ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『関西初期ゴルファー珍談奇談』・8

                8
国内最初のパブリックコース、長崎の雲仙GLに於けるカラスのボール攫いは今も有名で、俳優の早川雪舟がプレーをした際にそんな目に遭ったのを記念して、カラスを追いかけている自身を描いた漫画絵が友人によって『Golf Dom』に掲載されたり、民俗学者柳田國男民俗学の観点からの考察を新聞に寄稿をするなど戦前期にも注目されているが、関西で最初の日本人による倶楽部であった舞子CCもそれが酷かったらしく、海外のゴルファーによる紹介や、会員であった伊藤長蔵が1927年に『Golf Illustrated』に寄稿した、日本のゴルフ紹介文『Golf and Golfers in Japan』(翌年発行の『Golf In Japan』の原文か)でもそのことが触れられ、開場から二年少々の1923年1月時の『Golf Dom』の記事には冬期に“それ”が酷く、倶楽部内では『キャプテン南郷(注=倶楽部発起人の南郷三郎)カラスでクロー(Crow)する』という洒落が在ることを報じている。

 その記事にあるのだが六甲の神戸GCと同地で対抗戦(記録では1922年11月26日、ちょうど冬に入った時だ)を行ったときの話。舞子の面々が六甲の選手達に、『ウチではカラスがボールを盗るから用心しなくてはならないよ』と注意を促すのだが、六甲チームのKさん(この時のメンバーL.S. Kibbleの事だろう)、今までそういう目に遭ったことがないので、『ンなこと有るものかい』と一笑に附していた。が、これをカラス先生が聞いていたやもしれない。
 午前のシングル戦が終わり、昼休みを挟んで続く午後のフォアサム戦、Kさんは1番ホールのティッショトに取り掛かった。

このホールは250ydを少し切る当時としても短めのパー4であったが、谷を越えて少し上がる、キャリーが230yd以上ないとグリーン周りには届かないレイアウトのホールで、会員で上の段に届かす人は殆どおらず、この1~2年後に会員の広岡久右衛門付き別荘番(兼書生)の宮本留吉がこのホールを1オン出来るかどうかを会員一同見物していた位であった。

加えてこの日は前日から朝にかけての雨の吹き戻しか、寒風が吹きすさぶコンディションであったという。そんな中Kさんの打ったショットは見事な当りで谷間を越え、グリーン傍に落ちて止まった。
おお、と目をやる一同であったが、直後に顔色が変わった。ドコからかやって来たカラスがKさんのボール(しかも新品だ)を咥えて持って行ってしまったのだ。
 あまりの事に言葉の無いKさん、思わず“舞子チームの面々がカラスに言いつけたのではないか”と云わんばかりに彼らを睨みつけてしまった。
あんまりなスタートであった為かKさんの組は4&3で敗れ、マッチの方もこの為か四対五で神戸チームが敗れてしまったのは、いつも悪戯をしているカラスが地元舞子チームの勝利に貢献したという事になるのだろうか?

 

 


主な参考資料
日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂 1995(復刻第二版)
神戸ゴルフ倶楽部史 神戸ゴルフ倶楽部1965
神戸ゴルフ倶楽部100年の歩み 神戸ゴルフ倶楽部2003
茨木カンツリー倶楽部十周年記念誌 茨木カンツリー倶楽部 1934 
茨木カンツリー倶楽部40年史 茨木カンツリー倶楽部 1964
鳴尾ゴルフ倶楽部五十年史 鳴尾ゴルフ倶楽部 1970
Naruo Spirit    鳴尾ゴルフ倶楽部 2021
Tarumi Golf Club 100th Anniversary倶楽部の歩みと記録 垂水ゴルフ倶楽部 2020
霧の中のささやき 編著・棚田眞輔、編集・神吉賢一、監修・松村好浩 交友プランニングセンター 1990
日本ゴルフ全集7人物評伝 井上勝純 三集出版 1991
私とゴルフと中国(上)鳴尾物語 上西荘三郎 1996
人間グリーンⅠ 光風社書店 1977
・大阪毎日新聞1927年9月8日~10月2日 ゴルフの人々
9月20日『村田省蔵氏』
10月2日『むすびの巻』
・『阪神ゴルフ』
1922年4~6月号 福井覚治『キャデーよりプロへ(1~3)』
・『Golf Dom』
1922年12月号『Nineteenth Hole』
1923年1月号『Nineteenth Hole』
1923年3月号『Nineteenth Hole』
1923年7~8月号So This is Golf!(1)~(2)
1923年4月号P24-25『舞子便り』
1924年9月号『鳴尾通信』より『18 hole Links開き』
1923年8月号『ムーンライトゴルフ』
1925年2月号P26-27『舞子通信』
1926年6月号『關東對關西レデース競技』及び、舞子の一人『駒澤所感』
1927年4月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々』
1928年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(8)』
1929年1月号ケーワイ生(吉田耕二)『Short Putt、Long Putt漫談數々(14)』
1930年8,10~11月号、1931年1月号、1932年12月号より、『ゴルフ座談会の記(2)~(4),(6)~(7完)』
1930年3月号 福井覚治『始めを語る』
1930年10月号 林愛作『駒澤になるまで』
1932年3月号 C. I. 生(伊藤長蔵)『彼れ氏のパター』
1940年5月号 丘人(伊藤長蔵)『宮本の修業時代(中)』
・『Golf(目黒書店)』
1932年9月号 大谷光明 『ベランダにて』
1933年2月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(二)六甲から駒澤へ』
1933年6月号 大谷光明 『ゴルフ思出の記(五)六甲はパットが苦手』
・『Golfing』 1937年2月号 『オールド・タイマア座談会ゴルフの今昔を語る』
・『ゴルフマガジン』
1970年7月号 『プロゴルファーの生活と意見 関西レッスン・プロの大長老 福井正一』
1975年3~4,6月号 柴田敏郎『日本プロゴルファー人脈探訪①~②,④』
・『アサヒゴルフ』
1978年8月号 宮本留吉『ゴルフ夜話73 サンド・グリーンの郷愁』
1981年4月号 宮本留吉『ゴルフ夜話 英国遠征の折、初めてネーム入りのセットクラブを注文』
・『歴史と神戸』1970年3月号 芦田章『神戸奇人伝(1)へちまくらぶの名物男 西村貫一』 神戸史学会
資料はJGA旧本部資料室及び同ミュージアム国立国会図書館所蔵及び筆者蔵書より閲覧

 

 

 

 

 

 

 


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