝をとげたことは、僕自身の欣びは勿論だが、日本のゴルフ界に非常なセンセーションを捲き起したものだった。(P29,原文ママ)』
と記されている


ともあれ、この大会結果によって、駒澤雀達は“自分たちは外国人ゴルファーに負けない”と自信を付けたのであろう。
それを証拠に翌19年の根岸大会では、大会一週間前に『The Japan Advertiser』で発表された組み合わせ表を読むと、川崎、大谷、田口一太、浅野良三、福井藤吉、田中善三郎、モーガー(Mauger=メージャーとも、JGA創立会議時の東京GC代表者)、高木喜寛ら駒澤雀の名前が記載されており(1919年10月14日付掲載)、一過性のモノではない事が伺わせられる

そして大会では前年と違って従来通りの数の外国人選手を向こうに回し“敵地”に乗り込んだ川崎と大谷(二人とも事前に葉山の別荘から根岸に通って打ち込みをしていた)が1・2フィニッシュをし、前年の井上の勝利同様、日本人の勝利がフロックではない事を示した。
そしてここから完全にゴルフ界の潮目が変わり、日本人による日本アマチュア選手権席巻そして日本のゴルフの主導権を握っていく事へと繋がっていったのである。
現在の日本人の競技ゴルフの大元は駒澤雀の奮戦があり、勝利の先鞭を齎した井上の名は日本のゴルフが続く限り讃えられるべきである。

                         -了-
                        2023年7月21日記 8月12日補足

 

 

 


主な参考資料
・新版日本ゴルフ60年史 摂津茂和 ベースボールマガジン社 1977
・東京ゴルフ俱楽部50・75・100年史 東京ゴルフ倶楽部 1964,1991,2015
日本ゴルフ協会七十年史 日本ゴルフ協会 1994
・日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂 1995(復刻第二版)
・霧の中のささやき 編著・棚田眞輔、編集・神吉賢一、監修・松村好浩 交友プランニングセンター 1990
・程ヶ谷の50年 程ヶ谷カントリー倶楽部 1972 より 井上信『あれこれの思い出(遺稿)』
・『The Japan Times』 1918年9月21日付4面
『Japan Golf Championship- Tokyo, Yokohama, Kobe Shanghai Players at Tokyo Golf Club Sunday.-』
・『The Japan Gazette』 1918年9月21日12面『Golf Championship of Japan.』
・『The Japan Advertiser』 1918年10月3日付2面 『Japanese Golfers in Brilliant Form – Big Events at Tokyo Show Improving of Japan ese Players- The Amateur Champion- Inouye’s Fine Steady Play- Tokyo Wins Inter-Town Competition-』
・『The Japan Advertiser』 1919年10月14日付6面『N.R.C. Golf Matches Commence on Friday-Amateur Championship of Japan to Be Deeided on Negishi Links』
・『The Japan Advertiser』 1919年10月21日付6面『Kawasaki Champion Amateur Golfer of Japan』
・『INAKA第十巻』Child of mist(H.E・ドーント)『Golf in Yedo』
・『Golf(目黒書店)』1936年1~3月号 大谷光明 『日本アマチュア選手権物語』大谷光明
・『Golfing』1937年5月号P16-23 N.F.生『全日本アマチュアの由来』
・『Golf(報知新聞)』1953年7月号 井上信『ゴルフ生活44年』
・『ゴルフマガジン』1954年8月号P43-47 高島文雄『日本アマチュアゴルフ50年 駈け足で描いた日本のゴルフ史』
・『週間アサヒゴルフ』1972年5月31日号 P58-59 小笠原勇八『人物百話-3- 井上信』
・『週刊パーゴルフ』1982年10月19日号小笠原勇八『真相日本のゴルフ史Part2日本トーナメント史を探る 連載23日本アマチュア選手権編 JGA創立と外人凋落で名実ともに日本人のものとなった日本アマ選手権』

資料はJGA旧本部資料室、JGAミュージアム国立国会図書館及び筆者蔵書より閲覧

 

 

(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)